時間系SF短編集
七里田発泡
黄昏時間
閑散としたシャッター街通りの一角にひっそり佇む昔ながらの喫茶店に入店する。年季の入っていそうなダークブラウンの木製の椅子に腰かけると叔母さんがメニューを持ってやってくる。
いらっしゃいませと声を掛けられる前に俺は希望の品の名前を口にした。俺が頼むメニューはいつも決まっているからだ。
ペペロンチーノ。
時間は有限だ。キビキビいそいそと動かなければならない。俺に残された時間はあと幾何だろうか。俺は床に置いていたダッフルバックからどでかいタイプライターを取り出し、年季の入っていそうな薄汚れた机の上に置いて早速報告書を作成に勤しむことにした。
◆◆◆◆
東村山市のアウルレッドストリート10の7番地。オリオンベルト101号室に住んでいるのは、俺も初めて見たが世にも珍しいトリアース星人だった。
頭の上に生えている2本の触角をうねうねと動かし彼は隣人トラブルに悩まされていると俺に伝えた。しかし彼の住まいは角部屋で隣は昔からずっと空き部屋だ。
隣人トラブルはありえない。それでも隣の部屋には住人がいて甲高いサイレンのような音が聞こえてくると懸命に訴えてきた。
彼の表情は深刻そのものだった。無下にはできない。
それはいつ頃の話ですか?という質問は無意味だ。トリアース星人と私達では時間の捉え方も物の見方も違う。
彼らにとっての時間は一定方向に流れる移ろいゆく流動性のあるものではない。いくつもの時間軸が線のように平行に流れ、時には逆行し、惜し留まって、間を抜かすように未来に飛んだりもする。
コンスタントに
念のため大家にマスターキーを貸して頂き102号室に足を踏み入れて玄関口にも関わらず早速、
反応ナシ。得られた情報はといえば102号室には特におかしな点は見当たらないということだけだった。大家に手間賃を握らせたために収支はマイナスだが、なにもなかったということが分かっただけでも良しとしよう。
時間は有限だ。テキパキ効率的に足を動かし、余裕をもって行動を起こさなければならない。何事も効率。効率が大事である。
足。足。足。足。
足を動かすのが仕事の基本だ。例外もあるけれども。
依頼主にどう報告するか頭を捻りながら俺は101号室の念のためドアをコンコンと軽く叩いた。するとすぐに内側から鍵が開く音がした。俺はちょっとびっくりしてしまって、思わず声を上げてしまった。ドアは一向に開く気配を見せなかった。
しかし鍵が開いたということは、つまり入室の許可が下りたというサインなのだろうか。俺は恐る恐る「入りますよ」、と一言だけ添えて部屋に入った。部屋には誰もいなかった。恐らくだが彼の肉体はドアの開錠したその瞬間に、未来か過去そのいずれかの時間軸にジャンプしてしまったのだろう。
なんと不便な肉体を持っている異星人だろうか。本人たちがどう思っているのか知らないが少なくとも俺はそう思った。
俺は深いため息をつきながら6畳1間の畳の上に尻を落とした。
程無くしてテーブルの上にある置時計の長身はぐるりと1周した。この置時計は自作品だろうか。内部の複雑な機構が剥き出しの不恰好さに俺は眉をしかめる。
ヒルベルト数値は依然として変化なし。流石に1時間やそこらでは戻っては来ないだろうとは覚悟していたので肩を落とすことは無かった。しかしこれが2時間、3時間と経過していくにつれ俺の首筋に珠のような汗が浮かびあがるのは自明の理だ。願わくば依頼者が早めに帰還することを祈る。
チクタクチクタクチクタクチクタク。
時計の針の音は睡眠導入器具のような猛烈な眠気を与え、俺はついつい微睡んでしまう。トリアース星人が戻ってくるまでの間は眠っても罰は当たらないのではないか。天使の面を被った悪魔に耳元に囁かれて、俺の意識は既に飛びつつあった。
チクタクチクタクチクタク。
その時、風になびく窓際のカーテンの隙間から一瞬、チクタクマンが見えた気がした。
ナイアルラトホテップの化身で時計仕掛けの神でもある彼は特定の人間の夢に現れ、人に機械を製作させる能力があると噂されている。
目的は分からない。実在するのかも分からない。けれども誰もが彼の姿を知っている。
気づけばもうチクタクマンの姿はいなくなっていた。
すると
そして画面上にエラーの値がキックされていることを知ると俺は頭を枝垂れのように下げ、項垂れる。
そういえばあれから結構、時間が経過した気がするが、今は何時何分だろうか。俺は置き時計をチラッと横目で見て、そして目を剥いて驚愕した。
時間が”逆行”している。
時計の針は1時間前に時間が巻き戻っており、今もなお現在進行形で1秒1秒と過去へ遡っているのだ。
ただの故障だと思いたかったが嫌な予感がする。こういう嫌な時に限って俺の直感は驚くべきほどの的中率を誇る。俺は床を這いずりまわるようにして窓へ近づきカーテンを乱暴に開けた。
窓の外には人も車も後ろへ動いている異様な光景が広がっていた。山の稜線に隠れつつあった太陽も、西の空に未だはっきりその姿を見せている。
どういうことだ。これはいったい何を意味している。
気が動転した俺は、ダッフルバックを担ぎ上げて転がり出るように101号室を後にし、大急ぎで路上に出た。
血相を変えて息を荒げている俺の姿がよっぽど奇異だったのか、道を行き交う人々が目を丸くして訝し気にこちらを見ている。俺の存在に気付くということは時間はコンスタントに流れている。大丈夫だ。今、俺は正気を保っている。
腕時計の針。人。車。雲の流れ。
みんな前に進んでいる。
そう、俺は寝ぼけていただけなのだ。
俺は至って平常だ。
ところで俺はここで何をしてたんだっけ。
◆◆◆◆
ペペロンチーノをぺろりと平らげ、食後の珈琲を堪能しながら俺は完成した報告書の推敲作業に移っていた。
俺が経験した奇妙な体験談は根こそぎ省き、必要な情報だけが乗った無駄のない簡潔な文章に俺も少しは新人の頃より成長したなぁと感慨に耽る。
けれども今日の依頼も俺の頭もどこかおかしい。俺に仕事を依頼してきたオリオンベルト101号室に住む奴はいったいどんな面をしたヤツなんだろう。
大家に電話で問い合わせたところ101号室も102号室も、もう長らくずっと空き部屋ですよと言っていたし、俺の記憶は靄が掛かったようにぼんやりと混濁している。
報告する依頼者も行方知れずというのに俺はどうして報告書を書いているんだ?そもそも俺はこの依頼を受けた覚えがない。そんなことは今まで1度足りとも無かったはずなのに。
辻褄の合わない筋書きの舞台劇を見せられた時のようなどこか腑に落ちない感情に俺は悶々とする。
何かがおかしいことは分かっている。けれどもその何かが分からない。いったい全体、俺はどうしちまったんだ。
おっと。いけない。時間は有限だ。分からないことを詳らかにしていくのは俺の仕事ではない。分からないものは分からない。それでいい。
限られた時間の中でキビキビいそいそと動かなければならない。前もって事前に動くことで時間にも心にもゆとりができる。人の一生は限られているのだから。
タイプライターをダッフルバックに詰め込み、俺は机の上に置かれた伝票を手にして席を立ち、そして気づいた。
隣の席の中年のオラルルト星人が口元に運ぼうとしていたサンドイッチを白い皿の上に乗せようとしていることに。
良く効いていたはずの空調設備は涼しい風を吐き出そうとせず、意地悪なことに逆に冷風を吸引をしている。
――そんな馬鹿な。
大きな声で喚いても誰も俺の存在に気付いてはくれない。
窓から見えるシャッター通りを行き交う人々は全員後ろ歩きをしている。
その中で貴婦人が連れていた一匹のゴールデンレトリバーだけが立ち止まり俺と目が合ったが、大きくざらついていそうな舌でペロリと舌なめずりをしてすぐに尻尾を振ったままマダムにリードで引かれ後ろ向きに立ち去っていった。
犬の黒曜石のように煌めく瞳の中に俺は映っていないようだった。代わりに室内の照明に照らされ窓に薄く映った俺自身の姿が浮かび上がる。
それを認めた時、俺は全てを悟った。
◆◆◆◆
「食い逃げされただと?」
「えぇでもおかしいのよ。さっきまでそこにいたはずなのに、パッと消えたの。まるで煙みたいに」
厨房で料理の腕を振るっている厳つい顔をした妙齢の男性の表情は深刻だった。眉間には彫刻刀で掘られたような深い皺が寄せられている。
「そんなバカな言い訳が通用するか。いったい何年この仕事やってるんだお前は。食った後にお前の目を盗んで逃げだしたんだよ」
「そうかもしれないけど……でもあなたおかしいのよ。だってそしたらドアが開いた時、鈴が鳴るはずでしょ。それすらなかったのよ」
「そいつはどんな姿をしてたんだ?」
「皮膚が黄色くて、頭から触覚が2本生えてて、でもそれ以外はそっくり人間に近かったったわ」
「触角の先端の色は何色だった?」
「確か……ええっと。赤色だったような」
「くそ。よりにもよってトリアース星人か。あいつらすぐに別の時間軸に逃げ込むからな……こっちの時間に戻ってきたときには取っちめて警察に突き出してやる。しばらくその場で見張っていろ。全く……この忙しい時期に」
黄昏時の喫茶店の床に彼の仕事道具であるダッフルバックがそのまま床の上に放り出され、ファスナーの隙間からタイプライターと
夜の帳が降りる。
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