四月(二)その2

  ◇◇◇


「えへへっ、せ~んぱいっ」

「うおっ、とと」

 家を出るなり、眠夢が俺の腕に抱き着いてくる。心臓に悪い。

「ちょ、眠夢」

「なんですかぁ?」

 だが、にこにこと楽し気に笑みを向けられてはなにも言えない。

「あー……」

 うん。まあ、あれだ。兄妹仲がいいのはいいこと、だよな?

 左腕の柔らかい感触から必死に意識を切り離しながら、家のドアに鍵をかけて、そのまま眠夢に手渡す。

「はいこれ。うちの鍵」

「おー……これが先輩のおうちの合鍵ですか」

「眠夢の家でもあるけどな」

 両手で大事なものを扱うように受け取った眠夢が、にやにやと笑いながら横目で俺を見上げた。

「ふふふっ、先輩から合鍵をもらっちゃいました」

「もっと早く渡すべきだったよな。ごめん」

「あ、いえ、そうじゃなくて……なんでもないです」

「?」

 眠夢が思惑が外れたようなバツが悪そうな顔をして目を逸らした。どうしたんだろうか。合鍵になにか…………あ、わかった。

「合鍵をもらった彼女、みたいなことを言って俺をからかおうとしたのか」

「ちょっ、わざわざ解説しなくていいです!」

 パッと俺から離れて恥ずかしそうに両手をパタパタと顔の前で振る眠夢に、にやりと笑いかける。

「むー。それより先輩。入学式って先輩も出るんですか? 在校生は挨拶する人以外は休みですよね?」

 拗ねたように眠夢が唇を尖らせた。

 露骨な話題の逸らし方だ。思わず笑ってしまいそうになる表情筋を必死に抑え込んでなんでもないフリをする。

「いや、俺は入学式には出ないよ。写真を撮るんだ」

「私の、ですか?」

「それもあるけど。ほら俺は写真部だから。学校行事の写真を撮るのが仕事なんだ」

「写真部ってそういうのも撮るんですねー。もっとこう、キレイな景色とか、モデルさんとか、あと電車? そういうのばっかり撮るんだと思ってました」

「意外だったか?」

「はいっ」

「まあ、そうだよな。普通はそういうのってプロに頼むか、そこまでじゃなければ先生がやるんだろうし。ただうちは学生の自主性に任せるってことで写真部が任されてるんだ」

 ちなみにこれは建前でしかない。実際には経費削減だという世知辛い話を、雪那が実に楽しそうに語っていたのを覚えている。

「へ~……。あ、じゃああのパンフレットとかの写真ももしかして?」

「いや、流石にあれは俺じゃないよ。去年のは前の部長が撮ったやつ」

「あ、それもそうですね。でも今年のは先輩が撮った写真になるんじゃないですか?」

「かもな」

「すごいですねっ。でも先輩写真上手でしたし、頼られるのもわかります」

「ははっ」

 思わず乾いた笑いが零れてしまった。

「先輩?」

 怪訝な顔をする眠夢にこれ以上悟られないように、俺は口を開く。

「早苗さんは今日来れるの?」

「来れないみたいです」

「……そっか。じゃあまずは眠夢の写真を撮ろうか。早苗さんも眠夢の制服姿をゆっくり見たいだろうし、写真だけでもな」

「はいっ。先輩、似合ってますか?」

 眠夢が数歩前に出てこちらを振り返った。

「うん。似合ってる似合ってる。かわいいよ」

「えへ~、ありがとうございますっ」

 また眠夢が抱き着いてくる。

 明るく柔らかなミルクティーカラーの髪がふわりと揺れた。

「そういえば、髪、染めたんだよな」

「先輩。その話題三回目くらいですよ?」

「いや、それぐらい驚いたんだって」

 眠夢が引っ越してきたその日。見せてくれた制服姿に驚き、翌日もつい目が追ってしまい、そして今また口をついてしまった。

 それぐらい意外だったのだ。俺にとって眠夢は黒髪のイメージが強すぎた。

「もしかして、やっぱり似合ってませんか……?」

 不安げに瞳を揺らす眠夢に笑顔で首を振る。

「まさか。もう何回も言った気がするけど、そういう眠夢もかわいいと思うよ」

「先輩はどっちが好きですか?」

「俺? んー……」

 どっちも、という回答が求められていないことぐらい、いくら俺でもわかっている。

 ならここは女の子を褒める時は変化を褒めるべしという鉄則に則って──

「今の方、かな。黒髪も綺麗でよかったけど、今は今で柔らかい感じがしていいと思う」

「そ、そですか」

 照れたように顔を背ける眠夢に思わず頬が緩みそうになる。

 眠夢は可愛い。いや可愛いだけじゃなくて綺麗だ。容姿を褒め称える形容詞は大体当てはまる。だからどんな髪色や髪型でも似合うに決まっているのだ。

 華蔡高校は驚くほど服装規定が緩い。いや正確にはあるのだが、守らなくても注意されることがほとんどない。

 だからだろう。多くの生徒が好きに制服を着崩している。ちなみに俺は「頼られやすさ」重視で「真面目系」を意識しているからほぼデフォルトのままだ。

「どんな写真を撮ろうか?」

「どんなって普通でいいですよ、普通で」

「普通って言うと校門の前にある入学式の看板とか?」

「定番ですねー」

 背を向けて歩き出す眠夢を追って、たわいもない雑談をしながら歩く。駅を越えると一気に道に人が増えてきた。

「これ全部新入生でしょうか?」

「だな。みんな真新しい制服だし」

 カメラを取り出して道行く新入生たちを撮影する。期待、不安、緊張。実に色々な表情を見せる新入生たち。去年の俺もこんな感じだったな、と思えば微笑ましいものがある。

「あれ? 先輩、新しいカメラ買ったんですか?」

「え? ああ、いや。これは写真部の備品だよ。俺個人のカメラは眠夢も知ってるあのオンボロのままだ」

「へぇー、写真部ってカメラを貸してくれるんですね。てっきりカメラは自分のものを使うんだとばかり思ってました」

「普通はそうなんじゃないか? うちの写真部はいろいろおかしいから」

「え?」

 疑問符を浮かべる眠夢に俺は苦笑いだけを返す。このカメラが俺に預けられた経緯について説明すると長いし、眠夢にはあまり関係ないのでまた今度だ。

「さて、到着だ」

「来るのは二度目ですねー」

「二度目?」

「入試の時以来です」

「文化祭とか学校説明会とかは?」

「行きませんでした。先輩が通ってますし。そういうのはいいかなって」

 マジか。信用されているようで嬉しいが、これはちょっと責任重大だ。

「で、例の看板だけど」

「めっちゃ混んでますねー」

 定番の撮影スポットは人だかりがすごかった。新入生とその親でごった返している。

「並ぶ?」

「いやー、ちょっとこれは。せっかくですし、撮ってほしいですけど、遅刻しそうです」

「じゃあ帰りに──」

「眠夢ー! こっちこっち!」

「え? お母さん!?」

 声に振り向けば、そこには早苗さんの姿があった。駆け寄る眠夢の後を追う。

「仕事で来れないんじゃなかったの?」

「ちょっとだけ抜けさせてもらったのよ。ちゃんと連絡したわよ?」

「え? あ、ホントだ」

 スマホを確認して眠夢が驚いている。まあ朝はドタバタしていたしな。

「御景くんも、おはよう」

「おはようございます。早苗さん」

「眠夢が迷惑かけたりしてない?」

「ちょっとお母さん!」

 慌てた様子の眠夢。今朝のことを思い出してしまい急いで真面目腐った表情を作った。

「いえ、まったく。少しぐらいは頼ってほしいところです」

「あらそう? この子は朝弱いから、さっそく迷惑をかけたかと思ったのだけど。今朝はちゃんと起きられたのね」

「そ、そう。もう高校生だからね」

 わ、笑うな俺! 全力で表情筋をコントロールしろ!

 心なしか胸を張る眠夢が、チラチラと不安げにこちらを見るのが腹筋を強制的に鍛えてくれる。

「あ、そうだ、眠夢。写真、まだ撮ってないでしょ?」

「う、うん。でも人がすごいから帰りにでも──」

「大丈夫よ。もうあと少しだから」

「並んでてくれたの?」

「眠夢を待つついでにね」

 どうやらこの人だかりは待機列だったらしい。

「なら俺が撮りますよ。カメラもありますし。せっかくですから二人で並んでください」

「あら、いいの?」

「もちろんです」

 カメラを構えて構図を確認しながら眠夢と早苗さんが並ぶのを待つ。

「はい、撮りますよー」

 …………うん、まあまあじゃなかろうか。

「じゃ、今度は御景くんの番ね」

「はい? 俺、ですか?」

「そ。ほら眠夢の横に並んで」

「いや、それは」

「いいからいいから」

 早苗さんに押し切られる形で眠夢の横に立つ。

 ま、マジか。眠夢と俺じゃ絶対に釣り合わないんだが。どう考えても俺が見劣りする。

 そもそも俺は撮る側であって、撮られる側にはまったくと言っていいほど慣れていない。

 ど、どんな顔をすれば──。

「はーい。撮るわよー」

 くっ、覚悟を決めろ、俺! 鍛え上げた表情筋コントロール技術はこの時のためにあったんだ。万能の表情、困ったような笑顔の出番だ!

「うーん、初々しくていいわねー」

「そ、そうですか……」

 それ、兄妹の写真に対する感想にしては表現おかしくないでしょうか?

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