475.地下清掃員


 グレンの妹を囮にして、俺は――ファフナー・ヘルヴィルシャインだけは、99層を『隠密』で先んじて抜けられるはずだった。


 その予定は、途中まで順調に進んだが、《コネクション》をくぐる直前。 

 あと少しのところで。

 掴まれた。


 足を引っ張られ、血溜まりの中に引き摺り込まれていく。


 空の明るい地上と比べて、薄暗かった99層――その迷宮の底さえも序の口と言うように、さらに暗く深く、下へ下へ下へと沈んでいく。


「くっ……、がっ――!」


 息ができなかった。

 肺が圧迫されて、強制的に口を開かされる。

 絞られるように、気泡を吐き出した。


 俺の細い片足に、何万人もの腕が括りついているかのような重さだ。

 足首を掴む力は万力のように強く、沈んでいくのも恐ろしく速い。

 すぐに『筋力』による抵抗は諦めて、血を操る魔法《ブラッド》を使おうとしたが、なぜか霧散する。続いて、ゴーストの『魔人』の力を振り絞ろうとして、それもまた虚しく消えた。


 どういう仕組みかは分からないが、能力の封印と相殺を、常に行われている。

 その原因を確かめるためには、口だけでなく目も、しっかりと開くしかなかった。


 瞼を持ち上げると、一面の赤が視界に広がる。

 上は赤く、下は赤く、左右も赤く。

 どこを見ても赤く、世界の果てまで尚赤く。


 ――血の深海を、俺は沈み続けていた。


 千年前の実験と拷問を耐えきった俺ならば、そう簡単に死ぬことはない。

 だが、このまま引き摺り込まれ続ければ、物理的に溺れずとも、『呪術』的に溺れる可能性がある。


 そう俺に思わせたのは、足首を掴んで、一緒に落ちようとしている女性。

 その表情。


(――〝ニール〟)


 もう見間違えない。

 その名を呼ぶのは、『血陸』で出会った幼馴染の清掃員。


 姿は『血の人形』でなく、立派な衣服を身に纏っている。

 赤かった四肢に肌色の皮膚が張りつけられていて、軟体動物のように揺らめく髪は艶やかで黒く、夜行生物のように輝く瞳は深紅。


 最初は、鮮血魔法でヘルミナさんを真似ているのかと思った。


 しかし、目と目が合い、違うとわかる。

 ファニアで生まれた特製の『魔人』であり、『血術』の専門家でもあるから、これが『魔人化』だと確信できた。


 しかも、混じっているのは、モンスターではない。

 本当に、珍しい・・・

 初めて見るが、『人』だ。

 彼女は『人』を混ぜられている『魔人』。


 ――『ヘルミナ・ネイシャ』混じりの『魔人返り』であると、世界で俺一人だけが気づけた。


 脳裏に「天敵」という言葉が浮かぶ。


「…………っ!!」

(ええ、〝ニール〟。あなたと同じく、私も『魔人化実験』を受けていた。そして、あなたと同じ〝成功作〟だった。私はとても〝幸運〟で〝幸せ〟な『魔人』――)


 血の海の中だが、軽やかに彼女の唇は動いて、声が聞こえた。


 あの研究院の系列は、少し前に『木の理を盗むもの』アイドが虱潰しにしたと聞いた。もう例の『狂人マニュアル』は完全に捨てた様子だが……。


 その聞きやすい言葉に、俺は違和感を覚える。


 そして、ふと視線を上に向けた。

 どれだけ俺は沈んでしまったのだろうか。

 測りようがないほどに遠く、暗く、赤い。


(上に戻りたいのですか? それとも、地上に出たい? ……出来ません。だって、【二度と戻らない】。それが、本当のファニアのルールだった)


 上を見る俺に向かって、下にいる彼女が忠告した。


 俺は「違う」と否定したかった。

 俺にとってのファニア領は豊かで明るく、人の活気と希望で満ちていた場所だ。


 ……ただ、その下で行われていた悪夢も、よく知っている。

 なによりも、俺の足を掴みながら微笑む魂が証明している。


(間違いなく、こここそが本当のファニア。奇しくも、また『里帰り』ができましたね。人生のゴールとして、本当に『理想』の場所でしょう。ここでファニアのみんなも、私たちを待ってくれていた)


 彼女が「ファニアのみんな」と口にすると、沈みいく血の中に『何か』がいるのを感じた。


 それは奇妙な唸り声をあげながら、血の深海を高速で泳ぐ巨大な物体たち。

 禍々しく名状し難い形状から『血の魔獣』たちであると、使役する側だったから、すぐにわかった。


 この血の深海は、故郷のように親しみ深く、分かることだらけだ。

 泳ぐ『血の魔獣』たちも俺が懐かしいようで、親しみ深く話しかけてくる。――なぜか、俺でも聞き取れる言葉で。


(――少年? 帰ってきたのか、あの少年が)

(なぜ? なぜ、おまえが? おまえだけが生き残れた? 妬ましい。おまえも同罪だった。死ね、悪魔の弟子――)

(――帰ってきてはいけなかった。戻るな。もう二度と、こんなところへ……)

(殺せ。いますぐ殺せ。死んで詫びさせろ。それでも、まだ怨みは足りぬ――)


 形状は様々。

 臓器を腸で繋げた巾着のような『血の魔獣』。

 百の目が葡萄のように生っている木のような『血の魔獣』。

 無数の手足だけで構成された球のような『血の魔獣』。


 本能的に理解を拒み、吐き気を催す物体たちの言葉が、いま、なぜか理解できた。


 『血の魔獣』たちは喉という器官を失っているので、どれだけ身体を震わせても声は出ないはず。そもそも、度重なる実験によって、その魂は狂気に呑み込まれてしまっている。


 血の海を介して、振動が伝いやすいからか?

 迷宮だから、死者の魂たちと直接コンタクトできると言うのか?


(なら、これは……、これは・・・?)


 息ができず、まともに喉は震えない。

 しかし、口を動かせば、外に(……これは?)と振動を出せた・・・・・・


 まるで魂を震わせての振動こえ

 引き摺り込まれている先を予感する。


(ええ、ここは『血の理を盗むもの』の《生きとし生ける赤ヘル・ヴィルミリオン・ヘル》。大地に染み込んだ血を操り、死者たちと話せる墓参りの魔法・・・・・・――の下・・


 99層の下に、ヘルミナさんの本当の『魔法』が展開されていた。


 それは戦闘の効果で言えば、亡霊を操る魔法。

 だから、『大聖都』の地下で再会したときのカナミさんには、死霊使いネクロマンサーのようだと揶揄された。


 しかし、本質は少し違う。


 見ての通り、死者たちとの意思疎通が、一番の真価。

 その真価の深淵に、俺は引き摺り込まれていっている。


(――『空に爪を突き立て、私は世界あなたを掻き切った』『見上げて瞠れ。いま肉裂いた空から、血の雨を降らせる』――)


 後だしで、彼女はヘルミナさんの人生を詠んだ。

 その懐かしい詩と共に、彼女は歓迎していく。


(ようこそ、本当の100層へ。教祖たちの『作り物』と違って、こちらこそが『本物』ですよ)

(こ、ここが? こんなところが、迷宮の本当の100層だって? ここはどう見ても――)

(いいえ。こここそが、本当の迷宮の『最下層』。『最深部』も、神の座も、本来は存在しない領域。『作り物』の異次元ですから)

(…………っ!?)

(どうせ落ちるなら、『本物』がいい。『地獄』に、私と一緒に落ちましょう?)


 99層の下を、彼女は『地獄』と呼称して、引き摺りこむ。


 その彼女の『魔人』の力は凄まじく、強かった。

 『魔障研究院』最高傑作の『魔人』である俺に、全く引けを取らない力だ。


 この場所・状況・魔法に、ヘルミナ・ネイシャ混じりの『魔人』と相性が良過ぎるのもある。

 なにせ、この血の深海はヘルミナさんの人生そのもの――


(くっ……!)

(ふふっ……)


 はっきり言って、決着をつけるために幼馴染と話すどころじゃない。

 息すらできず、生き残れるかどうかも怪しく、俺は叫ぶ。


(ま、魔法――!!)


 引き摺り込まれる直前まで、俺は次元魔法《コネクション》と《ディフォルト》を使っていた。

 得意の鮮血魔法で、いま俺は次元属性を使える身体のままなのだ。


 もし使うならば、《ディスタンスミュート》しかない。

 特殊な属性の複雑な魔法だが、だからこそ封印も相殺も難しいはず。

 出し惜しみはできない。

 一瞬だけ片足を透過させて、まずは彼女の拘束から脱出する――!


 と、俺は無詠唱による構築を始めた。

 しかし、その切り札の魔法名を、先に発したのは――


(――共鳴・・魔法《ディスタンスミュート》)


 俺の足を掴む彼女。

 彼女に魔法を、合わされた・・・・・


 ゆえに、その魔法で俺の足が透過することはない。

 むしろ、俺の足と彼女の手が重なって、より強く、結びついた。


 決して離れない魔法の楔が完成してしまい、嗤われる。


(ふふ、くふっ。……ヘルミナ様は、ティアラ様とお友達。使えないわけないのに)

(…………っ!)


 俺の全ての力を霧散してくるのかと思えば、これだけは共鳴されてしまった。


 おそらく、彼女は《ディスタンスミュート》の使用を誘導して、待ち構えていたのだろう。

 その罠に綺麗に引っ掛かってしまい、彼女の腕と俺の足が一体化していく。


 それは共鳴による魂の同化。

 俺と彼女の境界線が消えていき、二つの意識が重なっていく。


 不味い。


 このままでは、近くで一緒に泳いでいる『血の魔獣』の仲間入りだ。

 そう危惧して、俺が周囲にも警戒を向けると、さらに聞こえてくる声――


(――そのまま、消えろ。混じって、消えてしまえ。おまえも混じり死して、ここを永遠に漂い、我らと恨み続けろ)

(おそらく、少年は戻るしかなかった。憎き世界やつと約束をした。約束の名は『ヘルヴィルシャイン』――)

(――みなが死んだのは、おまえのせいだ。おまえが『光神』を案内さえしなければ……!)

(昔だ。ファニアの研究者たちならば、みな知っている。忘れたか、その仕組みを。名で『世界との取引』を誓う意味――)

(――憎い、憎い憎い憎い。おまえが救世主を求めなければ、我らは生きていた。みんな生きていられた。まだ私は、お母さんと生きていられたのに)


 何か、おかしい。


 生き残った俺を恨む声以外にも、何かが混ざっている。

 理知的で穏やかな声だ。

 見る者全てを狂わすからと、ずっと敬遠していた『血の魔獣』が、いまだけは整然とした言葉を紡いでいる。


(む、昔? ファニアの研究者たち……?)

(そう、昔に。昔に混じって、還ろう。私と一緒に、あの日のファニアの底の底まで)


 俺が「昔」と呟けば、彼女も「昔」と同意した。

 さらに同化が加速していく。


 ――そして、その「昔」とやらを確かめるように、血の深海に全く別の光景が映った。


 それは、ここにいる誰の・・「昔」の『過去視』か。

 魂が同化し始めた状態では、正確なところは分からない。


 しかし、朧気ながらも確かに、あの懐かしい匂いのする地下室が視え始める。

 黴臭い本棚に囲まれて、最低限の机と椅子があるだけの部屋だ。


 ここで、かつて三人が揃って学び、穏やかな時間を過ごした。

 あの例の部屋に、俺たち三人は――いや、俺はいない・・・・・


 いたのは、ヘルミナさんと清掃員だけ。


 二人だけだから、ヘルミナさんは俺に見せたことのない苦しそうな表情をしていた。

 それに答える幼馴染の清掃員も、俺に話したことのない流暢な言葉を発していて――



 ◆◆◆◆◆



 ヘルミナさんは苦しそうに首を振って、彼女は自分の言葉で喋る。


「――名前? だ、駄目よ。名前なんて、絶対に駄目。あなたには必要ない」

「しかし、ヘルミナ様。名前を付けてくれたほうが、管理がしやすいです。効率もいいと思います」


 千年前のファニアの『第七魔障研究院』の地下室で、真っ当な部下から上司への要求がなされていた。

 しかし、ヘルミナさんはあなたを思ってのことだと優しく拒否していく。


「だって、名前を持てば、みんな本当に狂ってしまう……。いや、普通は名前があるという事実にすら、きっと誰も耐えられない。なら、最初から名前なんてないほうがいい。存在すら知らないほうが、ずっといい……」


 その冷や汗を垂らした顔を、じっと清掃員が見つめ続ける。

 ヘルミナさんの目が泳ぎ、声が震え出した。


「だ、誰に唆されたの? ……そんなものなくとも、あなたは『幸せ』! だって、最高の『素質』を持って生まれた『幸運』が、あなたにはある! だから、あなたは『幸せ』なの……。『幸せ』な私が、あなたなの。どうか、その私を信じて……」


 足場を失ったかのように、不安定で危うい返答だった。

 嘘をついているとしか思えないヘルミナさんの独白は、さらに続けられる。


「名前なんて地上うえの風習、地下ここでは必要ない。だって、一度地下に落ちた『下層職員』は、二度と地上に出れないのだから。もう『二度と戻れない』と、ファニアの法律で決まっている。そのルールを一緒に守りましょう? ねっ?」


 そう言って、無理に「ふふ」と笑うヘルミナさんは、本当に弱々しい。


「しかし、ヘルミナ様……」


 まだ疑い続ける清掃員に、とうとうヘルミナさんは懐から一冊の本を取り出す。

 その懐かしい『経典』の表紙には、『碑白教』の名が刻まれていた。


「だ、大丈夫!! 私も! ……私も同じなのよ? 一度、外道に墜ちた研究者は、『二度と戻れない』。あとには退けず、『ヘルミナ・ネイシャ』として、死ぬまで呪詛に苛まれ続ける。それは苦しい道かもしれない。辛い道かもしれない。……けど、いつか神様は救ってくれる! だから、大丈夫なのよ! ちゃんと、ここに書いてある! 一章一節〝此処に在るあなたとは、あなたのことだ〟と! このあなたとは、私たちみんなのこと!!」


 本を開くことなく、強く抱き締めて、ヘルミナさんは読み上げた。


 ただ、全てを丸暗記しているからこそ、その言葉に取り憑かれているようで。

 見る者を不安にさせる。


「そうっ! それから、一章七節〝試練とは希望と幸運の賜物。明日に進んだという証を必ず残してくれる〟と続いていく! だから、大丈夫! いつかは必ず報われる! 信じていれば、いつか!! あはっ、あはははははハハハハ!!」


 焦点の合わない目で、大笑いし始めた。


 もう知っていることだが、ヘルミナさんは俺と同じく碑白教の信者だった。

 だから、『血の理を盗むもの』代行者だったときの俺と、振る舞いがよく似ている。


 そして、清掃員がヘルミナさんを見る目も、かつての俺を見る人たちとそっくりだった。


 狂ってしまった信者を、心の底から憐れんでいる。

 その目を向けられたヘルミナさんは、急いで距離を詰めて、清掃員を抱き締めた。


「お願い、もう一人の私……。私たちは同じなの。だから、どうか私から逃げないで。私と一緒に、狂って……。一人は寂しいの。どうしても一人で落ちるのは不安なの。だから、一緒に笑って? 一緒に読んで? 一緒に歌を歌いましょう? この『経典』を、人生の子守歌にして……、ねえ? ふふふ、ねえ?」


 心は弱く、罅ばかり。

 やはり、ヘルミナさんは『理を盗むもの』だ。

 そして、千年後いまのカナミさんとそっくりでもある。


 それを再確認していると、「狂って」という言葉を押し付けられた清掃員は、優しく頷き返す。


「…………。はい。一緒に生きましょう。私はヘルミナ様のことが、ちゃんと好きですよ」


 全てを、受け入れた。


 その返答に安堵したのだろう。

 ヘルミナさんは『経典』を懐に入れて、追い詰められた表情を凛々しい研究者に戻して、優しく微笑んだ。


「ありがとう、私。……ええ、一緒に行きましょう。ネイシャ家の終わりまで、私たち二人で」


 俺のいないところで、二人は手を取り合った。

 二人は地下室で崩れかけの心を支え合い、なんとか安定させていた。


 ――そして、その日の地下室は、そこまで。


 その次は、地下室から出た清掃員の『最下層』での日常だった。


 例の掃除を繰り返す作業が始まる。

 偶に緊急のお仕事も入るけど、何の苦労もない。

 苦しみもない。辛さもない。名前もないから、ずっと『幸せ』。

 ヘルミナさんの言いつけを守っている限り、世界の誰よりも『幸せ』で、私は救われているのだと、彼女は「ふふふ」と〝楽しそうに、笑っていた〟。


 俺にとっては地獄だった場所が、彼女にとっては天国のように見えている。

 その過去は、もう認めるしかない――と、俺が思ったときのことだった。


 新たな声が聞こえ始める。

 俺ではない。全く知らない第三者の嘆きの声が――


(――嗚呼、美しく哀れな儚き『失敗作』よ。あの悪魔の狂気から、早く逃れよ。この地下の醜く愚かな歪みを認めて、普通の・・・幸せ・・』を探すのだ――)


 穏やかで、妙に仰々しい声だった。


 それは清掃員が、その名の通りに清掃作業していたときに聞こえた。

 実験に失敗した『魔人』たちの保管庫内は、石造りの無機質な冷たい部屋。

 そこに閉じ込められたブヨブヨとした『血の魔獣』が「――――ッ、――――――ッ!!」と、か細い声にならない声を出して、それを彼女は読み解けていた・・・・・・・


(我らの有様を、よく見よ。あのヘルミナが狂気を振り撒く悪魔でなければ、なんだと言うのだ?)

「…………」

(あのむすめは、おまえをもしものときの予備としか見てはいない。おまえに優しいのは、とっておきの予備が逃げるのを恐れてのこと。いつか物扱いの末に、捨てられるだろう。……我らは、それをよく知っている)


 教えを説くかのような声でもあった。


 ただ、その落ち着いた声を、清掃員は真正面から否定していく。

 彼女も、穏やかで妙に仰々しい声で。


「(悪魔……? どっちが? 君たちは、もっと自分の姿を省みたほうがいい。ヘルミナ様は誰よりも心優しく美しく、人類の大義を背負った立派な研究者様だよ)」

(そのような都合のいい夢からは、覚めよ。あの女を信じるなど、悪夢そのものだ)

「(そう見える? ふっ、ふふっ。本当に狂ってしまっているんだね、この哀れな『失敗作』たちは。この『幸せ』な私を捕まえて、悪夢だなんて。くふっ、ふふっ)」

(我らは狂っておらぬ。ここで狂っているのは、もはや二人のみ)

「(……勝手に言ってればいい。どうせ、誰も聞いてくれやしないし、誰にも分からない。そもそも、神様でもないと誰が狂っているかなんて、線引きできない。なら、自分を『幸せ』にしてくれる正気を信じるのが、一番正しい)」


 二人は何気なく話す。

 『血の魔獣』はありもしない喉を震わせて、声にならない声を発して。

 清掃員は綺麗な喉を震わせて、言語でない言語を発して。


 それは『古代の魔法』か『新しき呪術』か。

 もう検証できないが、清掃員の中では確かに通じていた。


 彼女のことを何も知らなかったと、何度も俺は驚かされる。

 どうりで、ずっと俺が何度も「君は『不幸』だ」と言っても届かないはずだ。

 俺に言われるよりも先に、彼女は『血の魔獣』たちから何度も繰り返し、同じ話を聞かされていたのだ。


 幼少の頃の俺は、「ヘルミナさんは贔屓して、あの清掃員に色々と隠れて教えている」と嫉妬していた。

 しかし、実際のところは何かを教えるどころか、逆。

 ヘルミナさんは少女から色々なものを取り上げていた。

 そして、この名もない少女に教養を与えて、現実を教えて、研究者の助手らしく育てていたのは、この『血の魔獣』たち。


(正しいとしても、変えられぬ真実もある。おまえが傍に置かれているのは、合理的な実験だ。飼い主を好いて好かれていると思い込まされて、愛着を利用した洗脳教育を試されているのみ)

「(ふふ、いくら私を煽っても、無駄だよ。ヘルミナ様は、私の大好きな人。犠牲となった君たちの復讐は叶わない。永遠にね)」

(いいや、違う。そうではない。我らは別に、あの悪魔を恨んでいるわけではない。その資格はない。……ただ、せめて、おまえだけは救われて欲しいと願うのみ)

「(は……? はあ? 救われて欲しい? ははっ、はははははは! ははははは!!)」


 ずっと涼し気に聞いていた少女だが、もう耐えられないといった様子だった。

 とうとう会話が成り立たなくなった『血の魔獣』は、ぶつぶつと自問自答し始めるしかなくなる。


(やはり、もう間に合わないか)(死しか、救いがない)(もはや、悪夢から覚めることが悪夢)(ネイシャ家の呪いに隙は無くなった)(超えることも奪うことも、本人が望んでいない)(もう教えは、救いでない)(気づく前に、殺したほうが――)


 『血の魔獣』に発声器官はない。

 ただ、それに酷似した個所は、異形ゆえにいくつもある。だから、同時に震えるしゃべることができて、木霊のように自問自答した。


 研究者の思索に似ていた。

 だが、本来は脳内ですべきことが外に露出していると、どうしても――


「(ああ、おぞましい。おぞましい、おぞましい、おぞましい。……まるで、逸話の『魔獣まじゅう』のよう。もう誰彼構わずに生者を殺したいほどに、狂ってしまっているんだね。この『失敗作』たちは)」


 そう少女が感想を抱いたのは無理もなく、彼らへの理解を「狂っている」からと諦めてから、『魔獣』のようだと侮蔑した。

 さらには生者を妬む亡者と決めつけて、見下ろすように哀れんでいく。


「(本当、可哀想に……。けど、大丈夫。『幸せ』になれるように、私がお世話し続けてあげる。ずっとずっと一緒にいてあげる。あなたたちの哀れな人生に、私が子守歌を歌ってあげる。……いや、みんなで一緒に歌おうか?)」

(ヘルミナ・ネイシャを真似るな。予備の振りをする必要もない。そのおぞましい目は、もう終わりにしたいのだ)

「(これが、振り? そんな上等なこと、私にはできませんよ。だって、私は無能の名もなき狂った『下層職員』。狂った『血の魔獣』とも意思疎通できるから、『幸運』にも重宝されているだけ。淡々と同じ作業を繰り返すだけの『傍観者』――)」


 言葉は通じていても、上手く合わない会話が続く。


 これが、千年前の『最下層』の日常。

 清掃員は『血の魔獣』を庇護生物かぞくとして扱い、『幸せ』そうに世話をし続けていた。

 見下して、優越感も得ていた。可愛がり、偶に子守歌を歌った。

 その様子を上層の職員たちは観察して、狂っている者同士だと、その理解を諦めたのだろう。

 言葉の通じない化け物モンスター共は、互いを家族ペットと見立てることで『幸せ』そうだから、もうそれでいいと……。


 歪だけれども、ある種完成している環境。


 誰も手を出す必要などなかったのかもしれない。

 健全とは言えないが、このときの彼女は■福感と優■感に満ちていた。

 ただ、それを認める■■うことはつまり、もう清■員■、とっくの昔に・・・・・・■■■■■■■■■■■■。彼女は■■■、■■■■■■■■■。

 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。


 ■■■■■■……っ!


 急に。

 黒い濃霧に塗り潰される感覚に襲われた。


 『過去視』の先が視えない。読めない。


 どこかから干渉を受けている。

 そして、こんな都合のいい干渉ができる存在を、俺は一人しか知らない。


 その人の顔を俺が思い浮かべるよりも先に、彼女が怒り・・・・・喋る・・


 ――うるさい、教祖カナミ

 ――私たちの思い出に割り込むな。


 頭の中に直接、彼女の声が鳴り響いた。


 俺と清掃員の『過去視』に割り込んだカナミさんに割り込むように、彼女の声が聞こえる。

 合わせて、いま視ている『過去視』が、赤く滲んでは歪んだ。

 赤い■で塗り潰される。

 カナミさんの干渉による黒に対抗して、赤で塗り潰し返す。

 黒く、赤くと。黒く赤く黒く赤くと■■赤く■黒く■紅くと、■■■朱黒く■■赤黒くと■■赤く■く■■血が。■血肉■地獄が■■鮮血■■血■■■赤く黒くと■■■■■■■黒く■■■■■■■■赤■■■■■■■■■■■■■く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――


 俺の頭の中で、二人が喧嘩する。


 頭が割れそうな状況だった。

 多様な拷問経験のある俺でも、その頭痛に耐えられない。


 ――教祖おまえはおまえの世界を救う『失敗魔法』に集中していればいい。

 ――この《生きとし生ける赤ヘル・ヴィルミリオン・ヘル》は正気で、霊魂を介し、恨みを語る場所。おまえの『失敗魔法』のように、狂気で、幻想に塗れ、夢を視る場所ではない。

 ――とっくの昔に・・・・・・私は狂っている・・・・・・・。狂っているから、もう私は戻らない。それは、本当に、塗り潰すようなことか?


 ここまでも驚くべき口調だったが、ここにきて清掃員の声は荒みに荒む。

 そして、ついには――


 ――おまえもだろう・・・・・・・? 別に避けることではない。狂気それは必要であり、正しかった。いまも、正しいと私は信じている。だから、ずっと私は要らなかった。救いの手など要らなかった。勝手に『不幸』と決めつけられるのも要らなかった! 全てが要らない!! 勝手に悪夢扱いされて、『夢』から覚まされることこそが悪夢! いま教祖様は、誰よりも痛感しているだろう!? 本当の狂人だけが『幸せ』で、この世で最も完璧な存在だと!! 振りをして、初めて気づける!!


 彼女の叫び声を、初めて聞いた気がした。


 おそらく、これが本音。

 偽りのない彼女の本質こころは、俺とカナミさんの二人にとって――


 ――ああ、そうだ! おまえたち二人だ! おまえたちは許されないことをした!!

 ――あそこで……、『最下層』で私は私なりに生きていた……。必死に、生き抜いていた……。おまえたちよりも、よっぽど私たちは本気で生き抜いていた……!!

 ――だが、おまえたち二人が壊した!! 『光神』を騙って! 救いを謳って! 勝手に、私たちを見下して!! 

 ――何が、地上うえだ。お祭りだ。巫女の光に、英雄の登場? ヘルヴィルシャインも神の脚本も、全てがくだらない。いや、気持ちが悪い。ああ、おぞましい……!

 ――神を騙る邪悪な教祖。やはり、おまえが最も罪深い。そして、次に〝ニール〟。〝ニール〟も絶対に〝許される〟! あの日、『魔障研究院』を壊した二人は、絶対に〝許され……〟? 〝許される〟?

 ――〝許される〟だって? ふふっ!!

 ――許されない・・!! 許されるものか・・・・・・・!!」


 ぶつりと。


 その呪詛によって、『糸』を断ち切った音が聞こえた。

 同時に、カナミさんの干渉が全て消えて、「昔」の『過去視』も霧散する。


 俺の意識は、現実の声を拾い始める。


(――許されるものか。絶対に、許されるものじゃなかった。許されるはずあるものか――)


 また視界は、赤一色。

 血の深海に戻った。


 しかし、ただ戻っただけではない。

 『過去視』する前よりも、圧倒的に息苦しさが増していた。


 いつの間にか、足を掴んでいたはずの清掃員が、俺の目の前で呪詛を吐いている。 

 清掃員の下半身が、俺の胴体と同化し終わっていた。


 その上で、俺の首を両手で――どころではない。腕の数が増えていた。

 霞む視界が捉えただけで、彼女の背中から十以上の長くて白い腕が生えている。その無数の腕を全て使って、俺の首を万力のように絞めていた。


 人混じりの『魔人化』が進み、異形化も進んでいる。

 その彼女と一緒に、俺は血の底に落ち続けていく。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る