475.地下清掃員
グレンの妹を囮にして、俺は――ファフナー・ヘルヴィルシャインだけは、99層を『隠密』で先んじて抜けられるはずだった。
その予定は、途中まで順調に進んだが、《コネクション》をくぐる直前。
あと少しのところで。
掴まれた。
足を引っ張られ、血溜まりの中に引き摺り込まれていく。
空の明るい地上と比べて、薄暗かった99層――その迷宮の底さえも序の口と言うように、さらに暗く深く、下へ下へ下へと沈んでいく。
「くっ……、がっ――!」
息ができなかった。
肺が圧迫されて、強制的に口を開かされる。
絞られるように、気泡を吐き出した。
俺の細い片足に、何万人もの腕が括りついているかのような重さだ。
足首を掴む力は万力のように強く、沈んでいくのも恐ろしく速い。
すぐに『筋力』による抵抗は諦めて、血を操る魔法《ブラッド》を使おうとしたが、なぜか霧散する。続いて、ゴーストの『魔人』の力を振り絞ろうとして、それもまた虚しく消えた。
どういう仕組みかは分からないが、能力の封印と相殺を、常に行われている。
その原因を確かめるためには、口だけでなく目も、しっかりと開くしかなかった。
瞼を持ち上げると、一面の赤が視界に広がる。
上は赤く、下は赤く、左右も赤く。
どこを見ても赤く、世界の果てまで尚赤く。
――血の深海を、俺は沈み続けていた。
千年前の実験と拷問を耐えきった俺ならば、そう簡単に死ぬことはない。
だが、このまま引き摺り込まれ続ければ、物理的に溺れずとも、『呪術』的に溺れる可能性がある。
そう俺に思わせたのは、足首を掴んで、一緒に落ちようとしている女性。
その表情。
(――〝ニール〟)
もう見間違えない。
その名を呼ぶのは、『血陸』で出会った幼馴染の清掃員。
姿は『血の人形』でなく、立派な衣服を身に纏っている。
赤かった四肢に肌色の皮膚が張りつけられていて、軟体動物のように揺らめく髪は艶やかで黒く、夜行生物のように輝く瞳は深紅。
最初は、鮮血魔法でヘルミナさんを真似ているのかと思った。
しかし、目と目が合い、違うとわかる。
ファニアで生まれた特製の『魔人』であり、『血術』の専門家でもあるから、これが『魔人化』だと確信できた。
しかも、混じっているのは、モンスターではない。
本当に、
初めて見るが、『人』だ。
彼女は『人』を混ぜられている『魔人』。
――『ヘルミナ・ネイシャ』混じりの『魔人返り』であると、世界で俺一人だけが気づけた。
脳裏に「天敵」という言葉が浮かぶ。
「…………っ!!」
(ええ、〝ニール〟。あなたと同じく、私も『魔人化実験』を受けていた。そして、あなたと同じ〝成功作〟だった。私はとても〝幸運〟で〝幸せ〟な『魔人』――)
血の海の中だが、軽やかに彼女の唇は動いて、声が聞こえた。
あの研究院の系列は、少し前に『木の理を盗むもの』アイドが虱潰しにしたと聞いた。もう例の『狂人マニュアル』は完全に捨てた様子だが……。
その聞きやすい言葉に、俺は違和感を覚える。
そして、ふと視線を上に向けた。
どれだけ俺は沈んでしまったのだろうか。
測りようがないほどに遠く、暗く、赤い。
(上に戻りたいのですか? それとも、地上に出たい? ……出来ません。だって、【二度と戻らない】。それが、本当のファニアのルールだった)
上を見る俺に向かって、下にいる彼女が忠告した。
俺は「違う」と否定したかった。
俺にとってのファニア領は豊かで明るく、人の活気と希望で満ちていた場所だ。
……ただ、その下で行われていた悪夢も、よく知っている。
なによりも、俺の足を掴みながら微笑む魂が証明している。
(間違いなく、こここそが本当のファニア。奇しくも、また『里帰り』ができましたね。人生のゴールとして、本当に『理想』の場所でしょう。ここでファニアのみんなも、私たちを待ってくれていた)
彼女が「ファニアのみんな」と口にすると、沈みいく血の中に『何か』がいるのを感じた。
それは奇妙な唸り声をあげながら、血の深海を高速で泳ぐ巨大な物体たち。
禍々しく名状し難い形状から『血の魔獣』たちであると、使役する側だったから、すぐにわかった。
この血の深海は、故郷のように親しみ深く、分かることだらけだ。
泳ぐ『血の魔獣』たちも俺が懐かしいようで、親しみ深く話しかけてくる。――なぜか、俺でも聞き取れる言葉で。
(――少年? 帰ってきたのか、あの少年が)
(なぜ? なぜ、おまえが? おまえだけが生き残れた? 妬ましい。おまえも同罪だった。死ね、悪魔の弟子――)
(――帰ってきてはいけなかった。戻るな。もう二度と、こんなところへ……)
(殺せ。いますぐ殺せ。死んで詫びさせろ。それでも、まだ怨みは足りぬ――)
形状は様々。
臓器を腸で繋げた巾着のような『血の魔獣』。
百の目が葡萄のように生っている木のような『血の魔獣』。
無数の手足だけで構成された球のような『血の魔獣』。
本能的に理解を拒み、吐き気を催す物体たちの言葉が、いま、なぜか理解できた。
『血の魔獣』たちは喉という器官を失っているので、どれだけ身体を震わせても声は出ないはず。そもそも、度重なる実験によって、その魂は狂気に呑み込まれてしまっている。
血の海を介して、振動が伝いやすいからか?
迷宮だから、死者の魂たちと直接コンタクトできると言うのか?
(なら、これは……、
息ができず、まともに喉は震えない。
しかし、口を動かせば、外に(……これは?)と
まるで魂を震わせての
引き摺り込まれている先を予感する。
(ええ、ここは『血の理を盗むもの』の《
99層の下に、ヘルミナさんの本当の『魔法』が展開されていた。
それは戦闘の効果で言えば、亡霊を操る魔法。
だから、『大聖都』の地下で再会したときのカナミさんには、
しかし、本質は少し違う。
見ての通り、死者たちとの意思疎通が、一番の真価。
その真価の深淵に、俺は引き摺り込まれていっている。
(――『空に爪を突き立て、私は
後だしで、彼女はヘルミナさんの人生を詠んだ。
その懐かしい詩と共に、彼女は歓迎していく。
(ようこそ、本当の100層へ。教祖たちの『作り物』と違って、こちらこそが『本物』ですよ)
(こ、ここが? こんなところが、迷宮の本当の100層だって? ここはどう見ても――)
(いいえ。こここそが、本当の迷宮の『最下層』。『最深部』も、神の座も、本来は存在しない領域。『作り物』の異次元ですから)
(…………っ!?)
(どうせ落ちるなら、『本物』がいい。『地獄』に、私と一緒に落ちましょう?)
99層の下を、彼女は『地獄』と呼称して、引き摺りこむ。
その彼女の『魔人』の力は凄まじく、強かった。
『魔障研究院』最高傑作の『魔人』である俺に、全く引けを取らない力だ。
この場所・状況・魔法に、ヘルミナ・ネイシャ混じりの『魔人』と相性が良過ぎるのもある。
なにせ、この血の深海はヘルミナさんの人生そのもの――
(くっ……!)
(ふふっ……)
はっきり言って、決着をつけるために幼馴染と話すどころじゃない。
息すらできず、生き残れるかどうかも怪しく、俺は叫ぶ。
(ま、魔法――!!)
引き摺り込まれる直前まで、俺は次元魔法《コネクション》と《ディフォルト》を使っていた。
得意の鮮血魔法で、いま俺は次元属性を使える身体のままなのだ。
もし使うならば、《ディスタンスミュート》しかない。
特殊な属性の複雑な魔法だが、だからこそ封印も相殺も難しいはず。
出し惜しみはできない。
一瞬だけ片足を透過させて、まずは彼女の拘束から脱出する――!
と、俺は無詠唱による構築を始めた。
しかし、その切り札の魔法名を、先に発したのは――
(――
俺の足を掴む彼女。
彼女に魔法を、
ゆえに、その魔法で俺の足が透過することはない。
むしろ、俺の足と彼女の手が重なって、より強く、結びついた。
決して離れない魔法の楔が完成してしまい、嗤われる。
(ふふ、くふっ。……ヘルミナ様は、ティアラ様とお友達。使えないわけないのに)
(…………っ!)
俺の全ての力を霧散してくるのかと思えば、これだけは共鳴されてしまった。
おそらく、彼女は《ディスタンスミュート》の使用を誘導して、待ち構えていたのだろう。
その罠に綺麗に引っ掛かってしまい、彼女の腕と俺の足が一体化していく。
それは共鳴による魂の同化。
俺と彼女の境界線が消えていき、二つの意識が重なっていく。
不味い。
このままでは、近くで一緒に泳いでいる『血の魔獣』の仲間入りだ。
そう危惧して、俺が周囲にも警戒を向けると、さらに聞こえてくる声――
(――そのまま、消えろ。混じって、消えてしまえ。おまえも混じり死して、ここを永遠に漂い、我らと恨み続けろ)
(おそらく、少年は戻るしかなかった。憎き
(――
(昔だ。ファニアの研究者たちならば、
(――憎い、憎い憎い憎い。おまえが救世主を求めなければ、我らは生きていた。みんな生きていられた。まだ私は、お母さんと生きていられたのに)
何か、おかしい。
生き残った俺を恨む声以外にも、何かが混ざっている。
理知的で穏やかな声だ。
見る者全てを狂わすからと、ずっと敬遠していた『血の魔獣』が、いまだけは整然とした言葉を紡いでいる。
(む、昔? ファニアの研究者たち……?)
(そう、昔に。昔に混じって、還ろう。私と一緒に、あの日のファニアの底の底まで)
俺が「昔」と呟けば、彼女も「昔」と同意した。
さらに同化が加速していく。
――そして、その「昔」とやらを確かめるように、血の深海に全く別の光景が映った。
それは、ここにいる
魂が同化し始めた状態では、正確なところは分からない。
しかし、朧気ながらも確かに、あの懐かしい匂いのする地下室が視え始める。
黴臭い本棚に囲まれて、最低限の机と椅子があるだけの部屋だ。
ここで、かつて三人が揃って学び、穏やかな時間を過ごした。
あの例の部屋に、俺たち三人は――いや、
いたのは、ヘルミナさんと清掃員だけ。
二人だけだから、ヘルミナさんは俺に見せたことのない苦しそうな表情をしていた。
それに答える幼馴染の清掃員も、俺に話したことのない流暢な言葉を発していて――
◆◆◆◆◆
ヘルミナさんは苦しそうに首を振って、彼女は自分の言葉で喋る。
「――名前? だ、駄目よ。名前なんて、絶対に駄目。あなたには必要ない」
「しかし、ヘルミナ様。名前を付けてくれたほうが、管理がしやすいです。効率もいいと思います」
千年前のファニアの『第七魔障研究院』の地下室で、真っ当な部下から上司への要求がなされていた。
しかし、ヘルミナさんはあなたを思ってのことだと優しく拒否していく。
「だって、名前を持てば、みんな本当に狂ってしまう……。いや、普通は名前があるという事実にすら、きっと誰も耐えられない。なら、最初から名前なんてないほうがいい。存在すら知らないほうが、ずっといい……」
その冷や汗を垂らした顔を、じっと清掃員が見つめ続ける。
ヘルミナさんの目が泳ぎ、声が震え出した。
「だ、誰に唆されたの? ……そんなものなくとも、あなたは『幸せ』! だって、最高の『素質』を持って生まれた『幸運』が、あなたにはある! だから、あなたは『幸せ』なの……。『幸せ』な私が、あなたなの。どうか、その私を信じて……」
足場を失ったかのように、不安定で危うい返答だった。
嘘をついているとしか思えないヘルミナさんの独白は、さらに続けられる。
「名前なんて
そう言って、無理に「ふふ」と笑うヘルミナさんは、本当に弱々しい。
「しかし、ヘルミナ様……」
まだ疑い続ける清掃員に、とうとうヘルミナさんは懐から一冊の本を取り出す。
その懐かしい『経典』の表紙には、『碑白教』の名が刻まれていた。
「だ、大丈夫!! 私も! ……私も同じなのよ? 一度、外道に墜ちた研究者は、『二度と戻れない』。あとには退けず、『ヘルミナ・ネイシャ』として、死ぬまで呪詛に苛まれ続ける。それは苦しい道かもしれない。辛い道かもしれない。……けど、いつか神様は救ってくれる! だから、大丈夫なのよ! ちゃんと、ここに書いてある! 一章一節〝此処に在るあなたとは、あなたのことだ〟と! このあなたとは、私たちみんなのこと!!」
本を開くことなく、強く抱き締めて、ヘルミナさんは読み上げた。
ただ、全てを丸暗記しているからこそ、その言葉に取り憑かれているようで。
見る者を不安にさせる。
「そうっ! それから、一章七節〝試練とは希望と幸運の賜物。明日に進んだという証を必ず残してくれる〟と続いていく! だから、大丈夫! いつかは必ず報われる! 信じていれば、いつか!! あはっ、あはははははハハハハ!!」
焦点の合わない目で、大笑いし始めた。
もう知っていることだが、ヘルミナさんは俺と同じく碑白教の信者だった。
だから、『血の理を盗むもの』代行者だったときの俺と、振る舞いがよく似ている。
そして、清掃員がヘルミナさんを見る目も、かつての俺を見る人たちとそっくりだった。
狂ってしまった信者を、心の底から憐れんでいる。
その目を向けられたヘルミナさんは、急いで距離を詰めて、清掃員を抱き締めた。
「お願い、もう一人の私……。私たちは同じなの。だから、どうか私から逃げないで。私と一緒に、狂って……。一人は寂しいの。どうしても一人で落ちるのは不安なの。だから、一緒に笑って? 一緒に読んで? 一緒に歌を歌いましょう? この『経典』を、人生の子守歌にして……、ねえ? ふふふ、ねえ?」
心は弱く、罅ばかり。
やはり、ヘルミナさんは『理を盗むもの』だ。
そして、
それを再確認していると、「狂って」という言葉を押し付けられた清掃員は、優しく頷き返す。
「…………。はい。一緒に生きましょう。私はヘルミナ様のことが、ちゃんと好きですよ」
全てを、受け入れた。
その返答に安堵したのだろう。
ヘルミナさんは『経典』を懐に入れて、追い詰められた表情を凛々しい研究者に戻して、優しく微笑んだ。
「ありがとう、私。……ええ、一緒に行きましょう。ネイシャ家の終わりまで、私たち二人で」
俺のいないところで、二人は手を取り合った。
二人は地下室で崩れかけの心を支え合い、なんとか安定させていた。
――そして、その日の地下室は、そこまで。
その次は、地下室から出た清掃員の『最下層』での日常だった。
例の掃除を繰り返す作業が始まる。
偶に緊急のお仕事も入るけど、何の苦労もない。
苦しみもない。辛さもない。名前もないから、ずっと『幸せ』。
ヘルミナさんの言いつけを守っている限り、世界の誰よりも『幸せ』で、私は救われているのだと、彼女は「ふふふ」と〝楽しそうに、笑っていた〟。
俺にとっては地獄だった場所が、彼女にとっては天国のように見えている。
その過去は、もう認めるしかない――と、俺が思ったときのことだった。
新たな声が聞こえ始める。
俺ではない。全く知らない第三者の嘆きの声が――
(――嗚呼、美しく哀れな儚き『失敗作』よ。あの悪魔の狂気から、早く逃れよ。この地下の醜く愚かな歪みを認めて、
穏やかで、妙に仰々しい声だった。
それは清掃員が、その名の通りに清掃作業していたときに聞こえた。
実験に失敗した『魔人』たちの保管庫内は、石造りの無機質な冷たい部屋。
そこに閉じ込められたブヨブヨとした『血の魔獣』が「――――ッ、――――――ッ!!」と、か細い声にならない声を出して、それを彼女は
(我らの有様を、よく見よ。あのヘルミナが狂気を振り撒く悪魔でなければ、なんだと言うのだ?)
「…………」
(あの
教えを説くかのような声でもあった。
ただ、その落ち着いた声を、清掃員は真正面から否定していく。
彼女も、穏やかで妙に仰々しい声で。
「(悪魔……? どっちが? 君たちは、もっと自分の姿を省みたほうがいい。ヘルミナ様は誰よりも心優しく美しく、人類の大義を背負った立派な研究者様だよ)」
(そのような都合のいい夢からは、覚めよ。あの女を信じるなど、悪夢そのものだ)
「(そう見える? ふっ、ふふっ。本当に狂ってしまっているんだね、この哀れな『失敗作』たちは。この『幸せ』な私を捕まえて、悪夢だなんて。くふっ、ふふっ)」
(我らは狂っておらぬ。ここで狂っているのは、もはや二人のみ)
「(……勝手に言ってればいい。どうせ、誰も聞いてくれやしないし、誰にも分からない。そもそも、神様でもないと誰が狂っているかなんて、線引きできない。なら、自分を『幸せ』にしてくれる正気を信じるのが、一番正しい)」
二人は何気なく話す。
『血の魔獣』はありもしない喉を震わせて、声にならない声を発して。
清掃員は綺麗な喉を震わせて、言語でない言語を発して。
それは『古代の魔法』か『新しき呪術』か。
もう検証できないが、清掃員の中では確かに通じていた。
彼女のことを何も知らなかったと、何度も俺は驚かされる。
どうりで、ずっと俺が何度も「君は『不幸』だ」と言っても届かないはずだ。
俺に言われるよりも先に、彼女は『血の魔獣』たちから何度も繰り返し、同じ話を聞かされていたのだ。
幼少の頃の俺は、「ヘルミナさんは贔屓して、あの清掃員に色々と隠れて教えている」と嫉妬していた。
しかし、実際のところは何かを教えるどころか、逆。
ヘルミナさんは少女から色々なものを取り上げていた。
そして、この名もない少女に教養を与えて、現実を教えて、研究者の助手らしく育てていたのは、この『血の魔獣』たち。
(正しいとしても、変えられぬ真実もある。おまえが傍に置かれているのは、合理的な実験だ。飼い主を好いて好かれていると思い込まされて、愛着を利用した洗脳教育を試されているのみ)
「(ふふ、いくら私を煽っても、無駄だよ。ヘルミナ様は、私の大好きな人。犠牲となった君たちの復讐は叶わない。永遠にね)」
(いいや、違う。そうではない。我らは別に、あの悪魔を恨んでいるわけではない。その資格はない。……ただ、せめて、おまえだけは救われて欲しいと願うのみ)
「(は……? はあ? 救われて欲しい? ははっ、はははははは! ははははは!!)」
ずっと涼し気に聞いていた少女だが、もう耐えられないといった様子だった。
とうとう会話が成り立たなくなった『血の魔獣』は、ぶつぶつと自問自答し始めるしかなくなる。
(やはり、もう間に合わないか)(死しか、救いがない)(もはや、悪夢から覚めることが悪夢)(ネイシャ家の呪いに隙は無くなった)(超えることも奪うことも、本人が望んでいない)(もう教えは、救いでない)(気づく前に、殺したほうが――)
『血の魔獣』に発声器官はない。
ただ、それに酷似した個所は、異形ゆえにいくつもある。だから、同時に
研究者の思索に似ていた。
だが、本来は脳内ですべきことが外に露出していると、どうしても――
「(ああ、おぞましい。おぞましい、おぞましい、おぞましい。……まるで、逸話の『
そう少女が感想を抱いたのは無理もなく、彼らへの理解を「狂っている」からと諦めてから、『魔獣』のようだと侮蔑した。
さらには生者を妬む亡者と決めつけて、見下ろすように哀れんでいく。
「(本当、可哀想に……。けど、大丈夫。『幸せ』になれるように、私がお世話し続けてあげる。ずっとずっと一緒にいてあげる。あなたたちの哀れな人生に、私が子守歌を歌ってあげる。……いや、みんなで一緒に歌おうか?)」
(ヘルミナ・ネイシャを真似るな。予備の振りをする必要もない。そのおぞましい目は、もう終わりにしたいのだ)
「(これが、振り? そんな上等なこと、私にはできませんよ。だって、私は無能の名もなき狂った『下層職員』。狂った『血の魔獣』とも意思疎通できるから、『幸運』にも重宝されているだけ。淡々と同じ作業を繰り返すだけの『傍観者』――)」
言葉は通じていても、上手く合わない会話が続く。
これが、千年前の『最下層』の日常。
清掃員は『血の魔獣』を
見下して、優越感も得ていた。可愛がり、偶に子守歌を歌った。
その様子を上層の職員たちは観察して、狂っている者同士だと、その理解を諦めたのだろう。
言葉の通じない
歪だけれども、ある種完成している環境。
誰も手を出す必要などなかったのかもしれない。
健全とは言えないが、このときの彼女は■福感と優■感に満ちていた。
ただ、それを認める■■うことはつまり、もう清■員■、
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。
■■■■■■……っ!
急に。
黒い濃霧に塗り潰される感覚に襲われた。
『過去視』の先が視えない。読めない。
どこかから干渉を受けている。
そして、こんな都合のいい干渉ができる存在を、俺は一人しか知らない。
その人の顔を俺が思い浮かべるよりも先に、
――うるさい、
――私たちの思い出に割り込むな。
頭の中に直接、彼女の声が鳴り響いた。
俺と清掃員の『過去視』に割り込んだカナミさんに割り込むように、彼女の声が聞こえる。
合わせて、いま視ている『過去視』が、赤く滲んでは歪んだ。
赤い■で塗り潰される。
カナミさんの干渉による黒に対抗して、赤で塗り潰し返す。
黒く、赤くと。黒く赤く黒く赤くと■■赤く■黒く■紅くと、■■■朱黒く■■赤黒くと■■赤く■く■■血が。■血肉■地獄が■■鮮血■■血■■■赤く黒くと■■■■■■■黒く■■■■■■■■赤■■■■■■■■■■■■■く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――
俺の頭の中で、二人が喧嘩する。
頭が割れそうな状況だった。
多様な拷問経験のある俺でも、その頭痛に耐えられない。
――
――この《
――
ここまでも驚くべき口調だったが、ここにきて清掃員の声は荒みに荒む。
そして、ついには――
――
彼女の叫び声を、初めて聞いた気がした。
おそらく、これが本音。
偽りのない彼女の
――ああ、そうだ! おまえたち二人だ! おまえたちは許されないことをした!!
――あそこで……、『最下層』で私は私なりに生きていた……。必死に、生き抜いていた……。おまえたちよりも、よっぽど私たちは本気で生き抜いていた……!!
――だが、おまえたち二人が壊した!! 『光神』を騙って! 救いを謳って! 勝手に、私たちを見下して!!
――何が、
――神を騙る邪悪な教祖。やはり、おまえが最も罪深い。そして、次に〝ニール〟。〝ニール〟も絶対に〝許される〟! あの日、『魔障研究院』を壊した二人は、絶対に〝許され……
――〝許される〟だって? ふふっ!!
――許され
ぶつりと。
その呪詛によって、『糸』を断ち切った音が聞こえた。
同時に、カナミさんの干渉が全て消えて、「昔」の『過去視』も霧散する。
俺の意識は、現実の声を拾い始める。
(――許されるものか。絶対に、許されるものじゃなかった。許されるはずあるものか――)
また視界は、赤一色。
血の深海に戻った。
しかし、ただ戻っただけではない。
『過去視』する前よりも、圧倒的に息苦しさが増していた。
いつの間にか、足を掴んでいたはずの清掃員が、俺の目の前で呪詛を吐いている。
清掃員の下半身が、俺の胴体と同化し終わっていた。
その上で、俺の首を両手で――どころではない。腕の数が増えていた。
霞む視界が捉えただけで、彼女の背中から十以上の長くて白い腕が生えている。その無数の腕を全て使って、俺の首を万力のように絞めていた。
人混じりの『魔人化』が進み、異形化も進んでいる。
その彼女と一緒に、俺は血の底に落ち続けていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます