470.開戦
『流星』が迷宮を貫き、大地が縦に揺れる。
スノウ様の後ろ姿を、私は見送った。
その本気の叫びも、しっかりと聞き届けた。
おそらく、彼女が言いたかったのは「誰か一人に頼らず、みんなで頑張ろう」ということだろう。
強者の論だと思う。
レイディアント家に生まれて、連合国一の『獣人』と呼ばれる私でも「こんなことができるのは、あなただけだ」と言いたくなる。
そもそも、過去のスノウ様も「みんなのようにはやれない」と、安易な激励は拒否していた。
その身勝手な『竜の咆哮』は、連合国中に響いた。
当然ながら、連合国の誰もが揃って、心打たれたなんてことはない。
ただ、それでも――
「あれが……、スノウ・ウォーカー様……」
呟くのは、後方のギルドの人たちではなく、『
彼女の飛翔した『道』に目を奪われ、憧れているように見える。
その無限に降り注ぎ続ける蒼と翠の
幼き頃の彼女を思い出す勇気と力強さを見て、顔を綻ばせる――のではなく、覚悟を決めた表情を浮かべるのは、ギルド『エピックシーカー』の古参たち。
付き合いの長いギルド『スプリーム』の面々も、ライバルギルドの熱気に釣られてか、似た顔つきとなっていた。
スノウ様の叫びは、遙か高みからの強者の論だったかもしれない。
しかし、確かに『終譚祭』で必要な
「……ふう」
私は「助かった」と安堵の一息をつく。
スノウ様の真の実力は、地上だと災害でしかない。
おそらく、いまので「ちょっと本気で剣を振った」「ちょっと本気で移動した」の二つのみ。
まだ「ちょっと」だというのに、力の規模が違いすぎる。
だから、私は「見ていてください」と止めていたのだが、終わってみれば周囲の死傷者はゼロ。
ラスティアラお嬢様の残した妹たちだけでなく、フーズヤーズの騎士や神官たちも守るべき味方だと、しっかりとスノウ様は識別してくれていた。
その事実が嬉しく、勝利と安心の余韻に浸り、やっと地震の揺れが落ち着いていく。
そして、降る
私たちと違い、怒りに震えて、『英雄』の後ろ姿を睨みつけている使徒だ。
「主の神殿に!! は、
残された使徒ディプラクラも無傷だ。
しかし、荒れていた。
無傷だからこそ、隣を通って行かれたのが、より屈辱なのだろう。
彼は感情のまま、手足を『
一歩進むごとに足元の浅瀬から血を吸い上げては、全身の血管を浮かび上がらせた。
老いの象徴である白髪が、赤黒く染まる。
さらには、周囲にあった草木が急激に枯れ始めて、反比例するかのようにディプラクラは生気を得て、少しずつ――
魔力だけでなく生気も漲らせて、一人で半壊した迷宮に向かって歩き始めた。
――ここからが、使徒ディプラクラの本番。
そう確信させる形振り構わない姿だった。
どよめく周囲には、目もくれない。
今日まで築き上げた「穏やかな老賢人」を台無しにして、前進していく。
すでに周囲の『血の騎士』を全て倒し終えていた私は、急いで動き出そうとする。
だが、その私よりも先に、『流星』に目を奪われなかったエルミラードが背後から声をかける。
「迷宮が神殿? あんなみすぼらしくて汚い神殿など、あるものか。あの迷いの宮は、我が
「…………っ!」
本当に仕事ができる男だ。
その演説と挑発で、『狭窄』した使徒を振り返らせた。
自分にも『終譚祭』を崩す力があるぞと、放置できない
「エルミラード・シッダルクゥウウ……! 邪魔じゃ! 力だけの巫女や『竜人種』よりも厄介なのは、おぬし!! 『終譚祭』を乱す不心得者め! 覚悟せよ! 必ずや、おぬしには神罰が落ちよう!!」
「神罰!? それはそれはっ! 素晴らしい! 期待して、待っているよ! ははっ、早く罰しに来て欲しいな! 次は負けないぞ、カナミ!! できれば、直接対決したいのが、僕の『素直』な本音! そうっ、ノスフィー君のおかげで、僕は僕の『素直』な気持ちも受け止められるようになった! いまなら、ノスフィー君の気持ちがよくわかる! カナミィ! ああっ、カナミッ! 僕と勝負だ!! 早く君を負かして、悔しがる顔が見たい!! ははっ、見、た、い、なぁああ!! はーっはははははは!!」
ディプラクラが天を指差すと、エルミラードは天に向かって待ち遠しそうに両手を広げた。
その仕草は、かつて私たちを洗脳していた『光の理を盗むもの』ノスフィー・フーズヤーズを思い出す。
「貴様っ、軽々しく口にするでない!! 気安くっ、神の名をぉ!!」
「ああ、そうだ! これは『アイカワカナミ』が言ったことだ! いつでも挑戦していいと約束したのを、僕は忘れていないぞ! だから、まだ勝負がついてもいないのに、勝手に行くのは許さない! いつか僕が君に勝つまで! 強くなるのはいいが、勝ち逃げだけは許さないぞ! ああっ、カナミ、聞いているか!? 君を許さない僕を見ているか、カナミィイ!!」
婚約者のスノウがいなくなった途端、エルミラードは絶好調過ぎた。
ディプラクラとは違う方向性だが、彼も「カナミ信者」と呼ぶべき熱狂っぷりだった。
そして、そのエルミラードの熱狂っぷりに対抗して、なぜかディプラクラは張り合い出す。
「ああっ、主よ!! どうか、こちらの声をお聞きください! このような不心得者を見る必要など、一切ありません! その御手を煩わせる前に、あなたの一番の忠臣であり盟友でもあるディプラクラが! このディプラクラが、エルミラード・シッダルクを排除し、神殿を荒らす狼藉者を処罰しに向かいます! どうか我らに神のご加護を!!」
「ああっ、カナミよ! どうせなら加護だけでなく、神罰とやらも頼む! 知ってるだろう!? せっかくの伝説の使徒様との決闘なのだから、僕は圧倒的不利から逆転がしたい!!」
「決闘じゃとぉ!? ははっ、時間稼ぎなどさせるものか! すぐに始末するぞ、不心得者め! ――《ウッドグロース》!」
「時間稼ぎ? ディプラクラ、何を言っている? まるで、こちらが負けるのが決まっているかのような物言いだ! 言っておくが、僕は勝てないと思って戦ったことは一度もない! 今日に限っては、カナミ相手にも必勝の予感だ!」
「また神の名を、軽々しく扱いよってぇ!」
敵と味方だというのに、とても呼吸の合った張り合いだった。
ゆえに宣誓などなく、自然と決闘の空気が生まれていく。
いま、ここで、目前の敵を排除したいという両者の利害の一致だ。
ディプラクラは必勝を祈願し、足元の血を吸い上げては、周囲の生命力を奪い、強化魔法を重ねかけ続ける。
エルミラードは必勝を予感し、自らの異形化した腕の毛並みを梳いては、揺らめく髪に白虹の魔力で靡かせる。
どちらも時間をかけて、決闘準備を進め始めた。
少し唖然とする。
二人の独特な空気に混じれず、少し離れたところから見る私。
その視界の端で、
黒い影が通ったような気がして――
「――レイディアント君!!
素早い黒い影を追いかけようと、私が脚に力を込めるのを止められてしまう。
エルミラードが決闘相手から視線を逸らして、強い否定を叫んでいた。
先ほどまでの余裕綽綽の表情はなく、どこか焦った顔で首を振ってまでいる。
つまり、いま迷宮に向かったのは、シッダルク卿の知り合いということか? いや、違う。先ほどの『流星』に続いたということは、スノウ様の――
そうだ。
いないはずがない男だ。
エルミラードが姿を現した際、彼が「見過ごせません」と言ったが、本当のところは――駄目だ。考えてはいけない。リーパーも言っていたことだが、下手に考えるから、
すぐに私は苦手な計算や思考は
「……すみません、シッダルク卿。あなた方の素晴らしい計画を、私の不甲斐なさが邪魔してしまったようです」
ここまでのエルミラードの雄弁には理由があった。
彼がこれだけの人数を引き連れて、大げさな演出をしてまで隠したかったものを、わざわざ私は目で追ってしまった。
「いや、レイディアント君……。別に構わない。事前に示し合わせた訳ではないから、仕方ない。誰もが予測しない事態にするのが、カナミの『未来視』に対抗する術ということは……基本的に、こっちも向こうも、みんなが大混乱するのが大前提だ」
気にするなと笑い、前向きに私をフォローしてくれる。
その輝く長い髪と白虹の魔力もあってか、どこかお嬢様を思い出してしまう。
様々な理由があって、私は唇を噛んだ。
「お互い、悔やむことが多いな。だが、いまだけは前を見よう。汚名返上の機会が、この『終譚祭』に多く残されてある。特に、クウネル姫を捕らえるという大仕事は、我々にしかできないことだろう」
「クウネル姫? 私が全ての『血の騎士』を倒したときには、すでにいなくなっていましたが……。ディプラクラ様を簡単に見捨てて」
「そういうところが面倒なんだ。もし僕たちが今日、クウネル姫を乗せたクエイガー君を捕らえられなかった場合、非常に厄介なことになる。たとえ誰かがセルドラとカナミを倒せても、彼女が地上にいる限り、何度でも『終譚祭』は繰り返される」
その情報交換の間も、目の前では使徒ディプラクラが、さらなる変異をし続けている。
初老を抜けて、妙齢の男を経て、さらに若く。
生まれ持った特殊な身体に魔法を重ねて、考えられる限り最高の個体に到達しようとしている――が、そんなものは眼中にないと、エルミラードは私だけに聞こえる声で、ぼそぼそと話す。
「あの『吸血種』の姫は、カナミの最後の保険だ。なにせ、地上全てを委任するに相応しいと、『未来視』で選ばれたのだ。真に千年の時の脅威を秘めているのは、伝説の使徒でなく、彼女だろう。なにせ、あのティアラと同じく、邪魔者が寿命で死ぬまで待つ忍耐力がある」
向こうの主力であるカナミとセルドラすら上回り、例のカナミの妹や聖人ティアラに近いという評価。
言っている意味は分かる。
彼女だけは戦いでなく、別の土俵で勝負している。
その千年の人脈と財力を駆使し、圧倒的な
いまのスノウ様の英雄っぷりも、『強い人』『弱い人』の分別も、所詮は無数にある尺度の一つでしかない――という現実を見せてくるのが、クウネル・クロニクル・シュルス・レギア・イングリッド。
「戦いは、まだまだこれからということですね」
「ああ、まだだ。ここまで順調だからこそ、まだ僕たちは、全くカナミの『計画』を超えられていない。僕も含めて、ここまで全て、
「私も同感です。ノスフィー様の言っていた『都合のいい未来を引き寄せる魔法』を振りほどくには、もっともっと大きなアクシデントが起きないと……」
「一応、その心当たりはある。だが、まずは目の前の問題を解決してからだな」
その視線の先では、強化魔法を終えたディプラクラが、先ほどのエルミラードを真似るように悠然と立っていた。
肩を揺らして「ははは」と笑う姿に、もう老人だった頃の面影はない。
背丈は二メートルほどあり、顔つきは赤黒い長髪を垂らした中性的な美青年で、非常に目を惹く。
だが、それ以外が異形過ぎて、美青年であることが逆に気持ち悪かった。
胴体と比べて、手足が異常に長い。手足の関節が三つもあり、常人よりも三倍長く見える。胴体とのサイズ比は昆虫を思わせて、バランスが非常に悪い。その肩には血濡れた枝葉が伸びていて、頭の上に巨大な光輪。遠目に見るだけならば、長身の男性寄りの天使と見紛うかもしれないが、私には歪な化け物にしか感じなかった。
そして、その神を求めて彷徨う双眸を見ていると、もう彼が本来の目的を覚えているかすら怪しい。
これが知と中庸の使徒と呼ばれたディプラクラという男の――
あの親しみやすい好々爺の姿は、生まれながら与えられた『表皮』であり、役割でしかなかったのだろう。
使徒の
その実年齢と精神年齢も推測できる。
生みの親に捨てられて、ずっと放置され続け、ここまで歪んでしまった中身を少しだけ私は憐む。
だが、すぐに考えを改めて、首を振った。
この中身は彼の大切な人生であり、誇りであり――私たちにとっても、大切なもの。
「あのディプラクラ様をスノウ様は説得して、仲間に引き入れようとしていましたが……。卿に勝算は?」
正直、スノウ様の強者の論よりも、このディプラクラ様の姿のほうが、カナミ攻略には必要となるだろう。
だから、ラスティアラお嬢様は「誰か一人の一つじゃなくて、敵味方でもなく、『みんな一緒』に」と遺したのを思い出して、私は気を引き締め直す。
「いまから、迷宮探索を始める振りをする。だが、できれば使徒は決して倒すことなく、挑発し続けて、上手く大聖堂の別動隊と合流したい」
「大聖堂の別動隊……。了解しました。そこには丁度、私も用事があったところです」
暗に「自分では無理だ」と白状したエルミラードに共感して、協力を決める。
私もギルド『スプリーム』『エピックシーカー』の面々の前で、エルミラードと並び、変異した使徒ディプラクラと向き合った。
その周囲では、『
もう言葉はスノウ様が尽くしているので、私から言えることはない。
――あとは全員が、この『終譚祭』を全力で歩み抜くだけ。
その再確認と共に、視線の先の迷宮の裂け目から、さらなる血が溢れ出す。
さらに、一際大きな『竜の咆哮』が鳴り響く。
どうやら、向こうでも、そろそろ始まるようだ。
◆◆◆◆◆
私は飛翔し続けていく。
青い空を越えて。
迷宮の入り口を越えて。
自由のままに、どこまでも高く。
重力からも慣性からも解放された私に、もはや上下という概念はなかった。
真っすぐ迷宮を突き進み、『最深部』に向かって飛び続ける。
予想通り、迷宮内には、たっぷりの血が満ちていた。
最初は、私の知っている洞窟風の迷宮が残っているように見えた。だが、見知ったモンスターは一切見当たらず、『血の人形』の成り損ないのようなものばかり。さらに、層と層を隔てる床は非常に脆くなっており、突き破るのは容易だった。なので、容赦なく私は三十層ほど突き破り――それから先は、もう完全に血の海の底だ。
急造した張りぼての層すらなく、血の溜まった巨大な穴が空いていた。
その穴の中を、私は血を掻き分けながら、飛翔し続けている。
私からすると、無限に広がる赤い空を飛んでいる気分だった。
噂に聞く『血陸』が、迷宮と同化しているのだろう。
早く突破すべきだと、さらに翼を羽ばたかせ続ける。
あの《
――しかし、赤い空は終わらない。
両腕で頭部を守りつつ、泳ぐように尾も振り続ける。
羽ばたいて羽ばたいて羽ばたいて――
《――お父さん、お母さん、聞いて――》
声が聞こえた。
この高速移動でも、はっきりと聞こえる声に、私は驚く。
(なっ!?)
《――ねえ。どうして、私は生まれてきたの――》
その声に問いかけられ――いや、旋律がある。
これは歌だ。
急に血の海の中で、歌が聞こえ始めた。
奇妙な歌だ。
とても軽快で陽気で、暗くおぞましく、残酷。
《――お母さんは私を殺して。お父さんは私を食べた――》
魔法による
そして、ただの魔法の振動でないことも直感する。
これは歌っているようでいて、魔法名を唱えていて、同時に『詠唱』でもある。
さらに、『代償』の支払いだけでなく、何かを取り立てる『呪い』のようにも感じる。
間違いなく、初めて経験する魔法だった。
学院だけでなく、
おそらく、最新か最古――もしくは、その両方を満たす魔法だ。
身の危険を感じて、どうにか対抗しようとするが、すぐに無意味だと悟る。
血の海全体に、歌は伝搬している。
いかに『竜の咆哮』『竜の風』を発しても、必ず鼓膜を揺さぶられる。
《だから、柄付き雑巾に液体モップ――、血液を齧り数えた場の掃除道具に――》
その防御不可能の歌は、徐々に狂い出した。
歌詞が理解できない。
いや、単語一つ一つの意味はわかるのだが、歌詞の意味を見出すことができない。
そして、ただでさえ読解不能だった歌詞に、さらに足されていく不快な雑音。
《――床下を悔■ては絞ったよ――》
《――嗤■群がる蠅を■■■炙■■■――》
《――教えて、そう教え■れたから■■だ、死■■死んだ死■だ死んだ――》
雑音に塗れて、狂っていく歌。
狂って狂って狂って、狂い抜いた先。
《――■■が
聞こえる。
途中から、急に理解できてしまう。
私の名前が呼ばれた。
(――――っ!?)
聞き覚えのある声だった。ないはずがなかった。
なぜなら、その声は――
(――スノウ・■■■■■よ。ああ、どうして……。どうして、里を出た。おまえが外に出さえしなければ、里が滅びることはなかっただろう。誰も死ぬことはなかった。おまえが殺したのだ――)
幼き日、死に別れた
そして、輪唱のように竜の里の親族たちの(――どうしてだ?)という声が続き、重なっていく。
それだけではない。
さらに時代を跨いで、別の声も積み重なる。
(――スノウちゃん。どうして、英雄になろうと? 君が名誉と栄光を求めて、生き急がなければ……。あの日、ギルドメンバーたちは誰も死ななかった。みんなは、君に殺されてしまったんだ――)
また死者の声。
幼き頃に所属していた『エピックシーカー』ギルドマスターの声だ。
当然のように、その奥からは(――おまえさえいなければ)という死したギルドメンバーたちの声が重なり、とうとう――
(――ねえ。どうして、私のところに逃げてきたの? あなたが私の村に逃げ込まなければ、誰にも狙われることはなかった。あなたを奪い合う争いに巻き込まれて、私たちは――)
過去に亡くした親友の声。
私がウォーカー家から逃げた先にいた小村の少女の声だ。
当たり前だが、そのときに犠牲となった村民たちも(――死んだ。おまえのせいで死んだ)と重なる。
逃げ場はない。
耳を塞いでも、無意味。
四方八方から全身を叩く
私は発生源を探して、周囲を見回した。
もう迷宮らしさは一切ない。
赤く染まった空――いや、ここは血の海の底だと、私のせいで死んだ『血の人形』がたくさん漂っては蠢いて、ずっと呪詛を吐き続けているのが見えた。
ここまでの私の熱と勢いを冷まさせるように。
私の失敗によって、死んでいった人たちが私を責め続ける。
いま、私の飛翔は人類史上最高の速度と言っていい。
なのに、周囲の『血の人形』を振り切ることができなかった。
飛んでも飛んでも飛んでも、赤い空は狭苦しくなり続けて、『血の人形』は近づいてくる。
異常な閉塞感の中。
『血の人形』たちの手が伸びる。
あんなにも遠かったのに、こんなに速く飛ぶ私の足を、あっさりと掴まれる。
そして、下へ。
私は上に向かって
(――もし、おまえがいなければ、私たちは生きていたのだ。きっと『幸せ』にだってなれていた――)
(…………)
振り払おうとは思わなかった。
聞かない振りもしない。
――だって、その手は
この程度なら、精神魔法などなくとも、ずっと私は自分で聞き続けていた。
自らの意思で長年確認し続けてきた。
だから、短く「うん」と頷いてから、その声に応える。
(――私は守れなかった。助けられなかった。私のせいで、たくさん死んだ)
変えられようのない事実だ。
私の足を掴んだ手は、『なかったこと』にできない。
(――私は恨まれている。嫌われている。きっと、死ぬまで呪われ続ける)
これも、『
だから、私はカナミとラスティアラに出会うまで、ずっと飛び立てなかった。
(それでも、頑張りたいんだ。諦めずに、空を向きたい。だって、きっと私の知ってる大好きな人たちは、私が蹲ってる姿なんて見たくない。どこまでも飛び続ける私の姿を見ていたいって、そう、信じてる――)
世界に満ちているのは呪詛ばかりじゃないと、私は仲間たちから教えて貰った。
だから、いまならば、遥か遠くの幽かな声だって聞こえる気がした。
それは――
(スノウよ、高く飛べ。一族の誇りを持って――)(君こそが、僕たちの求めた『本当の英雄』だから――)(だから、どうかスノウちゃんには、私の分まで幸せになって欲しいな――)
都合のいい『幻聴』か。
それとも、魂の『繋がり』か。
誰にも一生分からない。
自分が選ぶだけ。
でも、そう言ってくれる人たちは確かにいたのだと、私は覚えている。
死して、私に想いを託したみんながいた。
その大好きだった人たちに信じられていたことを、私は信じ続けているから。
(ごめん!! みんなの分まで、私は
そう叫んで、さらに飛ぶ力を強める。
捕まって引っ張られるのではなく、逆に引きずってやろうと強く、高く、上へ。
上へ上へ上へと、飛翔し続ける。
この身が燃え尽きるまで飛んでやると、私は覚悟を決めて――
「――
ここまでの魔法めいた歌や声とは別に、全く新しい
それは「信じられていることを信じる私を、ずっと信じていた」という声。
私と最も親しくて、優しくて、懐かしい声が返ってきて――
――突き抜けた。
また柔らかい壁を一つ突き破った感触と共に、赤い空が一気に晴れる。
そして、視界一杯に広がるのは、黒い石の壁。
その中央には一人の男が本の山に囲まれて、立っていた。
蒼い髪の
つまり、ここが――
すぐに私は戦場を把握する。
とにかく広大で、薄暗い。
高さは、迷宮20層分ほどか。
横幅は、見果てぬほどに遠い。
空にある黒い石の壁を――いや、迷宮の地面を観察すれば、ガラス化した部分や焼け焦げた跡があちこちに残っている。
その激戦の痕に、私は恐ろしさよりも誇らしさが勝る。
義妹マリア・ウォーカーの名残だからだ。
だから、確信もできる。
――ここが、99層。
答えを出して、視線を戻す。
中央に立つ男が、私と同じくらいに巨大な翼を広げようとしていた。
男と目が合う。
同時に、喉を震わせる。
「――魔法《フライ・ロスソフィア》」
「――魔法《フライ・ロスソフィア》」
魔法名の
高速の振動によって、翼の輪郭がぶれた。
高熱を発し、禍々しい魔力が渦巻く。
触れるだけで破壊する振動兵器と化していく。
――飛翔用でなく、戦闘用の『竜の翼』に変異した。
さらに私のほうは翼だけでなく、手足にも変化が現れる。
皮膚から昇る血の煙が『竜の鱗』となり、
その両者の変異は、過程で発生する余波だけで上級魔法の《ドラグーン・ウェイブ》や《インパルス・ハウリング》に匹敵する衝撃を四方に迸らせる。
規模でいえば、連合国が軽く吹き飛ぶ威力。
だからこそ、ここまで私は溜めてきた。
溜めて溜めて溜めてきて――
――いま、解放する。
私は『流星』の勢いのままに、飛び蹴る!
「セルドラァア! 邪ッ、魔ァアアアアアアア――――!!」
それをセルドラは笑いながら――
「くはっ!! くははははっ!! あぁっはぁっ、あーっははははははハハハッハッハッハァアアア!! 煩いくらい聞こえていたぞ! ここまで! そりゃあ身構えて準備して、立ち塞がって、邪魔もするさぁ!!」
受け止める。
ここまでの全ての振動を軽く上回る衝撃波が、99層一杯に満たされる。
それは隕石落下のようで、広い空間の空気全てが押し退けられていくようで―一
無音となる。
時間が止まったような気がした。
そして、一拍遅れて、揺れ動き出す99層。
当然ながら、地面どころか空間全てが、前後左右に荒々しくシェイクされた。
セルドラの周囲にあった本の山は粉々となり、足を付けていた石の地面には大きなクレーターが生まれた。
「――――っ!」
浅い。
私は星に風穴を空けるつもりだった。
なのに、たった一メートルほどの深さのクレーターが、街一つ分くらいの範囲しかできていない。
セルドラが間で相殺しているにしても、異常に地面が硬い。
ただ、その硬さが、この先に居ると私に教えてくれる。
居るから、守っている。
千年前、『北』の
現在、『世界』の
あの二人を「守る」と豪語できるだけの実力を持つ
このセルドラ・クイーンフィリオンは、伝説も伝説だ。
いましがた地上で、伝説に残る英雄として振る舞った私を、この男はあらゆる意味で上回っているだろう。
そのセルドラは私の飛び蹴りを受け止めて、嬉しそうに「あははっ」と笑う。
同時に、厭らしそうに「くははっ」とも嗤う。
何もかもを楽しそうに愉しそうにタノしそうに「あはは、くはは、くふふ、ふはは」と、取ってつけたような『
この男も「また失敗したのだ」と、私だから感じ取れた。
先ほどの呪詛とは比にならない『呪い』で、その心は折れたのだろう。
だから、もう流されるまま、
「セルドラ!! あなたがカナミを守る門番!?」
「そうだっ、我が末裔!! いや、『
自己紹介通り、彼は『理を盗むもの』の中でも、『最強』。
――だからこそ、私がやる。
ここまで『理を盗むもの』相手に逃げ続けてきたスノウ・ウォーカーが、最後に『無の理を盗むもの』セルドラ・クイーンフィリオンを打ち砕く。
その物語の決着を、どうか読んで欲しい。見て欲しい。知って欲しい。
この瞬間のために、今日まで私は温存されてきたってことを、いま!!
「いい目だ! 『血陸』の精神干渉を受けて、全く萎えていない! 残念だったなぁ、ネイシャ!! この
『流星』の勢いを失った私の身体が、ふわりと浮く。
すぐさま、私は身体を捻りながら、右腕を大きく振りかぶった。
「だからこそ、あなたは私がぶっ飛ばす! セルドラァ!!」
「ああ! 来いよ、本気でっ!! おまえが本当に『英雄』だっつうんならなあああぁあ!!」
相手がセルドラだからこそ。
私は生まれて初めて、本気で殴りつけることができた。
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