406.西暦2012年

 絡み合っていくのは、魔力だけではない。

 意識も絡み合い、溶けて、混ざっていく。

 それは肉体から魂が剥がれるかのような恐ろしい感覚だったが、僕にとっては三度目の経験だった。


 《次元決戦演算ディメンション・グラディエイト前日譚リコール』》が極まった先に待つもの。

 それは意識以外には何もない空間が広がるだけ。


 少し前、ここを『次元の狭間』『行間』と呼称したのを覚えている。

 以前の経験を活かして自我を保ち、これから僕の視るべきものを確認し直す。ここは時間の概念どころか、『世界の理』からも逃れた場所だ。


 視れないものはない。


 ――これから、ここで僕は、異世界に迷い込む前の相川兄妹の物語を読む。


 それは読めば、全てが終わる物語。

 本ならば、最終章。いや、最終巻。もうこれ以上は続きはなくて、結末がどれだけ不満でもどうしようもなくて、ただ受け入れることだけを強制される本だ。


(――ははは)


 声の響かないはずの空間で、僕は笑った。

 考え方がティアラに――いや、ラスティアラに似てきて、笑い方はラグネに似てきた。他人に影響されやすい自分に呆れながらも、「それも僕だ」と、みんなから受け継いだ意志と共に、距離の概念のない空間だろうと関係なく、前へ向かって進む。

 この先に待っているものを予感しながらも、前へ前へ前へと――


 もう本当は、聞かなくても、読まなくても、薄らと真実には気づいている。

 一度死んだときに、その断片を読んだ。

 《冬の異世界ウィントリ・ディメンション》内で、その後の話をティアラに読まされた。


 それでも、僕は順番に読もうと思った。

 なぜ僕に『呪い』があったのかを。

 陽滝が抱いている『未練』ではなく、本当の『未練』を。

 一つずつ順番に読むために、『過去』へ向かって手を伸ばそうとする。


(――ひひひ)


 その前に、その本を誰よりも読みたがっている少女の笑い声が響いた。


 出てこないはずがない。

 この死後の世界のような空間に、僕以上に慣れた魂が、その最後の『読書』の読み手として名乗り上げた。


 そして、返答を聞く前に、ティアラは読み始める。

 もう我慢しきれない子供のように、無邪気に、楽しそうに、その本を手にして――いや、ここにティアラの身体はないし、紙で出来た本もない。

 そんなわかりやすい物質があってくれる空間ではない。けれど、確かに、いまティアラは長い長い『冒険』の果てに、その報酬を手にして、読み始めた。


 その本こそ、僕たち兄妹の始まりであり、妹にとっては心の最も柔らかい部分。

 誰もが隠している「人の心の闇」とも言える部分を、ティアラは容赦なく読み上げていく。


(ええっと……? ひひっ。昔々、あるところに、とてもとても仲の悪い兄妹がいました――)


 ふざけた読み方だが、彼女なりの愛情表現なのだろう。

 もう僕はティアラを止めはしない。


 なにより、この長い――本当に永い戦いの末に、僕は疲れていた。


 もう誰かと口論する力すら残っていない僕は、ゆっくりと距離を取って、少しだけ遠い場所で腰を下ろした。そして、左手を強く握り締めた。もちろん、これも正確なところではない。


 この特殊な場所では、何もかも不確かで、比喩になってしまって、とても曖昧だ。

 距離の概念がなければ、座る場所もなければ、手もない。けれど、確かに、ここで僕は『彼女』の手を握ったつもりだった。


 いるはずがない『彼女』の本を胸に抱え込んで、ただ耳を澄ませて、聞く。


 その僕に、もうティアラは目もくれない。

 ただ、夢中で読む。

 こんな場所ところまで来て、本を読む。


 あいつも僕と同じだ。

 おそらくだが、僕より酷いのだろう。

 師匠カナミを捨てて、自分ラスティアラを捨てて、世界すべてを捨てて、もう相川陽滝しか見えていない。恐ろしいのは、『呪い』でなく自らの意志で、そう決めたこと。


「これでいいんだよな……、ラスティアラ。これで、もう僕たちは……――」


 ティアラは陽滝の心を、暴くよむ

 それを僕と『彼女』は手を繋いで、聞く。


 これが物語の終わり。


 ようやく僕たちは辿りついた。

 異世界の流離譚ものがたりの終わりに、とある兄妹の物語の始まりが重なっていく。


 一ページ目の幼年期から、順番に。

 今度こそ、『みんな一緒』に、同じ感想を抱けるように――



 ◆◆◆◆◆



〝――『生まれ持った違い・・・・・・・・』。


 いつだって、それが物語の起点となっていた。

 なので、この兄妹の物語も、『生まれ持った違い』から始まる。


 ただ、こちらの世界だと師匠は――ああ、異世界に辿りついた『相川渦波』は、それを『先天スキル・・・・・』と呼称していたので、少し注意が必要だ。


 それは文字通り、生まれ持ったときから他人とは違ったものを指す。

 その『生まれ持った違い』こそ、陽滝姉を――『相川陽滝』という異常を構成する全てだった。


 つまり、「あの陽滝は、いつから強かったのか?」と聞かれれば、それは生まれたときからというのが『答え』となる。


 それは酷く単純で、理由のない理不尽な格差。

 『とある異世界の主様』だけは根拠なく、「あれは『世界』の生んだ恐怖心そのもの」とわかりにくい比喩を理由にしていたが……。


 ――間違いなく、『生まれ持った違い』こそが、相川陽滝という少女の始まりだった。


 彼女は本当に、生まれながら恵まれていた。

 才能だけでなく、生まれ持った環境も尋常ではなかった。

 世界上位の富裕層の家に生まれ、両親は世界的な著名人として名を連ねている。

 その環境が陽滝という少女に与えた影響は少ないとしても、誰もが羨む家柄であったのは間違いない。住まいは都内有数の高層ビルに複数存在し、その全てに送迎用の車が常駐していて、モノに困るという悩みとは無縁の生活が約束されていた。


 ただ、いま重要なのは、陽滝は生まれながら自我の成長が異常に早く、その要望によって親から個室を与えられていたこと。

 この一点のみ。


 まだ初等教育すら受けいていない時期に、彼女は一人だけの空間を得てしまった。

 そして、あっさりと彼女は辿りついてしまう。


 この頃は、まだ『並列思考』といった思考系のスキルは一つもなかったけれど、生まれ持った頭の良さだけで、陽滝は自らが「『魔の毒』を吸引する体質」であると導き出した。


 当時の陽滝は『魔の毒』という名称は知らなかったので、『未知の物質』や『私だけの靄』と呼んでいたが――とにかく、彼女は『それ・・』に気づいた。


 訓練して、はっきりと『魔の毒』を目で認識できるようになるまで、数分もかからなかった。

 『魔の毒』に干渉して、操るまでは数十分程度。

 上手く変換して、自分の体内に吸収するのには一日。


 過保護で強欲な親の手を離れた陽滝は、たった一日で「相川家に生まれたから」のではなく「自分が自分だから」という理由で自分が特別だったことを確信していく。

 そして、一人で存分に喜び、笑う。


「――やっぱり、このもやもやは全部、『私の』だったんだ! ふふっ、ふふふ!」


 生まれたときから、ずっと幽かに見えていたけれど、誰も信じてくれなかった靄。

 その真の意味を知って、齢一桁の幼い少女は興奮して、年相応の笑い声をこぼした。


 与えられたばかりの個室には、まだ物が少ない。

 最低限の知育玩具と家具があるだけだったが、もう彼女にとっては最高の遊び部屋となっていた。


 部屋の中で霧のように漂う『魔の毒』を使って、彼女は一人で遊んで遊んで遊んで、遊び尽くした。

 そして、部屋の中の『魔の毒』が薄まれば、すぐに目を輝かせながら窓際のベッドに登った。


「ばーん!」


 二重の鍵を開けて、掛け声と共に、勢いよく窓を開け放つ。


 すぐに冷たい風が吹き込んできた。髪をさらわれて、目を一瞬だけ閉じてしまう。しかし、次に目を見開いた瞬間には、彼女の視界一杯に『魔の毒』が満たされていた。

 空っぽとなった部屋に、新しい『魔の毒』が補充されている。


「ふ、ふふっ! あはっ、はははは――!!」


 まだある。

 まだまだ遊べる。


 その理由は、窓の外に広がっている。

 相川家の住まいは、塔にも似た高層ビルの頂上付近だ。

 その窓から上半身を乗り出して、外の風景を――自分の生まれた『世界』を、陽滝は確認し直す。


「うわぁ……!」


 時間は夜。

 星屑が光り輝いていた。

 ただ、上空にではなく、眼下に。


 空を削るほどに並んだ高層ビルの群れに、無数の電灯が煌いていた。

 都会の人工の光によって、自然の星空は全く見えない。けれど、代わりに星の海に浮かんでいるような気分になれた。


 なにより、『世界』には遊び切れないほどに『魔の毒』が漂っていることに、陽滝は感動する。


「これが、『私の世界』……」


 もちろん、この数年後に彼女が辿りつく『異世界』とは、まるで濃さは違う。

 『世界』が病むほどはなく、正常に循環できる範囲の量だ。

 これから彼女の知る『世界』の数々と比べれば、少なめに入る部類だろう。


 ――だが、独占ができた。


 競争相手がいないから、全ての『魔の毒』が陽滝のものだった。

 そして、その世界一つ分を吸収できるだけの器が、彼女にはあってしまった。


 ――こうして、陽滝は『この世界で一番特別な人生』を歩んでいくことが約束された。


 恵まれに恵まれた陽滝は、願えば何でも手に入った。

 生まれた家のおかげで、お金に困ることはなかった。さらには、お金で手に入らない無形の才能にすらも、彼女は困らない。


 運動でも勉強でも、演技といった珍しい才能でも、『魔の毒』を変換することで手に入った。いわば、世界中がレベル1で止まっている中、一人だけが無限にレベルアップできる状態だ。まさしく、この世界の何もかもが彼女の自由――のはずだったが、一つだけ不自由なものがあった。


 それは遊び相手。

 就学前の幼年期同士という狭い範囲でだが、慢性的に陽滝は『対等』な相手が不足していた。


 たとえ相手が世界一の才能を持った子供だとしても、少し本気を出して『魔の毒』を利用すれば勝ててしまう。同年代の別の天才たちに陽滝は勝って、勝って勝って勝って、勝ち続けていく内に、勝負する相手がいなくなっていた。


 欲望のままに勝利の経験を貪りつくしてしまい、陽滝は軽く後悔する。

 ただ、反省はしない。

 この程度の不自由は、彼女にとって事前に予測できていたことだった。


 だから、陽滝は焦ることなく、慎重だった。

 もし『魔の毒』の存在を誰かに教えれば、この不自由は簡単に解消できるだろう。だが、自らの優位を手離すほど、彼女は愚かではなかった。ひけらかしたり共有するよりも、自分一人で独占するのが最も賢いとわかっていた。


 いまの時代のモラルだと可能性は低いが、場合によっては実験体モルモットになる危険性だってある。世界を敵に回す危険リスクを負うなんて、バカのやること。


 そう陽滝は考えて、決して人間の範疇を出ることはなく――しかし、人間の範疇内では、考えられる限りの最高の女の子を演じ続けた。

 それが最も賢く、楽しく、幸せな人生。

 事実、幼年期の陽滝は人生が楽しくて楽しくて、本当に楽しくて仕方なかった。


 ただ、その感動を共有できる相手は、ずっといない。

 そういう『代償』の力だとわかっていても、その不自由に少しずつ不満は溜まっていく。


 このときの陽滝は、まだ小さな子供だ。

 背丈は大人の腰あたりまでしかない。ただの子供だったから、寂しさという感情を覚えることが、まだ・・できた。


 だから、まず陽滝は家族を頼った。

 陽滝の母は世界で活躍する女優であり、世間的には「とても家庭的で、人格面でも優れている日本人憧れの女性」という評価を得ていた。

 だが、この時点で、その「とても家庭的なはずの母」は、自らの子である陽滝の理解と教育を放棄していた。当然だけれども、陽滝は子供として、余りに出来すぎていた。誰の子供よりも賢く、強く、美しく、完成している。


 自らの子供が尋常でないことを、母親は長年の女優経験から感じ取り、「薄気味悪い」とまで思っていた。

 だが、それを決して顔には出さない。その異常性を疎んでいても、陽滝という「よく出来た娘」を最大限に利用するだけの強かさがあった。


 幼いながらも陽滝は、生まれ持った『観察眼』で、その母の本質を一目で読み取る。


 続いて、父も同じ類の人間であることも知る。

 相川家の大人たちは例外なく、まず自分ありきだった。他人は道具としてしか見ずに、必要とあれば犠牲にすることを躊躇しない。それは夫婦間でも同じで、二人は互いを利用し合うために婚姻している。


 相川家は、少しだけ一般家庭とは違った。

 特定の業界を生き残るために洗練されていて、寂しさを紛らわせるという点においては全く役に立たない両親だった。


 そして、『魔の毒』について話せるほどの相手でもない。

 利用し合えるような『対等』な相手がいる時点で、この両親は自分とは――違う・・

 そう陽滝は判断した。


 それどころか、本当に自分は二人の子なのかとも疑ってすらいた。

 どちらも浮気性だったので、ありえない話ではない。知れば知るほど、両親との間にあるはずの『血の繋がり』は希薄になっていき、幼い陽滝の疎外感は膨らんでいく。

 比例して、陽滝の『魔の毒』に関する能力も強くなっていき――その『生まれ持った違い』の成長は、二段階目に入ってしまう。


「――え? なんだろ、これ……」


 何もないはずの宙に、『切れ目』のようなものが見えるようになったのだ。

 それが『魔の毒』の通気孔のようなものと分析して――


「ああ、もう……、やっぱり私は――」


 この時点で、陽滝は色々と悟っていた。


 明らかに、自分は他のみんなと違う。

 ただ、見えているものが違うだけじゃない。

 生き物としての性質が違いすぎる。知覚されていない物質に干渉できている時点で、もはや生きている世界が違うと言っていい。


 それを本能的に感じ取り、少しずつだけれど他人の顔に黒い天幕カーテンが降りていく。

 他者への興味が薄らいでいき、自分と自分以外の間に、大きな隔たりが生まれ始めていた。


 ――これが相川陽滝の幼年期。


 その最も幸せだった時期が過ぎて、陽滝は七歳の誕生日を迎える。

 そして、ようやく物語は大きく動き始める。

 始まりは、たった一つの視線・・。その動きだった。


 少しずつ不安を抱き始めた陽滝が、いつもの生活をしていて、与えられた個室から出て、埃一つない家の廊下を歩いていたときに、それは起こった。


 ずっと自分だけを見ていた『切れ目』の視線が逸れたのだ。

 その視線の動きに陽滝は釣られて、同じ場所に目を向ける。

 そこには――


「――僕が『一番』になるんだ……。でないと、蹴落として来たみんなはどうなる? 計算が合わない……。僕が『一番』じゃないと、計算がおかしくなるんだ……!」


 幼き頃の相川渦波がいた。

 ぶつぶつと誰に対して怒っているのかわからない文句を呟いて、廊下を歩いている。


 陽滝と年が三つ離れた兄は、一目で歪んでいるとわかる子供だった。

 綺麗に黒髪は切り揃えられ、容姿は整っている。しかし、絶望的に目つきが悪い。延々と独り言を繰り返しては、ときおり焦点が合わなくなる。


 原因は大きく二つあった。

 まず相川家による独特で過度な英才教育。

 さらに、両親による洗脳じみた価値観の複写。

 子供から向上心以外の全てを奪うには十分過ぎた。


 結果、渦波という子供は他者に勝つことだけが、人生の全てとなっていた。にも関わらず、陽滝という異常な比較対象を身近に置かれたせいで、常に敗北感に苛まされ続けていた。


 その歪みに歪んだ兄を見て、陽滝は「ああ、そういえば私には兄妹がいたっけ」と感想を抱く。


 陽滝にとって渦波の価値は、その程度だった。

 ただ、才能のない有象無象と思っているわけではない。むしろ、血筋のおかげか、『生まれ持った違い』は中々のものだと評価していた。なにより、周囲の環境がいい。相川家の英才教育を受け止め切っただけでも、国内で数えるほどしかいない『神童』だ。


 だが、私の相手ではない。


「――っ! なに、見てるんだ……!?」


 劣等感の塊となっていた兄は、妹から視線を向けられていることに気づき、過剰に反応した。


 陽滝にとっては、慣れた反応だった。

 一度打ち負かした同世代の子供たちは、こうして怯える。


 それは兄も変わらないようだった。

 だから、陽滝は「どうして、『切れ目』はこんなものを見ているのだろうか」と不思議に思い――


「い、いまに見てろ……! 僕だって、いる・・……! ここにいるんだ・・・・・・・!!」


 しかし、すぐに思い直す。

 渦波は『いないもの』になりたくなくて、怯えながらも戦意を剥き出しにして、そう叫んだ。

 何の前置きもなく、いきなり喧嘩腰で、宣戦布告をしていく。


「おまえじゃない……! 僕だ! この僕が、『一番』だ……!!」


 どれだけ早熟であっても、根は子供とわかる心からの叫びだった。


 その宣戦布告に、陽滝は心底驚いた。

 『切れ目』の向こう側にいる存在も、同じだった。


「あなたが……、『一番』? どうして?」


 そして、その残酷な疑問を、陽滝は純粋に抱いて、兄に聞いた。


「どうしてって……、それは……」


 渦波は口ごもるしかなかった。


 『一番』でないことは、誰よりも彼自身が痛感している。なにせ、彼は妹のせいで、物心ついてからずっと負けっ放しだ。

 だから、このときの幼い渦波が心の支えにしたのは、『血の繋がり』だった。


「ぼ、僕は『お前の兄』だ! だから、おまえより上なんだ……。ああっ! 兄が上じゃないと、おかしい! だから――!」


 兄だからという子供じみた理論を、渦波は信じていた。


 それは子供ゆえの無知であり無謀だろう。

 その勇敢さは幻に過ぎず、その魂の輝きは歪み切っている。


 ただ、その兄に、陽滝は光を感じていた。

 その必死な顔に、黒い天幕カーテンはかかっていなかった。


「――だから・・・おまえにだけは・・・・・・・絶対に負けない・・・・・・・


 再度、渦波は力強く宣言した。

 そして、それに陽滝が答える――よりも早く、『切れ目』が反応する。


「え――?」


 唐突に『切れ目』が、『魔の毒』を渦波に贈った。


 陽滝の驚きが、さらに増す。

 自分のものであるはずの『魔の毒』に兄が干渉して、奪い取ったようにしか見えなかったからだ。

 咄嗟に陽滝は、兄に贈られる『魔の毒』を取り返そうとしたが、それは叶わなかった。


 初めて兄の渦波が、妹の陽滝に勝利した瞬間だった。

 思いがけずに連勝記録がストップしてしまった陽滝は、頭の中で酷く困惑する。


 あ、れ……? 負けた?

 それも、この『私だけの靄』で、私が……?


 自分の知らない『魔の毒』の干渉手段があることに驚くよりも、敗北の衝撃のほうが強かった。


 軽んじていた兄が、自分の知らない方法で自分を上回った。

 それも自分の最も得意とする『魔の毒』という分野で。


 それが、なぜだか、陽滝にとっては、妙に……嬉しかった。

 両親に失望したことで、寂しさを拭い切れなかった彼女は、ただ単純に嬉しくて、聞き返していく。


「私に、負けない……んですか?」

「絶対に負けない! いつか必ず、おまえは僕が倒す!」


 その宣言を応援するように、『切れ目』から『魔の毒』が流入していく。

 この場の『魔の毒』が、無意識ながらも渦波によってコントロールされていた。


 その仕組みの最終確認も含めて、妹は兄にお願いする。


「あの、もう一度声に出して……。ええっと、『約束』を……、してくれますか?」

「何度も言わせるなよ! 僕はおまえの兄で、おまえは僕の妹だ! だから、おまえには絶対に負けない! そう、さっきから言ってるだろ!!」


 『兄だから、負けない』。


 そう渦波が誓って、それを『切れ目』が『魔の毒』で応援していく。


 陽滝とは方法が全く違うけれど、確かに兄も『魔の毒』を操っていた。

 その状況に、陽滝の頬は緩む。


「ふ、ふふっ、ふふふふ――」


 このとき、陽滝は人生で初めて『血の繋がり』を感じていた。

 そして、安心もしていた。


「私も……、負けません。絶対に負けませんよ、『兄さん』には!」


 『それでも、兄さんには負けない』。


 そう陽滝は誓って、『切れ目』から『魔の毒』を取り出すことに成功する。


 陽滝は兄という手本を得て、後に『契約』と呼ばれる技術の仕組みを理解していく。

 この『切れ目』の向こう側に向かって、心の底から全力で宣誓することで、『世界』にルールが足される。それを遵守することで、『世界』が対価として『魔の毒』を贔屓してくれる。


 陽滝の『魔の毒』を扱う才能は、兄のおかげで、さらに開花していっていた。

 その事実が陽滝は嬉しくて、過去最高の笑顔を浮かべる。


「また上から目線で、おまえは……!! くそっ!!」


 ただ、その笑みを渦波は嘲笑と感じた。

 地団駄を踏み、八つ当たりで廊下の壁を叩いたあと、逃げるように去っていく。


 その背中を陽滝は見送って、初めての感情を噛み締める。


「『兄さん』……。私には、『兄さん』がいた……」


 自分が渦波の妹であることを口に出して、『切れ目』と一緒に確認していく。


 ――これが、兄妹の始まり。


 生まれではなく『契約』で、陽滝は渦波を兄とした。


 ただ、その『契約』を把握していたのは、妹の陽滝だけ。

 兄の渦波は、いまの口喧嘩を『契約』とも『約束』とも思っていない。

 ただの売り言葉に買い言葉。

 子供ながらに本気だったかもしれないけれど、そこに陽滝と同等の覚悟まで伴っているはずがなかった。


 ――だから、ずれていく。


 これから、兄の渦波は本気で、妹の陽滝に挑戦していく。

 けれど、それは現実的な『人間』の範囲での努力。


 その兄の本気に、陽滝も本気で応えようとしていく。

 しかし、それは非現実的な『魔の毒』を活用しての努力。


 取り返しのつかない齟齬ずれだった〟

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