7-3章.愛よりも命よりも
320.血の源泉
フーズヤーズ城の地下。
その円柱状の空洞の底には、真っ赤な血が溜まっている。
そして、その血液を吸い上げて育つかのように、世界樹が一つ、空洞中央で堂々と聳え立っている。
その赤い池と赤い木は明るすぎる光源によって照らされていた。
光源の正体は炎。
いま、この地下空洞で『血の理を盗むもの』の代役と『火の理を盗むもの』の代役が死力を尽くして戦っている。
血の池の上で、油に灯ったかのような炎が燃え盛る。
鮮血が空洞内で飛び散り、交じるように炎の中へ落ちては蒸発する。
延々と生成される血液の人形たちに、延々と放たれる多様な火炎魔法。
どこに目を向けても、赤一色だった。
どろりと粘着質な水滴の赤に、肌を焦がす高温の赤。どちらが先に地下全てを塗り変えられるかを競うように、代役二人は魔法を構築し続けている。
準備運動を終えた二人の戦いは凄まじく、そして目まぐるしい。
血の騎士が十ほど生成されたと思えば、次の瞬間には炎の矢が百ほど襲い掛かり、一瞬にて全てが弾け飛ぶ。その炎の矢の自由を許すまいと血の壁がいくつか作られれば、巨大な炎の蛇が大きな顎を開いて、横から食らいついて破壊する。血の霧が発生すれば炎の剣に払われ、血の雨が降れば炎の渦が掻き消す。血が舞い、炎が食らう。その繰り返しの繰り返しの繰り返し。
その応酬の中、僕は――ライナー・ヘルヴィルシャインは魔法を使うことなく血の池の端を一人で駆け続ける。
ファフナーさんは僕を敵の一人として数えてくれたが、はっきり言って、この正面からの魔法の打ち合いに参加するのは不可能だ。
もちろん、やろうと思えば僕にも同等の魔法は使える。魔法の『質』で劣っているとは思っていない。だが、余りに魔法の『量』が別次元過ぎるのだ。
僕が必死に風の魔法を一つ発動させる間に、二人は一呼吸で百を超える魔法を放つ。
すぐに僕は魔法での援護を諦めた。僕がやるべきことは、この赤の世界に風の色を足すことではない。この赤に紛れてファフナーさんの隙を突くことだ。
常にマリアの反対側に移動し、時々、ファフナーさんの後ろから風の大魔法の《タウズシュス・ワインド》を放つ。それだけで、彼の意識は分散する。
少なくとも、大魔法を発動させるゆとりだけは与えない。
僕は先ほどの準備運動の戦いで見た『何か』――あの身の毛のよだつ化け物の生成を最も警戒していた。本人に使う気はないと言っていたが、念には念を入れて妨害を重ね続ける。
その慎重な戦術のおかげか、地下の戦いは上手く拮抗し続けていた。
ファフナーさんは戦う前に大仰なことを口にしていたが、それに見合うだけの戦いになってはいない。もちろん、準備運動の時点の戦いと比べると、何十倍もの質と量の魔法が飛び交っている。しかし、それだけだ。
ファフナーさんは何をもって『試練』と言ったのか。
この拮抗した戦いのどこが『ヘルヴィルシャイン』なのか。
『血』から学べという言葉の意味は何だったのか。
この戦いに疑問を抱いたとき――
向かい合って戦うファフナーさんとマリアの間に、ぼちゃりと。
前触れはなかった。
真上から急に落ちてきて、風の魔法か何かで着地し、血飛沫を撒き散らした。
僕もマリアも驚き、咄嗟に距離を取った。
その中、ファフナーさんだけは待っていたかのように冷静だった。そして、その落ちてきたものに近づき、親しげに声をかける。
「――来たか、ラグネ」
名前を呼ぶ。
それは全く予想していなかった名前だった。
ファフナーさんの言うとおり、落ちてきたのは僕の先輩騎士であるラグネ・カイクヲラで間違いなかった。
着地後、血飛沫の中で顔をあげた少女の顔は、よく見知っていた。
「ラ、ラグネさん……? その姿は……」
僕も名前を呼び、同時に警戒を強める。
見知った顔だったが、姿が余りに異様過ぎた。
何よりもまず先に目に付くのは、その血塗れの身体。
彼女の全身が余すことなく真っ赤に染まっている。それは『血の理を盗むもの』相手に血の池で戦っていたマリアと僕以上の赤さだった。
血に染まった顔、歪む笑み。
血の滴る前髪、血で染まった両目。
そして、何よりも異様なのは彼女が手に持つ
それを目にしたマリアが声を漏らす。
「……カナミさん?」
四肢を切断された死体を、落ちてきたラグネさんは抱きかかえていた。
死体は斬り傷らしき損傷で一杯だった。
胴体は穴だらけで、喉に大きな刺し傷が一つ。凄惨な有様だ。
いまにも首が千切れて、頭と胴体が離れそうだが、その首の強靭な筋肉が繋ぎ止め続けているようだ。
死体の生前の強さが察せられる筋力だ。
――いや、そんなものを察する余裕はない。
それどころじゃない。
その死体の服を僕は知っている。
その顔も僕はよく知っている。
間違えるはずがない。
しかし、距離を取った僕とマリアは、その光景を理解するのに時間がかかった。
死体の名前はわかっても、それを認めまいと本能が拒否していた。
その間に、事前に落ちてくるのを知っていたであろうファフナーさんは話を始める。
「俺の『経典』と『心臓』もあるな……。結局、おまえが手に入れたんだな……」
「はい。両方とも盗ってきたっす。これで、私がファフナーさんの主ってことで構わないっすか?」
いつも通りの様子でラグネさんは話す。
この異常な状況の中、仲間であるはずの僕たちに一言も声をかけることなく、敵とだけ話し続けている。
当然だが、いまもスキル『悪感』は発動し続けている。
『最悪』なものが二つ、目の前で話していることに警告音を大きく鳴らし続けている。
「ああ、それはいい。ただ、それよりも……なぜカナミを殺した」
ファフナーさんは僕とマリアが理解を拒んでいるものを口にした。
――「なぜカナミを殺した」
それはラグネさんが戦って、キリストに勝ったということか……?
キリストを殺したということは、キリストが死んだということか……?
死んだってことは、つまり、その――死んだってことでいいのか……?
要領を得ない思考が空回る。
認めたくないことを認めない自分がいて、余りに無駄な時間が過ぎる。
呆然と立ち尽くし、目の前の二人だけの会話が続く。
「ラグネ。二人で手を繋ぎ、この世界の運命に立ち向かおうとは思わなかったのか?」
「いやあ、それは無理っすよ。カナミのお兄さん、胡散臭いっすもん。絶対に途中で裏切るっす。だから、先に裏切ってやったっす」
ラグネがキリストを殺したことを裏付ける会話が飛び交う。
死体なんて、どうせ偽物だと思いたい。なのに、あの『血の理を盗むもの』が認めてしまっている。この世界で最も死に詳しそうな男が、キリストの死を前提に話をしてしまっている。
キリストは死んだと、そう理解せざるを得ない光景が網膜に映り続ける。
「そうか……。裏切られる前に裏切ったのか……。そういうことか……」
ファフナーさんは視線を血の池に落とした。
そして、まるで血を流すかのように、また大粒の涙を落としていく。
キリストの死を悲しんでいるのだろう。
認めない僕たち二人に現実を突きつけるかのような涙を零し続け、ファフナーさんは恨むように呟く。
「……ああ、わかってたぜ。世の中、こんなもんだ。希望があったと思えば、すぐに絶望のどん底。……当たり前だ。他人を信じきることなんて誰にもできない。そういう風にできている。だから、いつだって人は殺し合う。貶め合って、落とし合う。それはどうにもならない
……ありえない。
おかしい。
キリストが死ぬのはおかしい。
あのティアラさんだって、キリストは絶対に死なないと言っていた。
死ななくなるから問題だとまで言っていた。
これから、キリストは妹の陽滝ってやつと共に世界の敵になるんじゃなかったのか?
最強どころか無敵となってしまうキリストを止めるために、僕たちは準備してきたんじゃないのか?
そのためにラスティアラは仲間たちを一つにまとめて、備えてたんじゃないのか?
しかし、いまキリストが死んだとなると、そういう前提が全部ひっくり返ってしまう。
もう理解に十分な情報は揃った。
けれど、どうしてもまだ僕は認めることができなかった。
それはすぐ近くにいたマリアも同じだったようで、震えながらラグネさんに問いかける。
「ラ、ラグネさん、それ……。その手の……」
「はい。マリアさん、見たとおりっす。ただ、ちょっと待ってくださいっすね。まずはファフナーさんと主従の契約をはっきりさせたいので」
見たままに死体だと即答された。
希望を乱暴に断ち切られ、僕とマリアの顔は一層と青くなる。
そのショックの間に、涙を拭いきれずとも顔をあげたファフナーさんが続きを話していく。
「は、ははっ。主従の契約か……。ってことは、おまえはカナミの代役をやるつもりか?」
「いいえ、代役じゃないっす。私はカナミのお兄さんを超えて、『一番』になるつもりっすよ。『
「嘘吐け……。俺に気に入られようと適当言ってるだろ、おまえ」
涙を浮かべた両目でファフナーさんは睨み、それをラグネさんは涼しげに受け流す。
「む。やっぱり、駄目っすか。……というより、ファフナーさんがまとも過ぎるっすねー。いままで会ったことのある『理を盗むもの』の中で一番まともっす。切羽詰ってないし、何かに縋ろうともしていない。……あなたはとても正気で、普通のままで、『代償』も全く払わず、一人の『人』として、この世界と向き合っている」
「は……? 俺が普通? ははっ、初めて言われたぜ。この俺の全部を見て、まさか普通とはな。だが、俺はおまえが思っている以上に――」
「ちゃんと人の不幸を悲しめて、それに釣られて涙が出るあたり、めちゃくちゃ正気っすよね?」
ぴしゃりとラグネさんは断言する。
それにファフナーさんは言い返すことはなかった。
それどころか、認めるかのように小さく「――だな。だから、俺は駄目なんだ」と頷き、また涙の量を増やした。
目の前の二人には、僕たちにはない通じ合うものがあるとわかる会話だった。
だが、いまそんなことは僕たちにとって重要ではない。
重要なのは別にある。
それを僕の代わりに、先にマリアが叫ぶ。
「ラグネさん!! そんなことより! それを!! いますぐ、その手のものを説明してください!!」
ようやくショックから立ち直り、一歩前に踏み出した。
「説明って……。これ、死体っす。それで説明終わりっす」
対して、ラグネさんは猫のように笑った。
その一歩を待っていたと言わんばかりに、煽るように答えていく。
「誰、なんですか……。それ……」
「ああ、そこからっすか。見てのとおり、これは『カナミのお兄さん』っす。つまり、上階での戦いが決着したってことっすねー。ノスフィーさんもカナミのお兄さんも敗れちゃって、私が勝ち残っちゃった感じっす。……そのくらい、見てわからないっすか?」
聞き終わると同時に、マリアは臨戦態勢に入った。
『血の理を盗むもの』という規格外と戦っていたときは臨戦態勢でなかったと思えるほど、濃い魔力と殺気を纏う。
その目線の先は、もちろんラグネさんの持つ死体だ。
「……それ、よく見せてください。私に確認させてください」
そして、それを寄こせと強請った。
だが敵は首を振って、その要求を断ろうとする。
「それは駄目っす。もう、これは私のものっす。私の大事な――」
「
が、それを言い切られる前に、マリアは断られるのを断り、その手からノーモーションで火炎魔法を放った。
それは赤い炎ではなく白い炎。一切計算のない全力の《フレイム・アロー》が、血の池を抉るように蒸発させつつ奔っていく。
「――《クォーツシールド》」
それをラグネさんは予期していたのか、全く動揺なく魔法で対応する。
それは魔法の才に乏しい彼女には不可能のはずの魔法だった。
ただの地属性の魔法ではなく、大地の力を極限まで純化させた水晶の魔法。かつて、『舞闘大会』で『地の理を盗むもの』ローウェン・アレイスが使った水晶が生成される。
ラグネさんの腰にあった剣から水晶がカビのように広がり、左半身を覆った。
それは半球状の盾となり、小型の太陽が駆け抜けるかのような《フレイム・アロー》を弾き逸らす。
《フレイム・アロー》は後方の壁にぶつかり、土を溶かし、どこまで続くのかわからない横穴を空けた。
「へえ、俺らの魔石を集めると、そんなことができるのか……」
その見事な水晶の防御にファフナーさんは暢気に感嘆していた。
「ファフナーさん、ちょっとカナミのお兄さんを預かってくださいっす。あとで魔石を抜くんで、丁重にお願いっす」
ラグネさんは抱えていた死体を、手の空いている彼に渡そうとする。
これから始まるであろう戦いの準備だろう。
いまのふざけた威力の魔法を前にして、なおラグネさんは最前から退こうとしない。
「ああ、言われなくても丁重に扱うさ……。カナミの身体だ……」
ファフナーさんは死体を受け取り、その身体を強く抱きしめて、その瞼を閉じて目に溜まった涙を全て零した。
その様を見て、当然だがマリアの熱は上昇していく。
「こちらに渡せと言っているのが……! 聞こえないんですか……!?」
彼女の魔力が熱を持ち、何の魔法も発動していないのに足元の血溜まりが沸騰している。
本気も本気だ。
一年前のパリンクロンとの戦いと同じほどにキレているように見える。
あのとき、マリアは戦場一つを焦土に変えた。
地図を書き換えるレベルの魔法を、この狭い場所で放とうとしている。
「……っ! ま、待ってくれ! 落ち着いたほうがいい! まだ決まったわけじゃない! 何かおかしい! 色々とおかしいんだ!!」
あの日の炎を思い出し、咄嗟に僕は止めようとした。
巻き込まれたくないというのもあるが、それ以上に敵の挑発に乗ってしまっているということが不安だった。
しかし、その制止をマリアが聞くはずもなく、次の魔法が構築されていく。
「私は落ち着いています……。落ち着いた上で、どちらにしても戦うだけのことだと……判断しただけ!! ――魔法《
マリアは両腕をかざし、その先にて特大の魔力を収束させていく。
圧縮されていく魔力の属性は火。
当然ながら、その魔力の
赤や青といった尋常の色を超えて、濃くなりすぎた魔力と熱は白く輝く。
先ほど僕は《フレイム・アロー》を小型の太陽と喩えた。
しかし、いま発動している魔法を見れば、いかに先の《フレイム・アロー》の熱がぬるかったかよくわかる。
そして、こちらこそが本物の太陽であると訴えるように、白い球体は地面の水分を消し飛ばし、白煙を撒き散らし、膨らんでいく。
肌が焼け焦げ、眼球が溶けそうになり、僕は両腕で顔面を保護し、さらに風魔法で防御体勢に入った。
前準備の段階で、もはや範囲魔法と化している。
そこにあるだけで、血の池が全て沸騰し切った。地下空洞を灼熱地獄に変えて、ありとあらゆる生命を否定しようとしている。
その殺意に満ちた白い球体が、とうとう人を呑み込むのに十分な体積を得て――
「――食らえ」
その太陽をマリアは放った。
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