249.宰相としての自分
『宰相』アイドの始まりの場所、『ヴィアイシア城』。
その頂上付近に位置する玉座の間。
他国のそれと違い、その部屋は多くの植物で飾られているのが特徴的だ。その植物は観賞用のものから、実戦に使う魔法用のまで様々だ。
部屋の側面には吹き抜けの窓がいくつかあり、その下には質素な椅子が並んでいる。かつての記憶と変わらぬ間取りだが、以前と少し違うのは並ぶ太い支柱の裏に作業用の机が運び込まれているところだろう。
そして、変わらず中央の床には真っ赤な絨毯が伸びていて、上座――最上段の玉座の上にある壁には、懐かしきヴィアイシアの紋章が風で揺れている。
いま『北連盟』を総括する空間には、たった三人しかいない。しかも、その三人ともが
玉座には一人の物静かな黒髪の少女が座り、その隣に金髪の可憐な少女が付き従っている。ただ、黒髪の少女を物静かと表現するのは間違いかもしれない。金髪の少女を可憐と表現するのも同様だ。
いま、黒髪の少女は『眠り』、金髪の少女は『乗っ取られている』。およそ普通ではない『状態異常』に侵されている。
それは支柱裏の机の傍に立っている自分も同じだ。
彼女たち二人と同じで、自分も、もう――
連絡魔法《ツリーズ・コンタクト》を終わらせた自分は、拳を強く握りこんで机を叩く。その振動で机の上に重なっていた国の資料が落ちるのも構わず、額に手を当てて、王の乱心を嘆く。
「『
玉座の間から『第二迷宮都市ダリル』にいた始祖渦波たちと連絡を終え、天井を見上げ、疑問を口にする。
なぜ、『
なぜ、自分の提案する計画を認めてくれないのか。
「自分にはわかりません……」
自分に言い聞かせるように口に出していく。
そう口に出さなければ、その言葉を翻しそうになると思ったからだ。
――わからないなんて嘘、本当はわかっているはずだ。
そんな言葉がよぎりかける。
けれど、それを認めてしまえば、『
だから、わからない振りを自分はするしかない。
自分は『宰相』だ。『宰相』の自分が消えてなくなれば、何も残らなくなる。
狂った振りをしてでも、続けなければ……何の意味もなくなる。それは死ぬのと同じ――いや、死ぬよりも恐ろしい無意味となってしまう。
それだけは避けたかった。
だから自分は努力し続ける。いま床に落ちた本――千年前について書かれた歴史書にある『宰相』のようにあろうと、必至にしがみ続ける。
その努力の最中、遠くから声が聞こえてくる。
「――
それは自分を『先生』と呼ぶ声。
反射的に「それは違う」と思った。
自分が誇りに思う自分は『宰相』だけだ。
「…………」
だから、振り返ることすらせず、無言となってしまう。
声に応えるよりも、千年前の『宰相』を思い浮かべることに自分は忙しかった。
あの尊敬する『
あれほど素晴らしい姿はなかった。
あれほど素晴らしい人生はなかった。
あれほど素晴らしい自分はなかった。
『先生』なんてものを憧れた愚かな『
自分は『
「――せ、先生!? 顔が青いです! ちゃんと呼吸を! 息をしてください!」
こ、呼吸……?
『先生』という単語は受け容れられなかったが、それ以外の言葉を耳にして、慌てて肺を動かして空気を一気に吸い込む。
「はぁッ」
新鮮な空気が肺を満たし、先ほどまでの息苦しさが少し緩和される。
どうやら、なぜか息が止まっていたようだ。
考えこみすぎたか? 始祖渦波との決闘が近づき、緊張しているのか? それとも、もっと別の……?
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
頭に置いていた手を胸に当てて、何度も深呼吸を繰り返しながら、疑問も頭の中で繰り返す。
そして、伏せていた顔をあげて、周囲を見回す。
いつの間にか、『
髪と目に薄らと青い色素が混ざっている少女で、その小さな身体にヴィアイシアの軍服を纏っている。確か、彼女は治療を終えた『
「――あ、あなたは、その……すみません。名前のほうを忘れてしまって……」
名前が出てこない。
しっかりと考えれば思い出せるかもしれないが、それを行おうという気になれず、素直に聞いてみる。
「『
クエス……?
この薄く青い少女の名前はクエス。
いや、どうでもいい。
きっと、また忘れるのだから、覚えようとしても無駄だ。
いまはそれよりも大事なことがある。
「すみません、クエス。自分のことは先生でなく、宰相アイドと呼んでください」
机の上から床に落ちた資料を拾いながら、彼女の間違いを訂正していく。
そして、その中にある最も大切な本を手に取って、それを強く握り締める。
それは『自分の本』。
いや、『自分と
千年前の北と南の戦いを記した歴史書。北の『
それは自分が生きた確かな証だった。
自信を持って自分が自分であると言える証明。
それを大事に懐へ入れながら、『
「わ、わかりました……。宰相アイド……」
「ありがとうございます」
『
同時に懐にある歴史書にも感謝する。
一年前、『世界奉還陣』の中央で使徒レガシィ様と始祖渦波の因縁の決着を見届け、『
この千年後の世界に召喚されてから、自分は『宰相』であることを忘れかけていた。しかし、この本に忘れかけていた『宰相』の全てが載っていた。
そして、確かに思い出したのだ。
自分は『宰相』こそが宿命であったことを。
召喚の記憶の欠損のせいで、それに気づくのが遅れてしまったが、もう道を間違えはしない。
自分は『宰相』だ。『宰相』だから、ここまでやってこられた。
何より、身体が反応するのだ。
『宰相』と呼ばれるたび、身体が強張る。
緊張感がまるで違う。集中力がまるで違う。時間の進みがまるで違う。『宰相』である限り、生きているという実感が確かにある。
大事に本を身体の一番奥深くにしまいこみながら、自らの願いを再確認し、『
「すみません。宰相アイドと呼ばれたほうが、身が引き締まるのです」
戸惑う青い『
『宰相』と自称し、『宰相』と呼ばれたことで、体に力が入ってきているのがわかる。
ああ、やっぱり……。
そういう性質として、自分は生まれてきたのだ。
それは戦い方や魔法どころの話ではない。
生き方が、魂が、そういう性質になっている。
自分の属性は木。
魔力は誰かを育てることに特化している。
性格のほうも、誰かを立てることが多く、一人で戦うことは決してない。
アイドという『魔人』は一人では生きられない。
自分は『
ああ、はっきりと思い出せてきた。
そうだ。
自分は『宰相』であるために、『木の理を盗むもの』になって――
「『木の理を盗むもの』になった――?」
自分で考えて自分で至った答えに、自分の口から疑問の声があがった。
それは無意識だった。『木の理を盗むもの』について思考をめぐらせたとき、一瞬だけ白い世界を垣間見た。それは瞬きほどの短い時間だったが、このヴィアイシア城の玉座の間ではなく、もっと別の広い場所が確かに見えたのだ。
いまのはどこだ……? あれは草原か……?
あの白色は『
とても、懐かしい、ような……。
けど、どこか胸が苦しい……、そんな……――
どこかで見たことがあるような気はするが、それが『どこ』だったのか、思い出せない。
余りに記憶がおぼろげ過ぎる。
千年前の『理を盗むもの』化と千年後の『召喚』による記憶の損耗が原因だろう。自分の頭の中の損耗を、冷静に自分は分析する。
自分は最後の『理を盗むもの』であり、最も適正の低い『理を盗むもの』だ。『理を盗むもの』に落ちる直前に、使徒様から詳しい説明を受けている。他の者たちと違って、準備と覚悟のできる時間があった。
だから、それが『どこ』であるか思い出せずとも、『どこ』であるかの見当はついている。ついてしまっている……――
「せ、せんせ……宰相アイド、どうしました……?」
いつの間にか、『
「……いえ、何の問題もありません。大丈夫です」
作り笑いを浮かべて、小さく首を振ってみせる。
もう、いま垣間見た真っ白な世界は、欠片も思い出せない。
流れ落ちる水のように、手のひらから零れ落ちた。落ちた記憶は石ころが坂を転がるかのように、一気に自分から遠ざかっていく。
それを冷静に自分は見送る。
そう騒ぐほどのことじゃない。
その落ちた石ころの名前を自分は知っている。過去に大切な宝物として守っていたこともわかっている。
ただ、もうその実感がなくなってきているだけだ……。
消えていく記憶なんてそんなものだろう。
何もかも覚えていて、それを昨日のことのように思い出せるほうがおかしい。
身体は若く見えども、いまや自分の齢は百を超えている。単純に生誕から数えてしまえば、千歳超えだ。
幼少の頃の記憶なんて、思い出せるはずがない。
あの孤児院での生活の記憶すらほとんど残っていない。
思い出せるのは『宰相』の記憶だけ。
そう……『宰相』の頃の記憶。もうそれだけとなってしまった。
それだけは、昨日のことのように思い出せる。
いま自分のいる玉座の間の外、その大回廊で歩いているとき、遠くから聞えてくる声。陰口ではなく、はっきりと歩いている自分に聞かせるような声。
千年前、同じく国を守ろうと誓い合ったはずの臣から蔑まれる声。
それだけは、はっきりと――
「――アレが『宰相』を勤めるだと? あの情けない男がか?」「ああ。聞いたところ、あの王と同じ土地の出身らしいが、たまったものではないな」「どこの馬の骨ともわからぬ。どうして、あれが『宰相』に選ばれたのか、納得できぬものは多かろう」「あれでは『
――あの苦しかった時間だけは、はっきりと思い出せる。
その声だけは、嫌がらせのように記憶が全く損耗しない――
「アイドとかいう男は『
――自分を『宰相』と認めぬ声。
自分の耳に届くところでそれを何度も聞いた。陰口を含めれば、数えきることなど不可能だろう。それほどまでに自分は、多くの者から不適任であるとささやかれ続けた。
その日々は、いつぐらいの話だったか……。
確か、『
あの頃は、いまよりも余裕がなく、酷く切羽詰まっていたものだ。
子供の頃は思い出せずとも、その頃は思い出せる。
なぜか、昨日のことのようにはっきりと――
◆◆◆◆◆
――千年前。
『
そこからは戦争中心でなく、政治中心の戦いだった。外交を進めながら、国としての力を高めること尽力した。その結果、最も信頼できるものを『
誰もが口を揃えて「――あの名前もわからぬ若造が『宰相』など、正気ではない」と言った。
『
なにせ、余りに自分は『弱かった』。
『
それを誰よりも、自分自身が理解していた。
だから、周囲の批判の声を受け入れながらも、自分は寝る間も惜しんで働き続けた。頼られる『宰相』であるために、才のない人間なりにやれることは全てやろうとした。
途中、強くなろうと身体を鍛えようとしたこともあったものだ。
立場上、戦場に出ることはなかったが、最低限の力がなければ周りに舐められる風潮があったからだ。
千年後の世界ならそんなことはなかったろうが、千年前の暗黒時代では何よりもまず武力が求められる世界だったのだ。
ただ、笑えることに、その強くなろうとする努力は一年かけて――
「やはり、アイド殿に剣は向いておらんな」
――という一言で終わってしまう。
「まだやれます! ヴォルス将軍!!」
ヴィアイシア城の中にある中庭で、自分は膝を突いたまま叫び返した。
老練の将に時間を割いてもらってまで行っていた鍛錬だったが、とうとうレイナンド・ヴォルスは苦渋の顔で首を振る。
「ぬしは不器用すぎて刃物を持つのは逆に危険だ。それでも武術を身に付けたいならば、素手による戦いしかないな。だが、戦場で拳を使うというのは、余りにな……。できれば、おぬしには他の戦い方を覚えてほしいのだが……」
暗に諦めろと言っているのは、すぐにわかった。
剣を捨てて、人や書物とだけ向き合えと言われている。身の丈に合わないことはするなと気遣われている。見下され蔑まれるのには慣れていたが、心配されるのに慣れていなかった自分は、顔を俯け、逃げるように礼を言う。
「そ、そうですか……。すみません、ヴォルス将軍。貴重なお時間、ありがとうございました……」
「……武術は無理だとしても、わしに何か他にできることがあれば遠慮なく言うとよい。おぬしら姉弟には、返しきれない恩があるからな」
そんな彼の声なんて、もうまともに耳に入りはしない。
自分は握り締めた拳から血を流しながら、城の中に帰っていくしかなかった。
わかっていたことだが、自分に戦いは無理だった。
自分が国に貢献できるのは知識面しかない。
頭を使って、自分の強みを探さないといけないのだが……。
「それでは……!」
知識面を鍛えようと思っても、時間が足りない。
自分が辺境の村の出身である以上、この城で働く他の者と比べると施された教育に天と地の差がある。都心の貴族たちは、子供の頃から礼儀や作法を叩き込まれ、高名な学者から専門的な勉学を積んでいる。
それに追いつくのは並大抵のことではない。
いや、もし追いついたとしても、家柄という絶対的な差は埋まらないだろう。子供の頃から広がっているであろう人脈だって、一生かかって勝てやしない。
同じ程度では駄目なのだ。
もっともっと自分には力が要るのだ。
生まれも、知識も、人脈も、何もかもを黙らせる力。
あの姉様のような圧倒的な力が――!
「自分は姉様の弟なのに……。なぜ、姉様のような才能がないのでしょうか……」
しかし、現実の厳しさに、どうしても顔は俯くばかりとなる。
あの『理を盗むもの』の力までとは言わない。
せめて、姉の十分の一くらいの才能があれば、一気に選択肢は広がったはずだ。どうにか、姉の傍で『宰相』で在れたはずだ。
「……いや、ないものをねだっても仕方がありません。いまは、自分にできることをやるしかないようです」
首を強く振って、顔を上げる。
こうして、建国時の『宰相』アイドは折れることなく、前を向いて努力し続けた。
未熟ながらも『宰相』の仕事に取り組んでいった。
自分にできることは一つしかない。慎重にミスだけはしないようにと、全力を尽くし続けた。腐ることなく、自分の取れる最善手を取り続けた。
きっと、たった一度でも隙を見せれば、自分の失脚を狙うものたちが群がり、この『宰相』の座から引き摺り下ろそうとしてくることだろう。
そうなれば、自分は『宰相』でなくなる。
『
それは自分がアイドでなくなり、名もなき『魔人』に戻るということ。
――それだけは駄目だ。
『宰相』で在り続けないと終わりだ。
そう思いながら、あらゆるものに怯えて、一年――また一年と国務に忙殺される毎日が始まる。
桃色の花の咲く季節から、黄色い花の咲く季節へ。赤い花の咲く季節から、白い花の咲く季節へ。北特有の不安定な季節を繰り返していく。
『
そして、自分の身体は少しずつ大きくなり、『
目は深く窪み、人相なんて酷くなったものだ。きっと、姑息な手ばかりで『宰相』としての力を保っていたせいだろう。およそ、自分の思い描いていた立派な『宰相』とは程遠い姿となってしまっていた。
それでも自分は『宰相』で在り続けていた。
『
ただ、その凡才の努力の先に待っていたのは、非情な現実。
『
いつまでも同じ者たちだけで将軍をやっていられるわけではないのだから、良き後継者を生むために教育は必要だと『
それを自分は尤もだと思った。
同時に、それは自分のことを言われているとも思った。
このまま、この施策が上手くいき、時が過ぎていけば、私以上に相応しい『宰相』が現れるのはすぐだろう。
『理を盗むもの』となって不老に近い存在となった『
『
――余りに怖過ぎる想像に、吐き気を催した。
いままでがむしゃらに働いてきたせいか、そんな当たり前のことにすら自分は気づいていなかったのだ。教育の施策の話が出てきて、ようやく気づくことができた。
いつまで自分は『宰相』で在れるのか。
いつまで自分は『
それが気になって仕方がなくなる。
『宰相』の仕事に影響が出てしまうほど動揺した。このままでは国に迷惑がかかると思った自分は、仕方なく相談するのだ。
自分の最も信頼する人に――、しかし――
「――その心配はいらぬ。アイドよ」
「ロ、『
個人的に時間を取り、『
そのとき、自分は長年の悩みから解放されたと思った。あの『
ただ、『
「そなたの生活は妾が保障する。おぬしのやりたいことをやってもよい。妾たちのことは何も心配することはないぞ」
自分の伝えたいことが伝わっておらず、何かが歪曲していると思った。
自分は『宰相』としてやっていけるかの不安を吐いたはずだ。それに『
「……そうじゃな。残りの時間は孤児院などやってはどうじゃ?」
「――え?」
――息が止まった。
とてもいい笑顔で、妙案とばかりに『
それはまるで、このヴィアイシアに自分はいらないとはっきり言われたかのようで、息ができなくなった。いつものように息を吸うことが難しくて、肺も喉も――顔も固まって動かない。
「うむ、我ながら良い案じゃな。もし、この国の仕事にアイドがついていけぬのならば、孤児院の院長などどうじゃ? おぬしならきっとよい院長となるぞ。妾たちが過ごした孤児院のような素晴らしい『居場所』を、おぬしが用意してくれ。そこで最期の時間を――」
息が出来ないせいか、胸が苦しくなる。それと同時に意識がぼやけてきて、世界が遠ざかっていく。自然と『
何を言っているのか理解できなかった。いや、理解したくなかった。
「――アイドよ。できれば、おぬしに妾たちの帰る場所を用意して――」
これ以上、この話を聞き続ければ――終わると思ったのだ。
自分の物語の書かれた書物だけがエピローグに入り、あと数頁の命。どこまでも姉の物語は続く中、二度と弟の名前は誰にも呼ばれなくなる。
そんなイメージが頭によぎってしまって、咄嗟に自分は答えを伸ばす。
「はい。それもいいかもしれませんね……。ただ、もう少し考えさせてください……」
比喩でなく、自分が自分でなくなって、死んでしまうと思った。いまにも首をつりたくなる衝動にかられた。
自分は『
「そ、そうか……。ゆっくりと考えるとよい。おぬしがどのような選択をしても、ずっと妾は応援しておるからな……」
その最後の『
ふらつきながら部屋を出て、自分は城の回廊を歩く。
すれ違う人々が自分の顔を見て、心配そうに話しかけてくる。けれど、その全てがどうでもよかった。『宰相』であるために、周囲の点数を稼ごうという気にもならない。
いや、『宰相』でないと宣告された自分は、何と言い返せばいいかわからなかった……が正しいかもしれない。
何も言い返すこともできず、声をかけてくる全員を無視し続けて自室へと帰っていく。
自室に辿りついた自分は呆然とする。
もう自分が『宰相』でなくなるという事実を受け止めきれないのだ。
いままで自分がやってこられたのは、周りがなんと言おうと『
『
この身は『
いまさら、他のことなんて出来るはずがない。
他の生き方なんてわからない。
先ほど回廊で人とすれ違ったときのように、自分がどんな人間かもわからず一言も喋られなくなるだけだ。自分は『
『宰相』という役目がなければ、生き方すらわからない弱い人間なのだ。
それなのに孤児院……?
自分が、その院長……?
できるはずがない!
いや、できたとしても、そんなことはしたくない! 絶対に!!
『
それは誰だ? 他の『理を盗むもの』か?
『
自分よりも強く賢く、『宰相』に相応しい男か……?
その二人を、後ろから一人で見送る――まだ、
『
それはいい。いいのだけれど……ただ、そのとき、自分はどんな姿をしているのだろうか……。
若く美しい『
――だ、駄目だ。
それでは、
あの『約束』のためだけに、自分はここまできた――、なのに――
「あ、ああぁ……。ああああぁぁあ……」
――呻く。
もはや、もう自分は限界だ。
立派な『宰相』であろうと無理をし続けた身体が悲鳴をあげているのがわかる。凡才だからこそ、いつだって自分の限界はよく見えていた。
あと少しで、自分は『宰相』でなくなる。もう間違いない。
これから先、自分の能力は衰えていくだけ。すぐに自分より優秀な誰かが現れて、『
その未来を頭の中に浮かべ、自分は呻きながら彷徨う。
城を――、ヴィアイシアの城内を彷徨い、呻き続ける――
「――だ、誰か……。自分を……」
先の相談の続きをしたい。
自分が『宰相』であるためにどうすればいいのか。
その相談を誰かとしたい。
しかし、いまや自分に信頼できる者たちなどいない。
かつての孤児院の仲間たちは、もうほとんどが城からいなくなった。未だに残っているのは自分を除けば、『
ただ、そのどちらにも相談はできない。
どちらも強すぎる。弱い人間の悩みなど、わかりようがない。現に『
だから自分は探す。
弱い自分の気持ちをわかってくれる誰かを。
いまの自分が相談するに適任な存在を――
――そして、自分は辿りつく。
行きついてしまう。
今日まで『宰相』として集めてきた情報があれば、その存在との面会は容易かった。
彼を招き、自室で二人きりとなるのに時間がかからなかった。
自室で、自分は茶色い髪の小さな子供と向き合う。その小さな体躯と身なりに見合わない威厳を子供は放ちながら、自分に告げる。
自分の「『宰相』であり続ける為にはどうすればいいのか」という相談の答えを告げる。
「――使徒ディプラクラから、伝言を預かってる。すまないってさ。自分が軽率な真似をしてしまったから、あんたら姉弟を苦しめてる。本当にすまないって何度も謝ってた」
子供は頭を下げて、同僚の代わりに謝罪する。
そう、同僚。
このどこにでもいそうな短い髪の少年こそ、あの伝説の使徒の一人。
三人目の使徒、レガシィ様なのだ。
自分は知っていた。
この使徒こそが『理を盗むもの』になれるものを選んでいるということを。
かつて姉様を『風の理を盗むもの』にしたのが使徒ディプラクラという存在で、目の前にいる少年にも、その権限があるということを――
「使徒レガシィ様……。自分も姉様と同じになりたいです……」
だから、自分は何も考えず、ただ願った。
出迎える前に、色々と交換条件を考えていたのだけれど、彼と向かい合った瞬間、その全てが霧散した。
自分は限界だった。
その限界を超えるために、あの御伽噺に出てくるような『魔法』の力が欲しくてたまらなかった。だから、自分の半分ほどしかない背丈の子供にだって、必死になってすがりついた。
「お願いします。他には何もいりません。必要とあらば、あなたの奴隷となってみせます。あなたの靴だって舐めます。何でもします。してみせます。だから――!」
これが自分の本当の始まり。
後世まで語り継がれる伝説の『宰相アイド』としての始まりだ。
「――だから、どうか……。どうか、自分も『理を盗むもの』にしてください……」
力を欲した。
『
「アイドの兄さんの言いたいことはわかってる。心配しなくていい。実は、もう条件は満たしてるんだ。『世界』があんたを見て、認めてしまってる。だから、俺がここにいる」
それに子供――使徒レガシィは困ったような顔をして、すぐに頷いた。
ただ、もう誰の言葉も安易に信じられなくなっていた自分は懇願を続ける。何があっても、この使徒の機嫌を損ねてはならないと必死に、自分を売りこむ。
「もちろん、命を捧げる覚悟はあります! この肉体も好きにしてください。世界に魂を売り渡すのも厭いません。ええ、全てっ、持っていってください! ――自分は『自分』だって『代償』にできます!!」
『契約』には『代償』が必要だというのはわかってる。
その『代償』は大きく、自分自身さえ失うであろうこともわかっている。
そのことを伝えると、少しだけ使徒は驚いた顔を見せる。
「……流石は、最後の『理を盗むもの』だ。他と違って、よく話をわかってる。……あの姉のために独自に調べていたのか? いや、どちらでもいいか。なにせ、もうあんたは『代償』は決まってる。――いま失いかけてるものを、姉と同じところに落とせばいいだけだからな」
『代償』は決まってる……?
姉様と同じところに落とす……?
いや、姉様と同じなら別に構わないか……。むしろ望むところだ。
「『理を盗むもの』の説明は必要なさそうだが、一応はさせてもらうぜ。それが俺の仕事らしいからな」
「それでは……、その、自分はなれるのですか……?」
「なれる。あんたの熱意に世界が負けてしまったみたいだ」
「あ、ああ……」
その言葉が聞きたかった。
ずっと止まっていた息がまた通り始めたかのような感覚に、自分は頬を綻ばせる。
ただ、それを使徒は戒める。
「だが、その前に聞く。いまなら、まだ引き返せる。……アイドの兄さん、本当にいいのかい? はっきり言って、お勧めしない。他の使徒二人と違って俺は仕事なんてどうでもいいって思ってるからはっきり言うが、『理を盗むもの』なんて詐欺みたいなものだ。大体、なったやつはみんな不幸になってる。いまのところ、笑えるくらいに十割不幸だ」
「それでも、お願いします」
自分は即答する。
その戒めが正しいと知っていながらも、突き進む。
たとえ不幸であろうとも、そこには『自分』がいるだろう。
『
「……すげえな。それでも、か」
その即答に使徒は心底から驚いたようで、途端に萎縮して、自分から一歩遠ざかった。
そして、眩しそうに自分を見て、少し遠くから話を再開させる。
「俺はあんたに期待してる。だから、このレガシィによる過去最高に意地の悪い『代償』でも
過去最高に意地の悪い『代償』と言われても、自分は心を揺るがすことはなかった。不真面目と噂の使徒レガシィならば、そのくらいのことはしてくると予想していたからだ。
ただ、噂ほど使徒レガシィという存在が邪悪に見えず驚いてもいる。
よく見れば、好意的な視線を自分に向けているように感じる。一つ上の立場にいる『使徒』でありながら『理を盗むもの』に憧れ始めているようにも見える。
ただ、その憧れの表情はすぐに消えて、真剣な仕事人の表情に戻る。
それに自分も真剣に応える。
「先の言葉を自分が曲げることはありません、使徒様」
「わかった、アイドのお兄さん。必ず、あんたを『理を盗むもの』にしてやる。これからあんたは、運の悪いことに使徒レガシィの選んだ『木の理を盗むもの』となる。それじゃあ、まずはその心臓を潰さないとな――」
――こうして、その日、
自分で自分の心臓を潰したのだ。
『契約』は果たされた。
使徒様が見守る中、自分は姉と同じ『理を盗むもの』となった。
それは『木の理を盗むもの』アイドの始まりであり、一人の弟アイドの終わりの瞬間だった。
そして、そのときから自分は、とある大切な
『理を盗むもの』たち全員が臨む『使徒の試練』に、自分も落とされた。
ただ、そこには自分だけでなく『
それだけで自分は恐れも不安もなかった。
これが宰相アイドの物語の始まり。
始まり、のはずだ――
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