55.天上の七騎士序列二位ハイン・ヘルヴィルシャイン
『
それが、いまの私だ。
――私はラスティアラ・フーズヤーズの騎士ではない。
誰の騎士にもなれなかった騎士。フーズヤーズの騎士の名家に生まれ、その家名に怯えながら生きる情けない男のことだ。
そんな私がお嬢様と出会ったのは十八才の頃、『
大聖堂の薄暗い地下に案内され、何重もの封がされた扉をいくつもくぐり、蝋燭一つしか灯りのない部屋で出会った。
そのとき、お嬢様は目を瞑って眠っていた。
柔らかいベッドの上で、純白のシーツをかけられたお嬢様は、この世のものとは思えない美しさだった。
先に簡単な説明は聞いていたので、それが『聖人ティアラの器』だとは理解していた。
私は息を飲んで、お嬢様を――その少女を見つめる。
「これが、あの『ティアラ』ですか……?」
「ああ、我が国フーズヤーズの悲願であり、魔法技術の結晶だ。かの聖人ティアラが残した、『再誕』の魔法の
私を案内した男、フェーデルトは簡潔に答えた。
フーズヤーズ国の宰相の代理を務めている壮年の男だ。現在、『
その濁った目の通り、いくらか手段を選ばない気質だが、国への忠誠だけは誰にも負けない――まだ
「一体いつから、こんなことを? 見たところ十代の半ばほどでしょうか……?」
「いや、彼女は零才児だ。
「三ヵ月……? なら、なぜこんなに……」
私は驚く。
いま目の前で眠っている少女が赤子なはずはない。
背なんて自分に近い。どう見ても成人だ。
「いまの魔法技術ならば可能だ。これを三年後の聖誕祭に間に合わせる必要があり、自然と肉体年齢も引き上げることになった。始祖の予言通りの年、定められた日に、十六歳の完成品を捧げなければならないゆえな……」
「そ、そうですか……」
フェーデルトは何でもないように説明を続ける。
「そのための教育係として選ばれたのが君だ。騎士ハイン・ヘルヴィルシャイン」
「教育係……」
「とりあえず、これは、かの聖人ティアラの末裔として扱う。現人神としての地位を持たせ、来るべき日に備える。……その備えのいくつかを、君にも受け持ってもらいたい。これには、それ相応の力と教養をそなえさせなければならない。かの聖人が降臨なさったとき、その身体が弱く鈍っていては計画が遅れる。聖人様には、すぐさま働いてもらうのでな」
ようやく話が見えてきた。
要するに、この少女を聖人ティアラに失礼のないような器として育てることが私の任務というわけだ。
「鍛えればいいのですか? それくらいなら、できそうです」
「いや、鍛えるだけじゃない。ここから重要だ」
フェーデルトは濁った目のまま、話を続ける。
「直に、これには自我が芽生える。そうなったとき、この少女が体裁良く儀式を受け入れるかどうかが問題なのだ。そのために色々と誘導してもらいたい」
見えてきた話に影が落ちてきた。
私は質問をもって答える。
「え、えっと、自我が芽生えるのですか?
「当たり前だろう。
「ぬ、塗り潰される? 同居ではなく、塗り潰される? それは――」
この子が死ぬってことじゃないのか?
そう思い至り、微かな義憤を燃やそうとしたとき、冷たい言葉の羅列に遮られる。
「これは国の決定であり、レヴァン教の総意であり、始祖の遺言なのだ。騎士ハイン」
「…………」
私の小さな義憤は、国の決定という氷塊にあっけなく潰された。
「
「い、いえ、決してそのようなことは」
何が叛意だ。
立場が上だからって、言いたいことを言ってくれる。
私は内心で唾を吐きながら、頭を下げる。
「なに、少女は喜んでラスティアラになる。我らは喜んでそれを迎える。民は喜んでそれを祝う。――必ず、そうなる。そうなれば、誰も不幸にはならないだろう? みなを幸せにする。それが君の仕事だ。そのために年も近く、作り話の上手い君が選ばれたのだ。レヴァン教の美しさ、聖人ティアラの偉大さ、使命と献身の尊さを、君の得意の創作で彩ってくれればいい。それだけだ」
これで話は終わりだと、フェーデルトは説明を打ち切る。
けれど、全く説明は足りていない。
成り立ち、計画、その始祖の遺言とやらは私に教えないつもりだ。
新米の末端騎士は何も知らなくていいってことだろう。
当然、それに私は従わなければならない。
唇を噛んで耐えないといけない。それがヘルヴィルシャインの騎士の宿命だ。
「いいな、任せたぞ。
そう言ってフェーデルトは、私に言葉の鎖をかけた。
鎖を粛々と受け取るしかできない私に背を向けて、フェーデルトは部屋から出て行く。
取り残された薄暗い部屋で、私は溜息をつきながら少女の眠るベッドに近づく。
…………。
――これが私とお嬢様の初めての邂逅だった。
そして、私は少女を起こすのだ。
「や、やあ。私はハイン。よろしく」
できるだけ優しく、それでいて気さくに声をかけた。
とりあえず、教育係としての信用を得るためだ。
少女は痛む頭を抑えながら、起き上がる。
「ぁ、ぅあ……、ハ、ハイン? わ、わたし、私は……? 頭が……」
少女は私の言葉を理解し、素直に名前を思い出そうとする。
しかし、自分の名前がわからないことに気づく。
「わたし、わたしわたし私……? わ、私の名前が、わからない? うぅ、情報が、色々な情報が、湧いては消える……!」
その言葉から、私は少女の状態を推察する。
おそらくは、血の術式に日常の知識や言葉を仕込んでいたのだろう。
放っておけば、十六才に必要な基本的なことはわかるはずだ。でなければ、生後三ヵ月の彼女と、こうもスムーズに会話ができるわけない。
「いや、無理はしなくていい。名前は、こちらで用意してあるんだ」
そう私が言うと、少女は目をぱちりと開けてこちらを見つめる。純粋に、生後まもなく光を見たかのように、こちらを見つめる。
光を見た少女に、私は名前を授ける。
フェーデルトが用意した名前だ。
「ラスティアラ……。君の名前は、ラスティアラ・フーズヤーズ」
もはや、呪いとしか言えない名前を授ける。
「ラスティアラ……。私はラスティアラ……」
頬を少し赤くして、少女は嬉しそうにその名前を繰り返す。
それを仕事だと割り切り、私は話を進める。
「……よろしく、ラスティアラ。あ、いやラスティアラ様って呼ばなきゃ駄目か? 現人神様だもんな……。そうなると、敬語も使わないと駄目か……。とにかく、お嬢様。私が今日から君の教導役になるハインだ。わからないことがあったら、何でも聞いてよ」
私は必要な情報だけを少女に与える。
「わかりました、ハインさん」
少女は微笑みながら了承した。
そして、少しだけ考え込み、私の顔を見て不思議そうに問いかけてくる。
「ハインさん、さっそく聞きたいことがあります」
「なんだい?」
せめて、できるだけのことを答えてあげようと私は思っていた。
なので、優しく聞き返す。
「なぜ、あなたはそんなにも
けれど、そんな「できるだけ」「優しく」なんて無理だと、すぐに理解する。
「か、悲しそう?」
「はい」
咄嗟に私は手を顔にあてる。
口を鼻を頬を目を、指でなぞり、自分の顔が歪んでいることを理解する。
理解はするが、認めるわけにはいかない。
私の仕事に不要なものだった。
「そんなはずはない……。いま私は笑ってる。優しく笑っているに決まっている。君の勘違いだよ……」
「……そう、なんですか?」
少女は心底不思議そうに繰り返す。
血液から与えられる常識と食い違っている情報に困惑しているのであろう。
それでも、私は言い通す。
「ああ、勘違いだよ」
私は少女を哀れんでなどいない。
同情も、感情移入もしていない。……しちゃいけない。
このときの私は、そう思ったのだ。
確かに、そう決めた……。
…………。
そう決めてしまったとき、同時に私は自分の道も決してしまったのだろう。
――私は少女の騎士には一生なれない。
それを認めてしまった瞬間が、このときだった。
もし一度だけ、人生をやり直せるのなら、私はこのときに戻りたい。
戻ってやり直したい。
『
――その後、間もなく、私はこの純真な少女に恋をする。
しかし、全てが遅かった。
恋をして、彼女の騎士になりたいと思ったときには、もう私には資格がなかった。
自分から捨てたからだ。
彼女を助ける役割を。
彼女のための主人公役を。
そして、得ていたのだ。虚言をもってヒロインを騙すだけの汚らしい悪役の座を。
その愚かな悪役は取り返しのつかないことを続ける。
でないと、彼女の傍にいられなかったからだ。
彼女を助けようとすれば、自分が汚らしい悪役であることがばれてしまう。ばれてしまえば、笑みを貼り付けたまま嘘をつき続けた私を、彼女は幻滅するに違いない。それが私は怖くて仕方がなかった。
それだけじゃない。
私は国を敵に回すのが怖い。
いまの立場を失うのが怖い。
家族の期待を裏切るのが怖い。
フーズヤーズ、ヘルヴィルシャイン、『
簡単なことだ。
私は恋に殉じることもできない。
ただただ情けない男だったというだけ。
そんな私のできることは唯一つ。
少女を苦しませず、幸福をもって、完璧な『ラスティアラ』とすること。
聖人ティアラを理想とさせ、英雄になることを望ませ、国を救うことを幸せだと思わせる。それが完璧な『ラスティアラ』。それだけが私に残った――彼女にしてあげられることだ。
それで少女は幸せになる……。
それだけが、少女は幸せに終われる道……。
…………。
という言い訳を重ね続けた。
それでいいわけがないと、わかっていながら……。
続けた……。
それが私。
少女の騎士になれないハイン・ヘルヴィルシャイン。
こうして、私はやるべきことから目を背け続け、一年二年と教育という名の洗脳を行い続けた。しかし、約束の聖誕祭の日まで、あと少しとなったある日――少女は言うのだ。
暗い夜を突き進む船が地平線に何かを見つけたかのように、少女は願った。
「……ハインさん。……最後に、外を見てみたいです」
完璧だった少女に綻びがあったことを、そのときになって私は気づく。
他でもない私の無意識が、ある綻びを生んでいたと初めて気づく。
この少しあと、少女ラスティアラは、黒髪黒目の少年キリストと出会う――
それが少女と少年の物語の始め。
運命の歯車の鳴り始めだ。
その音を私は、いまでも、はっきりと思い出せる。
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