忘れ水に眠る鬼

かざき

出会いの章

第壱話『はじまりの刻』 

1-前編

 あのとき。あの場所で。私は"鬼"と出逢ってしまった。

 それは ―― 運命だったのかもしれない。


 あの刻。この場所で。我は"人"と出逢ってしまった。

 それは、避けられぬ宿世からのえにし ―― 。



  第壱話 『はじまりのとき


 かさり。かさりと地面に落ちた小枝や葉を踏みしめて、少女は歩いていた。桜色の唇が、きゅっと一文字に結ばれて不機嫌さを示す位置にずっと貼りついている。

 どこか幼さの残るその顔を彩るように、僅かに癖のある栗色の髪が肩の上であちこちを向いて揺れていた。

 桔梗が描かれた霞色の小袖に漆黒の袴。そして背には潤朱色の筒袋に入れられた長い荷物と同色の巾着袋を背負っている。

 この足場の悪い小道を歩くには、やや不向きといえる格好だった。

「……まだ着かないの?」

 大きな溜息をついて、少女はかいてもいない額の汗を拭うように隣を見やる。

「すみません。あと少しです。控え室から射会の会場までは二十分ほどかかりますので……」

 彼女の隣を歩いていた初老の男性は、白髪まじりの頭を申し訳なさそうに下げた。自分よりもひと回りもふた回りも若そうな少女に対して慇懃な態度で答えるのは、彼女が男にとって大事な人間の娘だからだ。

「あの場所からこっちは神苑と呼ばれておりまして、神社の聖域ですので車は入れませんのです。建造物も禁じられておりましてね、控え室も離れた場所に建てるしかないんですよ。この先にあるのは、祭りのための射場だけです」

「聖域、ねえ。こっちは袴で歩きにくいのになぁ……」

 散った木葉が地面の土色を隠し、黄色や紅が鮮やかな落葉の絨毯がずっと遠くまで続いていた。周囲を見渡してみても紅葉にもえる木々ばかりで、ちっとも目当ての場所が見えては来なかった。

 千数百年もの歴史があるといわれる由緒正しい藤城とうじょう神社。子供の頃からよく境内で遊んでいたこの神社の奥深くに、こんな場所が隠されていたとは知らなかった。

 あたりを眺めながら、そう少女は軽く目を細める。

 観光や参拝の人々が訪なう拝殿や社殿の周りに流れる、どこか気さくな静粛さとは違う。さすがに神のそのと呼ばれる聖域だけあって、どこまでも清浄で厳かな気が流れているように感じられる場所だと思った。

「まあ……紅葉が綺麗だからいいか。散歩気分、でね」

 少女は周りで艶やかに彩付く紅葉の木々を見やり、小さく笑う。

 これから自分は粛々と神事の一役を担うことになるのだ。それを思うと、このまま不機嫌な心持ちではさすがにマズイかなと思ったのかもしれない。

 そもそも少女 ―― 逢沢悠音おうさわはるね ―― がこうして神苑の小道を歩くことになったのは、五十年に一度行われる藤城神社の『神迎のかみむかえ神事』と呼ばれる大祭の最初に行われる『神矢献上式』で、射士の役目を仰せつかったからだった。

 神迎の神事は秘儀として一般に公開されることはないが、十八歳にして既に四段という高段位を得て国体で優勝したこともある弓道の腕前も然ることながら、この藤城町でも有数の資産家であり、氏子として藤城神社に莫大な寄付をしている逢沢家の一人娘である彼女がその役目につくことには、誰も異論がなかった。

「とくに今年は見事なんですよ。神迎えの神事が行われる年ですからねえ。……この見事な神苑の紅葉を我々神職の者は見られても、一般の方々にお見せ出来ないのが心苦しいところですがね」

 少女が紅葉のおかげで機嫌を直したことが分かったのか、初老の男はにこにこと笑った。

「……どうして神迎のある年だから、なの?」

 まるで祭りを行う年はいつも以上に綺麗なのだと言いたげな男の顔を、悠音は不思議そうに見やる。男は目じりの皺を深めるように笑った。

「この苑のどこかに鬼が封じられているそうでしてね。その鬼の髪が紅葉の色なんだそうです。五十年に一度、鬼は目覚めそうになる。目覚め始めたことによって溢れ出た妖力で木葉がその鬼の頭のように例年以上に紅くなるんだそうですよ」

 白髪混じりの頭を撫で付けるように押さえながら、男はあざやかに紅く染まった木々を見やる。

「ああ、でも心配はいりません。鬼は解き放たれはしませんから。新たに封じなおしてもらうために神をお迎えするのが『神迎の神事』ですからねえ」

 今の世に鬼なんて信じる人もいませんが伝統行事なのでね。そう男は可笑しそうに付け加えた。

「ふーん……」

 悠音はぐるりと周りの木々を見渡した。

 確かに、この世の物とは思えぬほどに美しく色づいた紅葉が、夢幻的なまでに広がっている。

 こんなふうに綺麗な紅葉をつくる鬼だったなら毎年でも起きてくれればいいのにと思う。もちろん鬼なんかこの世には居らず、お伽噺の中だけに居る存在だと分かっているからこそ言えることではあるのだが。

「 ―― あれっ?」

 ふと、悠音は木々の間に何か光るものがあるような気がして、目をまるくした。

 よく目を凝らして見てみると、それは物ではなく、ただ水に陽が反射しているようだった。

 木々の間を落ち葉に隠れるようにして、細い水の流れが出来ているのだ。

「あんなところに小川があるの?」

 思わず道を逸れて水の方へと足を向ける。何故か、その細い水流に心惹かれた。

「逢沢さん、あまり時間ないんですよー」

 慌てたように男は悠音の名を呼んだ。あまり道草を食っては神事の時間に遅れてしまう。それに、この小道から外れて神苑と呼ばれるこの聖域をむやみやたらに歩き回るのはご法度でもある。

 それでもぐんぐんと歩いていく少女に仕方なさそうに溜息をついて、男は呼び戻すために足の向きを変えた。

「……わっぷ!?」

 ふいに強い風が木の葉を巻き上げるように吹き荒れた。紅葉が渦巻くように宙を舞い、一瞬視界が遮られる。

「 ―― おう、さわ……さん!?」

 風が収まり男が目を上げると。ついさっきまでそこに居たはずの少女の姿はどこにも見えず……まるで掻き消えたかのように居なくなっていた ―― 。

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