僕はジョバンニ

みとけん

第1話

 歌川薫は私の演技の師匠とも呼べる存在で、私が所属する劇団の元女優。高校生だった私が入団を決めたのも薫さんが演じる舞台を観覧した経験が焼き付いていたからだ。その時の演目はなんだったのか今では思い出せないが、彼女の演じた人間の物語や感情が強烈な印象を残した。

 そんな彼女が、今は写真の中で笑っているだけだ。

 僧侶が木魚を叩きながら心経を唱えている。数珠を揺らして、伏鐘を鳴らす。


 告別式を終えたときの空は遠く、鈍色にくすみ始めていて、駅に着くころには雨が降り始めた。

 「現在、御場町行き列車は列車トラブルのため休止しております」と、アナウンスが構内で響いていた。

 眉を八の次にした人間が何人も呆然と「現在休止中」の文字を眺めていた。

 私は、駅内のコンビニでビニール傘を買って、時間つぶしにその辺りを散歩することにした。

 「実際どうするんでしょうね、あの子」

 葬儀場にいた誰かが言っていた言葉。

 「この先……」

 

 私は小雨の降る公園に居た。歩道に敷き詰められた煉瓦の、窪んだ所に雨水が溜まっていて、辺りには誰も居なかった。

 私は、ブランコに腰を下ろした。

 雨滴が地面を打つ音に混じって、こちらに向かってくる足音が聞こえた。

 俯いていた顔を少しそちらに向ける。ジャンパーのポケットから白い手首が見える。

 「君、歌川のルームメイトでしょう」

 一拍、間を置いて「はい」と答えた。

 右ポケットから手が出てきて、そのまま手にしていた名刺を私の眼の前に突き付けてきた。

 「私、新しく入ることになったから。よろしくね」

 羽佐間という苗字と、携帯の連絡先だけが記してあった。「喪服着てたからすぐ分かったわ」

 (はざま)

 口の中でふりがなを読みながら、私は羽佐間を見上げた。

 「どういうことですか?」

 羽佐間は赤いラインの入ったジャンパーに紺のジーンズとラフな格好だった。目鼻立ちは結構ハッキリしていて、ベースボールキャップの下には黒髪が肩まで伸びている。

 「あなたの、」と、私を右手で指差して「新しいルームメイトね」手首を返して彼女自身を指差す。

 羽佐間は右手を私に差し出してきた。

 「これからよろしくね」

 反射的に握手をして、「こちらこそ」と言った。が、実際には事態がよく呑み込めていなかった。


 その日はそのまま駅で羽佐間何某と別れて、薫さんとシェアしていた家に帰った。私たち二人が、日中同じ時間に家に居ることは稀だったが、帰らない同居人の残した家具の佇まいが妙に寂しく感じられた。

 眼が覚めると、携帯には大家から着信が入っていた。折り返す気分では無かったし、そもそも夜の八時だった。その他には、相沢と心ちゃんからメッセージが入っていた。

 相沢からは、来週の合わせ稽古の日取りが業務的に伝えられていた。心ちゃんからのは、食事に誘う旨のメッセージ。心ちゃんにだけ返信して、汗ばんだTシャツの上にジャケットを着て家を出た。

 

 待ち合わせていた喫茶店に現れた心ちゃんは、紺のシャツワンピースに黒地のスキニーパンツという服装で、小ぶりなショルダーバッグを肩からさげている。今夜は薄化粧で、肩まで掛かる天然パーマの髪は首の後ろで纏められている。黒縁の眼鏡で隠しているつもりだろうが、目と鼻の間のあたりに散ったそばかすが見えていた。

 彼女は少し上気した様子で私を見つけると、お待たせしました、と詫びながら私の座っている席へ駆けてきた。

 「もう夕食って時間でもないけど」悪びれて私が言うと、

 「いいですよ、飲みにでも行きましょう」と、彼女は返した。

 心ちゃんは劇団の舞台製作に携わるスタッフの一人。主にセットや衣装のコンセプトを決定する美術プランナー。

 年齢は三十三だが、二十五の私から見ても幼く見える。

 彼女と知り合ったのは一年と半年ほど前で、その日は公演を終えた我らが劇団の打ち上げだった。


 小上がりの居酒屋で、隣に座っていた薫さんと話していたが、そのうち他の劇団員からお呼びが掛かって薫さんは席を空けた。グラスを傾けて底の氷を時計回りに滑らせていたら隣から淡い柔軟剤の匂いが立って、そちらを向くと別の女が座っていた。それが心ちゃんだった。

 心ちゃんは私のグラスに手酌すると、私の演技を褒めた。気の回る裏方であれば、傍役の演技でも褒めるものだと自分では分かっていたが、正直に言って私は浮かれた。自分の演技が褒められるのなんて、観客以外ではその頃私の演技指導をしてくれる香さんの批判を交えたものと、演出家の啓示的なそれだったから。

 私が心ちゃんの手酌のままにグラスを次々空かしたのはそれだけが原因ではない。映画の趣味に、通じるものがあった。というよりは、彼女の趣味が私の趣味をほぼ内包していた。彼女は映画雑誌を購読して、気に入った作品ならば同監督の同作品はすべて網羅した。

 気がつけば街灯で照らされた歩道を歩いていて、なぜか心ちゃんが左を歩いていた。

「白田さん……?」その頃の私は心ちゃんを名字で呼んでいた。

「ほら、足下気をつけて。酔ってるんですから……」

 酔っ払い扱いされるのが不愉快で、曲がってやろう、と強く意識した。曲がってやろう、曲がってやろう、曲がってやる……と考えていたら、本当に私の足が通りを外れた裏路地に向かいだしたので感動した。歯間のような建物と建物の間の狭い道で、私はふうっと一息ついて壁にもたれかかった。そこで少し意識が途切れて、目が覚めたら心ちゃんが私を壁に押しつけて、深くキスをしていた。左脇の建物の裏口にビールのケースが積まれていて、そこに割れたセト物と、ヒビが入った縦長の鏡が立てかけられていた。鏡の中では街灯の光だけがその中で暖かく輝き、建物の陰がそれを切り取って、私たちの輪郭がその一部になっていた。忘れもしないファーストキスだった。


 心ちゃんは温和で少し気が弱いが、性欲が強い。時には堰を切ったように私の体を貪り、キスマークをつける。その日も、ビジネスホテルで焦げるような夜を過ごした。

 翌朝。

「寂しい?」

「ん?」

 ベッドの上での会話だった。左に寝ている心ちゃんが私の鳩尾の少し下に手を回して、そこが暖かくて気持ちよかった。私たちは右の、窓の方を向いて寝ていた。

「薫ちゃん死んじゃって、寂しい?」

「平気。心ちゃんいるもん」

 私のブラのホックの、少し上のあたりに、皮膚を引きつけられるような痛さがあった。「いてっ」

「ごめんなさい」

 心ちゃんは私の背中に鼻を押しつけたままくっくっと笑い出して、私もつられて笑った。


 家に帰ると家の扉が開いていた。全開だった。

「えっ!」鍵は閉めたはずだ。意味が分からない。とりあえず、玄関に足を踏み入れないように中の様子を窺う。家の中の、廊下からリビングに繋ぐ扉も開け放たれていて、私がいるところからは死角になっているあたりに人の気配があった。「え?」

ここからは見えない、リビングの奥の方からひょっと現れた人物と目が合った。

「あ」と、彼女は言った。右手で自身の左肩を揉んでいた。

「あ……」羽佐間だった。迷彩柄のノースリーブに青色のジーパン。軍手をはいていた。

 私は数秒呆然とした。羽佐間は肩を揉む手を止めなかった。先に羽佐間が口を開いた。

「朝帰り」

「何をしているんですか」

「荷物入れてんの」軍手を脱いで、玄関脇に広げてあったゴミ袋に投げ入れた。「手伝ってくれればよかったのに」

「どうしてあなたが私の家の扉を勝手に開けて荷物を入れているんですか」

 そこで、羽佐間は腑に落ちないような顔をして、俯いた。

「鍵、もらったの」

「鍵」

「この家の鍵。歌川から」

「……薫さんから……」

 羽佐間はジーンズのポケットの中に右手の人差し指と親指だけを突っ込んで、平べったいひよこのストラップを引っ張り出して見せた。ひよこの頭から伸びた紐の先はポケットの中に入ったままだった。 

「ね」

 私は上がり込んで、ひよこのストラップを羽佐間の手から引っ手繰った。

 出てきたものは間違いなく、この家の鍵だった。

「怖い顔しないでよ。これで分かったでしょう。言っておくけど、もう今月分の賃料私が立て替えておいたんだからね。あとで君、払うのよ」

「なんで……? アンタ、薫さんの何……?」

 羽佐間が大きく息をついた。

「君、なあんにも聞かされてないんだ」


 かつて、薫さんと共同で使っていたダイニングには段ボールがいくつか積まれていた。私は羽佐間とダイニングテーブルを間に挟んで向かい合っていた。

「私、映画撮ってんだ」羽佐間が脈絡もなく喋りだした。「演じている人たちを撮りたくてね。歌川に相談したの。あ、歌川とは大学の同期ね。私は途中でやめちゃったけど。」

「……」

「演技をする人間の素顔を撮りたかったの。普段の日常を……できるだけ自然に。それで、歌川に君を紹介されてね。打って付けなんだって。で、一年間、歌川の部屋に、代わりに住まわせてもらうことになったんだ」

「……」

「歌川から聞いてないの?」

「聞いてませんね」

「なんにも?」

「ええ」

「そうかあ……」羽佐間は後頭部で手を組んで、ぐっと背中を反らした。「でも、もう荷物入れちゃったし、部屋も引き払っちゃったし」

「はぁ」嫌な流れだった。

「それにさあ、」テーブルに肘を載せて、組んだ手はそのまま口の前へ。「君も実際困ってるんじゃないの。お金」

 そうなのだ。今まで稽古の合間に蕎麦屋とクリーニング屋のアルバイトで生活費を賄っていたが、薫さんが居なくなった今、この二人所帯の家屋の賃料を払えようはずもない。かといって、今すぐここを引き払って部屋を探すほど私のフットワークも軽くはない。何もかも、事態が急すぎたのだ。

 

 薫さんは事故死だった。


 結局、映画の出演の件はともかくとして、羽佐間との共同生活をすることになり、翌日不動産屋にその旨を報告した。


 *


<西山劇場>は大宮駅から徒歩十五分ほどの大通り沿いに事務所と稽古場を構えている。その日はオーディションの結果が知らされる日だった。

「次の主役はおまえだ」と西山に言われた。西山とは私の所属する劇団の演出家で、太った男だ。冗談みたいな厚さの丸眼鏡を掛けていて、髭を伸ばしているが手入れが悪いのかわからないが、もみ上げからそのまま繋がって頬、顎まで渡って、ところによってはくたびれた毛筆の先のように伸びている。

「おまえは今日からジョバンニだ!」と、私を指さす。。

 次の演目は<銀河鉄道の夜>。私の役は主人公の少年・ジョバンニだった。<銀河鉄道の夜>は主人公の少年ジョバンニが星降りの夜に現れた夜汽車・銀河鉄道に乗り込み生と死の狭間を旅する童話。平静を装ったが、実は私はかなり浮かれた。しかし、

「カムパネルラ役は相沢だ。仲良くしろよ」という西山の言葉にたたき落とされた。カムパネルラはもう一人の主役で、ジョバンニの親友。乗り込んだ夜汽車になぜか同席していて、ジョバンニと共に旅をする少年だ。

「変えてください」

「何を」

「相沢の役を」

「やだ」

 相沢に睨まれていた。

「おまえは今日からカムパネルラだ!」と、相沢を指さす。

「はい」腹から出した声で答える相沢。

 西山はすべての役者に私と相沢に言ったようなことを叫んでいって、以降、私たちが軽く体を温めて読み稽古を行っている間、稽古場の隅でじっとしていた。どろんとした目つきだった。きっと本人が想像していた以上に重労働だったのだろう。


 午後の授業だった。教室は上から見ると円を半分切ったような形で、まっすぐな辺に黒板と教壇、半分のぐるりとした部分には三段机が設えられて、僕たちはそこに座って先生の話を聞いている。黒板には、僕らからしたらウンと大きい星座図が吊されていた。先生は自慢の棒で銀河に跨がった白い、何かを擦ったようなをなぞって、僕らに質問した。まず、一番はじめにカムパネルラが手を上げた。彼につられるように、もう一人、二人と教室の中の手が挙がっていく。僕はその様を見ていて、親友の彼を誇らしく思った。


 私はできる限り場面の雰囲気をイメージしながら、台詞を読み始める。教室に充満する子供たちのざわめき、衣擦れの音。それに、夏の熱気を思った。……とはいっても、この世界の夏は今ほど暑いわけはないのかもしれない、とも思う。ただ空気にべたつく感じはないだろう。涼しい八月の下旬を想起した。

  

 脚本のページの二枚目を繰ったところで、ストップが掛かる。舞台監督の津田だった。

「感じは掴めたかな。本番まではまだ日があるが、各自、自分の役への解釈を深めてほしい。ああ、それと、体力作りは怠らないように……体調にも気を遣って。あとは……西山?」

「うん? ウン……解散!」

 入り口にはもう次に稽古場を使う予定のチームが控えていた。

 見知った劇団員の中に心ちゃんがいて、私と目が合うと笑って手を振った。今日はウェーブの髪をサイドにまとめて、鎖骨のあたりにかかっている。そばかすはしっかりファンデーションでカバーされていた。

「白田さん。見学?」私は、二人きりでない時は心ちゃんのことを白田さんと呼ぶことにしている。心ちゃんにしても同じだった。

「いえ、今回は見学というよりは役者の演技の確認ですね。実は、今回津田さんにこっちのチームの舞監任されて」

「すごい。出世したね」

「うん。……まだ、補助輪ですけどね」西山と並んでパイプ椅子に座っている津田を見る。「津田さんの監視付きです」

 実際は、最近裏方が立て続けに退団している事情もあるのだろうが、心ちゃんが嬉しそうにしていたので私もすごく嬉しかった。肘で脇腹を突かれた。

「聞きましたよ。主役。そっちもやりましたね」

「……」私は微笑もうとしたが、カムパネルラ役の相沢のことを思い出して、中途半端な表情になった。

 心ちゃんは不思議そうな顔をして目を瞬いた。

 私は声を潜めて、今夜お祝いしようか、と尋ねた。しかし、心ちゃんは苦く笑って頭を振った。

「明日、朝早いんです」

「そっか」

 心ちゃんに翌朝の予定を気にするイメージは無かったが、それほど今回の舞台に入れ込んでいるのかもしれない。私は少し寂しい気分になったが、それ以上は何も言わずに家に帰ることにした。


帰りの電車で、相沢と一緒になってしまった。相沢は劇団の中で唯一、私と同年齢の役者だった。はじめは最も仲良くなるかもしれないと思ったが、すぐにそれが大変な思い違いであることが分かった。相沢は演技に対する拘りが強すぎるのだ。大抵、劇団内では役者それぞれの解釈を尊重し合った上で擦り合わせ、ブラッシュアップしていくのだが、相沢は譲ることをしない。自分の演技に絶対の自信を持っているのだろう、と私は考えていた。

 同じ車両の左側の扉近くに私が立ち、右側の扉近くに相沢が立っていた。座れる場所は無かった。私は相沢の存在を無視して脚本を読んでいた。観察するつもりは無いが、ちらりと視界に入った様子だと相沢も脚本を読んでいるようだった。列車が三駅通過した頃に私に近づいてきてこう言った。

「薫さんのことは、残念です」

 私は開いていた脚本ごしに相沢を見た。

 「良い舞台にしましょう」

 彼女はまっすぐ私を見ていた。私が口を開く前に、後方の扉が開いて相沢は降りていった。

 この日の相沢はらしくなかった。彼女も長く劇団で演技を続けて、裡に変化があったのかもしれない。……いや、どうだろう。ただの気まぐれかもしれない。いつもの彼女なら小言の一つでも言うところだろうが、……同情されているのか。そう考えると私は腹が立って台詞が頭に入らなくなった。


 羽佐間がリビングのソファでビデオカメラを弄っていた。ノースリーブにジーパンのスタイルはお決まりらしい。

「日当たりいいんだね。気に入ったよ、ここ」にっこり笑っている。

 私は羽佐間を無視して自室に入って、部屋着に着替えた。私の部屋は、まず入り口の脇に演劇に関する本だったり、辞書、脚本、小説なんかが散らばっている。元々本棚に入りきらないものを積み上げていたのが、崩れたのだ。ベッドの周りには一回着たけれど洗うほど汚れてはいないような衣類が散乱している。うっかり二、三度着た服も混ぜてしまうこともあるから、一応臭いを嗅いでから着るようには、している。その他には至るところに書類が落ちていて、その上に抜け毛やほこりが……。いつも部屋を片付けようとは思うのだが、もうどこから手をつければいいのか検討も付かない。

 部屋の扉を開けて羽佐間が入ってきた。ビデオカメラを携えている。

「うわ!これはすごい……」

「ノックくらいしてくださいよ」どうやら羽佐間は年上らしいから敬語を使っているが、タメ口になるのも時間の問題かもしれない。

「撮っていい?」と言いながらすでにカメラを回している。

「だめです」

「困るな、そんな態度じゃ。もうちょっと協力してくれたっていいじゃない」

「なんで私があなたに協力しなければいけないんですか」

「だって、歌川が紹介してくれたんだもの」

「……」

「それにしても、この部屋は……。すっごいなあ……」カメラを回す。

「だから、撮るなって!」

「いいね、いかにも素顔っぽいよ。役者の素顔」

「あー、もう……」カメラに向かって歩いて行くと、羽佐間は私を画角に収めようと後退する。そのままリビングに追い出して、後ろ手で自室の扉を閉める。

「分かった分かった。ギャラ払うから!」

「……」

 この言葉にはかなり心が動いた。興味を悟られないように、目顔で話の続きを促す。

「君が負担する月の賃料の半分を払うよ。どう?」

 つまり、羽佐間が家の賃料の四分の三を支払う形になる。悪くない話だ。だが、

「ちょっと待って。アンタ、そもそも収入あるの?」

「あるよ」

 私は羽佐間の職業を予想した。オフィスワーカーにしては格好がラフな気がする。アパレル関係だろうか。映画を撮るなんて言ってるから、芸術系……デザイナーか? 少なくともここのところは時間を自由に使えるのだろうか。……そういえば、夜以外に羽佐間とあったことがない。水商売か?

 そこまで考えて、職業を予想するほど私は羽佐間のことを知らないのだと思い知った。薫さんと大学の同期だったということを本人の口から聞いただけだ。

「ドキュメンタリーなら、劇団員の生活は辛い……なんてナレーションがはいる所だな」

「分かりました、ギャラを頂けるなら」

「タメ口でいいよ、いまさら。わかりやすいねえ、君」

 頭に血が上って、顔が赤くなるのが分かった。だが、何も言えなかった。私は大人しくソファーに座った。羽佐間も隣に座る。バストショットを取っているらしい。

「それじゃあ、そうだな。……君自身について話してみて」

「そんな、曖昧に言われても……」

「なんでもいいからさ、名前、出身地、年齢、えー、好きなもの、嫌いなもの、そんなようなことをさ」

「……」私はまず、自分の名前を言った。「出身は千葉県の浦安で、年齢は二十五……映画を観たり、するのが好き。あと、小説も……。演劇は観るのも、演じるのも好き」

 カメラを見る。

「もっと何か」

「う……ん。演劇を始めたのは、薫さん、私に演技を教えてくれた人の影響で、薫さんの舞台が初めて観た演劇だった。その舞台は東京の上野の劇場で演ってて。お母さんと一緒に観に行った。……話が前後してる。やっぱり、分かりにくいでしょ、纏めさせてよ」

「いいよ、そのまま。歌川の演技を観て、どう思ったの」

「薫さんの演技は何というか、……生きてるんだなって思った」

「生きてる」

「うん。物語を読むのは好きだった、けど。……その頃の私、あんまり学校行けてなくて。……それで、近くに住んでた薫ちゃんが舞台やるからって、お母さんが私を連れて行って。気晴らしになるかと思って、とかなんとか。とにかく、私は物語って読んだり観るのは好きだけど、フィクションなんだな、って思ってて。楽しんでたけど、諦めてて。だから、薫さんが、物語の中で生きてるって思ったのがすごく驚いた。ああ、入れるんだなって、フィクションに」

「フィクションに入る、か」

「そう。薫さんは演じることで、そういう違う世界で生きてて、それにすごく憧れた。羨ましくて、薫さんの演技は私の目標になって、それから、学校サボって薫さんの稽古を見学しに行ったり。高校で演劇始めてからはアドバイスをもらったり。……今もあの人の演技が好き。目標なんだ。ずっと……」

「……」

「……現実逃避なのかなあ……」


羽佐間がビデオカメラを止めた。

「オーケー。いいね」

「これで終わり?」

「今日はね。また何か聞くかも。しばらくは君の生活を撮るだけだと思うけど」

「はあ……」

 だるさと一緒に空腹が来た。窓の外が暗くなっていたので、私はソファから立ち上がって部屋のカーテンを閉め、電気を付けた。

 闇雲に話を続けることがこんなに疲れるとは思わなかった。一人で長いエチュードをやった気分だ。これが少なくとも一年間、複数回あるかもしれない……安請け合いしたか。


 リビングに行くと薫さんがいて、今度の舞台の台本を読んでいた。西山劇場から引き抜かれた彼女は来春、東京の大きな劇団に席を移す予定になってる。読み稽古に付き合ってほしいと言われたので、私も自分の脚本を取り出した。なぜかポケットに丸めて入ってあった。チェーホフの「かもめ」だった。この演目はとにかく登場人物が入り乱れ喋りまくる。しかし、どの会話も絶妙にちぐはぐで、着陸しない一方的な思いだけが交錯する。私は脚本を手に持って複数の役の台詞を回したが、薫さんは軽い動作――立つ、歩く、座る――を交えながら自信の台詞を諳んじた。第一幕が終わるころには舌根が乾いて仕方なかったが、薫さんに感謝されて嬉しかった。ところが、私は自分の受け持つ役を、台詞を回しているうちに忘れてしまっていた。脚本のどこにも書いてなかった。動悸が激しくなって、私は額の汗を手の甲で拭った。すると、わたしの顔に凹凸がないことに気づいた。それどころか私は服も来ていなくて、ディティールの無い平坦な人形になっていた。薫さんは消えていた。そこで目が覚めた。


 *

 

 朝の八時。羽佐間はリビングに居なかったが、テーブルの上にビールの空き缶が二、三と、半分程残したジャックダニエルの瓶が転がっていた。なんとなく、羽佐間が使っている、元・薫さんの自室を覗いてみると、ベッドは取り換えられていたが、棚や小物は殆ど薫さんが使っていたものそのままで、綺麗だった。羽佐間はまだ寝ていた。

 顔を洗って歯を磨いた後、インナーを変える。リキッドファンデだけを塗って玄関を出、いつものコースを走る。家を出て、市内の二車線道路の歩道を少し行った所を西に曲がると、等間隔にケヤキの木が植えられた道に出る。私はいつもこの道を市境くらいまで行って戻ってくる。途中、ジャージを着た高校生くらいの男の子と擦れ違い、次は四十くらいの隈の濃い男と擦れ違い、私くらいの年齢の女性が走ってきたと思ったら同じ劇団の女の子で軽く会釈し、最後に何故か歩いていた舞台監督の津田と出会った。

「おはよう、ございます」息を整えながら挨拶する。

「ああ、おはよう。」篠山の頭には寝ぐせが立っていた。

「これから、ミーティング、ですか?」

「そうだよ。西山と、白田と色々な」

 そういえば、心ちゃんは明日が早いと言っていた。

「朝からお疲れ様です」

「お疲れになるのはこれからだけどな。西山が電話に出ないんだ。多分寝てるから、ヤツの玄関の扉を優しくノックしにいくところだ。朝がいいと言い出したのはヤツなんだけどな」

「お疲れ様です……」

「ああ、そっちも今朝からごくろうさん」

 また走りだそうとしたら、待った、と言われた。

「平気か?」

「え?」

「ほら、お前、だって、歌川が亡くなったばかりだからさ。実際のところ、主役はどうかと思ったんだが、西山がお前を推すもんだからな。いや、演出家はヤツなんだから俺が口を挟むのもおかしいんだけど」

「ああ……」私は向き直った。「平気です」

「そうか」

「本当に、平気ですから」本心だった。

「いや、変なことを言って悪かった。君のジョバンニ、期待してるよ。西山も俺も。頑張ってくれ」

 私は走りだした。今度は呼び止められなかった。

 それにしても、西山が津田を押して、私を主役に推薦していたとは知らなかった。私の普段の演技にジョバンニの持つ少年性を見たのか。それとも、演出家なりの方程式があって、私が式を埋める因数だった、それだけのことかもしれない。なんにせよ、悪い気分ではなかった。

 家に帰ると九時半だった。シャワーを浴びて体を拭く。風呂場近くのキャビネットから新しい下着を出して履いた後、そのまま自室に入って今日の服の発掘を始める。黒いワイドパンツと薄いピンクのTシャツがなんとなく今日らしい気がする。……薄い、ピンクのTシャツ? 私にそんな趣味はない、……そうだ。これは心ちゃんから誕生日プレゼントで貰ったものだった。……まあいいか。それらを着てリビングに戻った。


 脚本を読みながら台所でコーヒーを淹れているときに、ああ、と思わず声が出た。今朝すれ違ったあの女の子だ。脚本の末尾に載っている出演者・役名リストに「鈴木由菜・西洋風の姉弟 姉役」と書いてあったのだ。

 今考えると、すれ違った今朝の彼女は私より少し幼いくらいの年頃だが、背は私(一六七センチ)よりも高かった。私は彼女が出てくる部分を、喋っていない時の自分の動きをイメージしながら読んだ。


 カムパネルラが苹果の匂いがするといって、辺りの席を見回したから、僕も一緒になって後ろの席を見回してみた。「野茨の匂いもするよ」と僕が言って、ああ、開いている窓から匂いが入ってるんだ、と思った。僕はジョバンニと一緒になって、身を乗り出して窓の外を観察した。遠く、夜空に花火が咲いて、そのまま止まったような光の中に草花が咲いていたけれど、今は秋のはずだから花の匂いをするのはおかしいな、と思った。それで、車内に向き直ると、ちょうど外国風な三人組の人たちが通路を歩いてきたところだった。


 その時、扉が開いて羽佐間がうんうん呻きながらリビングに入ってきた。顔が少し赤黒く むくんでいる。そのままうんうん唸りながら便所へ向かった。私は無視した。


「あら、ここどこでしょう」と少女が言う。「きれいだわ……ほら!」

 少女が指さして、背高の人と手を繋いでいた少年が、弾かれたように僕たちの身を乗り出していた窓に駆け寄る。その目は未知の世界に爛々と輝いている。

 背高の人と少女も少し遅れて寄って、窓をのぞき込んだ。

「ここは、ランカシャイヤ。いや、コンネクテカット……」背高の人はぶつぶつと言いながら右に左にと世界を眺めて、息をつく。「私たちはそらへきたのですね」

 少女と少年ははっと背高の人を見た。カムパネルラは席に座ってじっと外を眺めていた。僕にはだんだんとこの鉄道のしくみが分かってきた。ここの人々は、どうしてかは分からないけれど、ちょうどこの三人組みたいにまったく唐突にこの鉄道の乗客になるのだ。けれど、そらを走っているというのに、背高の人はむずかしい問題を解いているような顔をしていた。僕にはそれが不思議だった。


 羽佐間が便所から出てきた。少し体調がよくなったらしいが、ふらふらしている。二日酔いだろう。そのままシャワーを浴びにいく。


 脚本に場や動きのイメージを書き込んでいく。薫さんに教えてもらったやり方だ。こういうのを自分の中で設定しておかないと合わせ稽古のときに、不自然な動きになる。

 この辺りの設定が他の役者のイメージと大きく齟齬があったりすることもあるのだが、そこは私が相手に譲ったり、譲られたり、擦り合わせていくわけだ。そこで、相沢の顔が思い浮かんだ。はあ……。とにかく、今日の内に稽古場の掲示板に舞監が調整した合わせ稽古のスケジュールが張り出されるはずだ。……もしかしたら、心ちゃんに頼めば写真を送ってくれるかもしれない。私はメッセージを送っておいた。


 心ちゃんからの返信は、すぐに送られてきた。

「津田さんがもう作ってました(*^O^*)\(添付画像)」

 三十三歳。まあいいか……。

 とにかく舞台の軸になるジョバンニ・カムパネルラ役の私と相沢の都合に合わせてスケジュールを調整したらしい。役者からスケジュールの希望を調査したのが昨日、稽古場に集まったときであることを考えると、殆ど夜を徹しての作業だったに違いない。今朝の寝癖が立っている津田の頭を思い出した。

 私と相沢は当然だが、ほぼすべての稽古日に名前が入っていた。それに加えて、幕ごとに登場する役者の名前が入る。例えば、一幕と終幕で登場する「先生役」や「ザネリ役」は二、三、四幕に名前は入らない。日程が本番に近くなるにつれて、いくつかの幕を合わせた稽古になっていき、最後には全体を通して調整をする。

 稽古日は二日後から、連日入っている。この舞台のために一月前から蕎麦屋、クリーニング屋、両バイトのシフトは減らしておくよう頼んでおいた。収入がかなり減るのは痛いが、羽佐間の映画の出演料もあるからなんとかなるだろう。


 羽佐間が風呂場から出てきて、全裸だった。

「うわっ」

「ん。おはよう」タオルで髪を拭いている。

「全裸でうろつくな!下着くらい、履け!」

 羽佐間は一秒間、私をじっくり見た。

「えらい剣幕だわ……」タオルを体に巻く。「しょうがないでしょ、下着部屋にあるんだもの」

「風呂場出たところにキャビネットあったでしょう!」

「ほおん……そういえばあったね」

 自室に入って、出てくるといつものスタイルの羽佐間になっていた。取りあえず私はほっとした。

「それにしても過剰な反応の気がするけど。女同士なんだし」

「ハウスルールってものがあるんだよ」

「へえ……」

「リビングでは全裸で歩かない」

「うん」

「リビングでは自分の出したゴミを放置しない」

「ああ……。お酒の缶」

「ティッシュ、トイレットペーパーが切れたら自分で補充を行う」

「あ、トイレットペーパー切らしたままだ……」

「……」

「他には?」

「いろいろある、けど。あとで紙に纏めて書いておくから」

「早くしてね。また私の前科が増えちゃうよ」

「……」


 その日は入居時に薫さんが決めたルールを、一つ一つ思い出して紙に纏めたあと、羽佐間に家のルールを教え込んだ。羽佐間がカメラを構えながら「はあ」だの「ほおん」だのと気の抜けたような返事をして聞いていたが、伝え漏らした備品の場所などは的確に質問してきたので、どうやら彼女は真剣にルールを守る気であることが分かった。

 正午。腹が減っていたので近くの喫茶店に行くことにした。羽佐間は勝手に付いてきた。三、四歩後ろから私の姿を撮影しているらしい。

「君の劇団のこと、教えてくれる」と、声を掛けてきた。

「今じゃなきゃ駄目なの」

「この画で欲しいんだよ」

 私は少し考えた。話すことが頭の中で渋滞を起こして、歩みが少し遅くなったが、その日は晴れてはいないが、冷え込むほどの日差しの弱さもない気持ちの良い天気で、ケヤキの葉が擦れる音が聞こえる程度の風が吹いている。悪い気分では無かった。が、通行人が擦れ違う時は少し顔に血が上った。

「私は西山劇場っていう劇団に所属している。この辺りでは割と有名で、演出家の西山さんは変人だけど、業界では結構注目されているらしい」

 そこで言葉を切った。左のスニーカーの紐が解けていたので、近くの電信柱に寄って結び直した。カメラを見ながら立ち上がって、

「もう公演の情報は出回ってるだろうから言っちゃうけど、次の舞台は銀河鉄道の夜」

「君の役はもう決まってるの?」

「私はジョバンニ……」また、前を向いて歩きだす。羽佐間は私と肩を並べて歩きながら、私の横顔を撮っている。

「ジョバンニは主人公の少年だね。結構やるんだ」

「主役は初めて」

「……」

「結構不安はある、けど。西山さんが私の演技を買ってくれて、いる? らしい。だから、まあ私には私の出来る範囲で出来る限りの演技を、したいかな」

 喫茶店に到着した。<アトール>はこじんまりとした佇まいで、ガラス扉を手で押して店内に入った所を左に観葉植物がドカンと置かれ、テーブル席が三つ。カウンターの前には適当にスツールが五、並べられているが手前端の席にはガラクタだかそれともインテリアだかなんだかわからないものが置かれているので実質、カウンター席が四つある。ウェイトレスの女の子は一見可愛いがよく見たら可愛くなく、カウンター向こうの厨房では白髭・白眉の店主がぐちゃぐちゃのミートソーススパゲティを作ったり、コーヒーを淹れたりしている、そんな店だ。

 羽佐間はカメラを閉じて、肩に掛けていた小さなポーチに仕舞った。ウェイトレスが無言で水を持ってきて無言で去っていった。羽佐間はスマートフォンを取り出して、今度はそのカメラで私を取り出した。店主は何も言わなかった。

「不安、っていうのは、自分の演技とか?」

「それもあるけど。正直、人間関係の方が、かな」

「……」

 私はカウンターに寄り掛かっているウェイトレスにミートソーススパゲティを注文した。羽佐間も同様のものを頼んだ。

「役者同氏のトラブルって、結構多くて。特に、自分の演技に自信があったり、舞台にのめり込みすぎているとね。それで、今回のカムパネルラ役が……」

 そこまで言って、気付いた。

「ちょっと待って。これ、誰かに見せるんでしょう?」

「ん、どうかな。嫌なら撮った後でカットしてもいいけど」

 無いとは思うが、もしこの話をしている私の映像が劇団員の眼に触れたら、問題になるな、と思ったのだ。だが、と思い直した。どうせ、この後の稽古で色々な役者と散々衝突するんだろうな、と考えると今更だと開き直った。

「……今回のカムパネルラ役の相沢は、トラブルメーカーで。色々な役者と派手な衝突してる。私とも、二度」

「相沢さん、ね」

「ただ、相沢さんの演技は本物だと思う」

「ほおん……」

 不意に近寄ってきたウェイトレスがミートソーススパゲティを机に置いた。ゴツンと音が鳴る。無言で去って、カウンターに寄り掛かる。

「……怒ってるのかな、撮影してること」

「あの子はいつもああだよ」

 羽佐間が目を丸くして頷きながらスパゲティを口に入れた。私も食べ始めて、お互い無言になった。スパゲティはぐちゃぐちゃだが、美味かった。この店の魅力だ。


 食事を終えると、スマートフォンが揺れた。心ちゃんからのメッセージ。この後会おう、という誘いだった。

「用事が出来た」

「そ」羽佐間は食後のコーヒーを飲んでいる。

 羽佐間を置いて店を出た後、支払いを忘れたことに気が付いたが、私は引き返さなかった。

 

 駅前のいつもの喫茶店で心ちゃんと待ち合わせた。今日はコンタクト。化粧は普段のナチュラルメイクで、ウェーブの髪はサイドで纏め、耳に細長い棒状のピアス。白いタンクトップに水色のひざ丈スカートを着ている。ヒールを履いているから、背丈が私と並んでいる。今日の心ちゃんはバッチリ決まっていた。

「お待たせしました」

「うん。行こうか」

 私たちは電車を一度乗り継いで、都内の劇場に行く。心ちゃんは何も言わなかったが、私たちの間では珍しいことではない。こういうときは、大抵心ちゃんが私の分のチケットも用意していた。

 仄暗い劇場で、私たちは隣合って座る。他の観客がぽつぽつと入ってきたが、開演時間になっても空席があった。右隣は空席だったので、私は足を組んだ。客席の照明が消えて、場内のスピーカーから開演の挨拶が聞こえてくる……。

 初めて観客として劇場に来たときからこの暗がりが好きだった。舞台以外の、存在しない世界の一部になれた気がして、この世界では、男でも女でもある必要がなかった。だから、私は舞台の上のドラマに集中することができる。

 チェーホフの「かもめ」だった。

劇作家を志す男、その母親である女優、その恋人の劇作家に、劇作家に恋する女性がいて、その女性に劇作家を志す男は恋をしている……と人間関係は笑ってしまうようなこじれ具合なのだが、登場人物一人にも様々な属性がある。そこを演技で魅せるのが演出家、あるいは役者の腕の見せ所だ。

 演劇としては古典だったので、物語に目新しい部分を発見する面白さはなかったが、登場人物それぞれに滑稽なような悲惨なような調子の味付けがされていて、退屈しなかった。私の目を引いたのは、医者・ドールン役を演じる初老の男だった。彼は登場人物の一方的な会話を惚けたような調子で流したり、劇作家志望のトレープレフの才能を見いだしたときには俄に興奮した様子を見せたり、それに、老けてはいたがハンサムだった。


 医者役の男が誰かに似ている、と気づいてそれが羽佐間であることに思い至ったのは、ビジネスホテルでシャワーを浴びているときだった。似ているとは気づいたが、具体的にどこが、までは分からない。

 それから私たちはベッドの中で抱き合って、今日観た舞台のことに関して演技や舞台装置のことをいろいろ話し合ったり、心ちゃんが私の体を求めてくると、それを受け入れることは私が彼女の体を求めることと同義だったので触れ合ったり、唾液を交換したり、一方的に体中を吸引されたり、そんなようなことを布団の中で行ったあとで、聞かれた。

「そういえば」

「ん」

「新しい家は見つかったんですか」

 一瞬、話の趣旨を掴み損なったが、ルームメイトを失った私が新しい家を探していると思い込んでいたのだと理解した。

「実は、新しい人が入ったの」

 心ちゃんは心持ち上半身を傾けた。

「随分、早い」

「薫さんの大学の同期なんだってさ」

「同期……?」

「羽佐間っていうの。私の生活を撮って映画にするんだとさ」

「はざま」心ちゃんは、私が初めて羽佐間と会ったときのように、呟いた。「それ、名前、ですか。……男?」

「苗字だよ。羽に佐賀、間隔の間で、羽佐間。女」

「下の名前は」

「下の名前は、知らない。……そういえば、聞いたこと無かったな」言って、未だに同居人の名前も知らないことが奇妙に感じた。

「ふうん……どこの出身なんだろう……」

 心ちゃんはシーツを除けて私に跨がった。

「妬けるな」

 心ちゃんの顔に性欲の陰が差した。元来、彼女は性欲が強い。

 その晩、私は久しぶりに派手に喘いだ。他人と体を貪り合う、ファーストキスの夜以来のことだった。心ちゃんは何かに憑かれたように私の体を弄んだ。動きに疲労が見えたと思ったら、ホテルの自動販売機で買っておいた酒を煽って燃料材とした。私の反応に到達の接近が見えると酒を口で移して、感度を鈍くさせた。限界に達する直前の快楽を日が昇るまで繰り返して、朝五時に、心ちゃんと時を合わせて達した後、すぐに眠りに落ちた。心ちゃんも私の腰を股で挟んだまま眠った。

 

 それが白田心と過ごした最後の夜だ。忘れられない夜だった。


 *


 九時を回った頃に、二人でホテルを出た。心ちゃんの顔には酷い二日酔い、寝不足、疲労が見えて、いつもより色白でいつもより髪がうねっていた。きっと私にしても同じようなものだったのだろう。

 

 それからどうやって、何を思って帰ったかは分からないが、とにかく、十一時頃には家に到着していたから帰巣本能というのは馬鹿にできない。

 リビングの扉を開けたとき、羽佐間は暢気にコーヒーを啜っていて、また朝帰り、と言ったあとに、爛れてるなあ、とか青春しすぎ、とか言ったような気がするが、取り合わないで自室に入った。とにかく眠い。私は自分の部屋にベッドがあるという事実に惜しみない賞賛を送った。

 いやあ……人生って素晴らしいなあ……。

 二日酔いで頭が重いときに、死ぬほど眠いということは幸福だ。スタンディングオベーションすらしたい気分だが、寝た。


 尿意を感じて午後四時半ごろに起きた。リビングに羽佐間は居なかった。トイレに行って、シャワーを浴びに浴室へ行く。脱衣所でシャツを脱いで驚いた。私の体に夥しいキスマークが付いていた。いつもの心ちゃんなら、服で隠れる箇所を選んでキスするくらいの分別は付けていた。が、今回は違う。脇と乳首の間から始まり、鎖骨、喉、顎の下まで足跡のように付けられていた。その他にも脇、腰、多分背中にも付いているだろう。マーキングのつもりなのだろうか。

 私はシャワーを熱くして、跡に当てた。浴室を出て体を拭く。下着を履いて、そのままリビングへ。薬箱を取り出して、目立つ箇所に湿布を貼った。その間、ソファに座っていた羽佐間はテレビから目を離さなかった。テレビでは、かわいい子犬の映像が流れていて馬鹿みたいに甲高いナレーションが付いている。

「君、歌川と生活していた頃から、そんな感じなの」出し抜けに聞かれた。目線はテレビの画面にある。

「いや……」私は明瞭な答えは返さなかった。「そういえばさあ」

 羽佐間は目だけで私を見る。

「羽佐間、下の名前は?」

「ああ」目線を画面に戻す。「気になっちゃうか、それ」

「うん、まあ」

「秘密です」

 テレビの中で、子犬がころんと転んだ。あいてえ、と甲高い声をあげた。

「この番組見てんの?」

「いや、全く。流してるだけ」

 羽佐間は脇に置いていたリモコンを取ってテレビを消した。

「それで、なんで秘密」

「人間っていうのは、秘密があるほうが魅力があるのさ」

 私は少し考えた。何かを言う前に羽佐間は言葉を続けた。

「舞台で考えてみなよ。役者が袖から出てきて、私はこれこれな経歴で、こうこうな思想の持ち主で、これから云々をしようと考えている、なんて説明しだしたら興ざめでしょ」

「普段の生活と舞台は違うでしょ」と反駁した。しかし、羽佐間は「同じだよ」と言った。彼女の焦点は以前テレビの画面だった。画面には何も映っていなかった。

「哲学はおいといて、名前も教えないのは礼儀を欠くと思うけどね。私は」と、羽佐間を追求した。

「礼儀!」羽佐間は噴き出した。


 日が隠りはじめて、私の頭はまだ重かった。

 羽佐間がソファから立ち上がり台所の方へ行ったので、私はソファに横になって脚本を読み始めた。役作りを進めようとしたが、どうしても頭痛にそれを阻まれた。

 稽古は明日だ。

 私は頭を抑えつつ脚本を読み進める。ジョバンニ……私がクラスメイトに笑いものにされるシーン……私は、僕は、恥ずかしくなって、顔が赤くなって、それでもっと恥ずかしくなって……。僕は裏町の小さな家の扉を開けて……母さんが寝ていて……帰ってこない父さんのことについてあれこれ話合って……クラスメイトが僕をひやかすことを話して……。寝ている僕の母さんは、優しい。それが切なかった。


 そして、歌川薫と夢で出会う、二度目の夜。


 私が目を擦りながら上半身を起こすと、薫さんは向かいに椅子に座っていた。今日も脚本を読んでいた。「銀河鉄道の夜」。私はジョバンニ。薫さんはジョバンニの母役。

「……お父さんは、この次、お前にラッコの上着を持ってくると言ったね……」

「うん、でも、みんなそれを冷やかして、ぼくは笑いものにされる」このシーンの台詞はもう頭に入っていた。

 薫さんは悲しそうだった。「お前に悪口を……?」

「うん、でもカムパネルラはみんなが僕に悪口を言っているとき、悲しそうにしてるんだ。カムパネルラは、立派なんだ」

「そうねえ」

「カムパネルラの家には、アルコールランプで走る汽車がある。立派なんだあ。それに、毎朝新聞を届けに行くときにはね、家中すっかり静かだ。犬のザウエルだけ、鼻を鳴らして僕に挨拶してくれるんだ」

「そうねえ……」咳をする。瞳に涙がたまっている。眠そうに瞼を閉じると右目から一筋垂れて、「ごめんね」と言った。


 暗闇の中に、光る点が合った。星かもしれない。光は遠ざかって、今度は近寄ってきて、強く明滅しだした。瞼を開けると、カメラがあった。羽佐間が私を接写していた。

 私が上半身を起こすと、羽佐間は一歩引いて、画角を広げた。

 台所の方から、良い匂いがする。胃が疼いた。

「良い匂いがする」

 羽佐間は何も言わない。撮影モードに入っているらしい。

「今何時? ……六時か。昨晩から何も食べてない」

 羽佐間は顎でダイニングテーブルを示す。テーブルには、肉じゃがとほうれん草のお浸し、ご飯、焼き魚……鮭、ムニエルだ。

「羽佐間が作ったの?」

 羽佐間はやはり何も言わなかった。私は稽古場で一人演技をしたときのことを思い出した。簡単な料理かもしれないが、これらに掛ける手間を考えると気が遠くなる。特に肉じゃがだ。野菜が切られているし、肉が入っているし、白いうにょうにょ……糸こんにゃくか。私は料理が苦手なので、まともな食事を作れる人間を尊敬することにしている。

「すごい。食べてもいいの?」

「どうぞ」

 箸を手に取って、肉じゃがの芋をつまもうとしたところで食前の挨拶をしていないことに気がついた。羽佐間の方を見て「いただきます」を言った。

 鮭のムニエルはバターの塩辛さが薄いように感じられたが、肉じゃがの甘さを味わった後に食べると丁度よい加減だった。私はその気になれば鮭や豚肉を口に入れた後に、白米を噛んでその味を長引かせることができたし、ほうれん草のお浸しで舌の感覚をニュートラルに戻すこともできた。最後にまともな家庭料理を食べたのは何時だったか。覚えていない。


「それで、この食事は何?」

 私は口の周りをティッシュペーパーで拭いながら尋ねた。

「こういう普通の家の食事のシーン、取ってないなーと思って。だから作った」

 羽佐間はソファに座っカメラを弄っている。私に背を向けている。

「君、どうせまともな食事、家でしてないでしょ。台所のゴミ箱、カップ麺の容器ばっかりだったし」

「劇団の女優でまともに食べてる人なんていないと思うけどな」

 ……いや、相沢なんかは朝昼晩、料理しているかもしれない。と思ったが、何も言わなかった。

「でも、なんで急に?」

「私、明日から二週間いないからさ。最近撮った分だけでも編集しとこうと思ってね。で、食事シーン欲しかったから」

 私はダイニングテーブルの上の空になった食器を見つめた。羽佐間が家を空ける理由が気になったが、尋ねても名前を聞いたときのように、適当にはぐらかされる気がした。それに、今のところ私の生活はこの女が払うギャラを当てにしているところがある。機嫌を損ねてはい、さよなら。なんて笑えもしない。せめて、公演のギャラ、もうちょっと高くてもいいよね……一応、黒字劇団なんだし……。

 今度、客演のオーディションでも受けようか、と思った。


 *


 稽古日の朝、私は高揚してかなり早く起きた。舞台稽古の初日はいつもこうだ。自分の作った役が、他の人間の作ってきた役のなかでどう生きるのか、知りたくてたまらない。

朝の五時半。

 それに、昨日は一日の大半を寝て過ごした。二日酔いだったからだが、もうその影も残していない。シャワーを浴びる。走りやすいインナーを履く。そのまま自室へ、ランニングシャツを引き出しから出す。パンツも、出す。流石にランニングで着た衣服は着まわさない。

 玄関の扉を開けると、道路の縁石に羽佐間が腰を下ろしていた。細長い煙草を吸っている。意外だった。

「煙草吸ってたんだ」

「ああ……」火種を縁石でもみ消して、フィルターを携帯灰皿に捨てる。私は煙草の銘柄を知らないが、長いタバコだった。「家の中では吸ってないよ」

「なんで家空けるのさ」

 出し抜けに聞いてみた。何となく、彼女の機嫌が良い気がしたからだ。

「ちょっと野暮用を済ませたあとに、息抜きしようかなって。温泉さ。最近仕事詰まってたしね」

 曖昧な返答ではあったが、私の好奇心を全く蔑ろにした返事ではない。だが、きっとこれ以上は掘り下げられないだろうな、と思った。

「今日から稽古でしょ。これからランニングか。役者ってのは大変だね」

「まあね。でも好きでやってることだし」

「そっか」

 羽佐間は立ち上がった。尻に付いた砂を手ではたき落とす。

「きっと観に行くよ。私の分のチケット、用意しておいてね」

「うん」

「じゃ、頑張って」

「うん」

 羽佐間は傍のキャリーバッグの把手を伸ばして、駅へ向かった。


 午後一時。八十平方メートル程の稽古場には役者が殆ど全員揃っていた。舞監が予め稽古スケジュールを決めているとは言っても、大抵は全員揃っているほうが多い。他の役者の役作りを見学することは、自分の役作りの大きなヒントになるし、他のシーンで舞台の雰囲気を掴めない怖さもある。

 演出陣のスタッフも結構な数が見学に来ている。体の大きな裏方専門の男の後ろに心ちゃんもいる。鏡越しに目が合うと軽く微笑んだ。彼女の方は、披露がまだ目から抜けていない気がする。年ってやつなのかな。とはいえ、外見だけなら彼女は私よりも若く見えるくらいだが。私もそのうち、こう元気ではいられなくなるのだろうか。

 

 稽古場の鏡に向かって、各々が体を伸ばしたり、顔の筋肉を解したり、発声練習などしている中、まず津田が入ってきて「皆さん、おはようございます。今日から公演まで、頑張っていきましょう」と軽い挨拶をかました。パイプ椅子に腰を下ろして脚本を読み始めた。次に、四分ほど遅れて西山が現れて「おう!やっとるな!」と叫んだ。まだやっていないが。パイプ椅子に勢いよく腰を下ろすと、鉄がこすれる音が響いた。津田に「遅いぞ」と肘で脇腹を突かれている。そして彼らは口頭で雑談を交えた打ち合わせを始めた。


鏡の前で股の間を伸ばしていると、隣に歩いてきた相沢がアキレス腱を伸ばし始めた。


 相沢華。年齢は二十四。私と同時期に入団し、そのときには既に実力があった。彼女の母はさる有名な声優で、子供の頃から舞台に立っていたらしい。実際に、何度も<西山劇場>の舞台で主役を演っている。それに、客演として他劇団の演出家に名指しでオファーを受けることも多い。

 薫さんが居なくなってからというもの、この劇団の花は彼女だった。

 複雑な気分ではあるが、悔しくはない。元より私は花という柄でもない。それに、彼女の演技には教えられる部分もある。キャリアの長さは、きっと私と相沢の実力差を言い訳する断片にはなるだろうが、相沢の役作りは彼女の性格に起因するようにも思われた。

 彼女は完璧主義者だ。そして、それは自分の演技、舞台という場にも留まらない。彼女は不出来な役者が同じ舞台にいると激昂するし、舞台を離れた所でも他の役者とは一線を引いている態度を取っているように感じられた。だからか、彼女の周りにはトラブルも多い。

 

 相沢は、いつもは後ろで纏めている黒髪をバッサリ切ってきていて、ベリーショートだった。役作りの一部だろう。カムパネルラは少年なので、それに合わせたということだ。私の髪は元々ナチュラルボブ(と、私の髪を切った女が言っていた)だったから、あまり弄る必要はないと考えて切ってはこなかった。それに、私までベリーショートにすれば相沢と被ってしまうからこれでいいのだ。

「良かった、あなたまで髪切っていたらどうしようかと思っていたんです」と相沢はほっとしたように私に話しかけた。

「結構バッサリいったもんだね」

「少年ですからね」

「まだ時期尚早だと思うけど」

「でも、役に入り易いんですよ」

 相沢は当然のように言う。彼女は自分の髪型にあまり拘りがないのかもしれない。それとも、自分であればどんな髪型でも似合う自信があるのか。

「ところで何ですか。その湿布」

 私は今になって、大した言い訳を考えていなかった自分の迂闊さに気づいた。


 西山と津田の周りを囲んでいた演出陣が散り散りになって、一面鏡のある辺とは逆の辺に集いだしたところで西山が両手を叩いた。

 一幕一場。稽古場には正方形の箱が幾つか置いてある。ただ置いたわけではない。この場面での私たちの位置そこになる。生徒の席だ。黒板は薄い仕切り板で、鏡に平行になるように置いてある。私たちの席はその黒板を中心として同心円状に二列並ぶ。私の席は客席からみて右端手前で、相沢は中央左寄り奥。その間を埋めるようにいじめっ子のザネリ役やその取り巻きのクラスメイト役が並ぶ。

 私の脚本には、私の文字で自尊心が低い、暗い、友達少なそうと、と書き込まれている。

ただし誠実、とも。

 私はジョバンニは内向的な実直少年という風にイメージを固めていた。


この場では、先生役・大石真の立ち位置は指示されていない。この老練な舞台役者はどこで控えるのだろう、と思って彼を見ていたら、黒板からは遠い、私のすぐ隣に来た。

津田が「初めてくれ」と言って、一幕・一場の稽古が始まった。

 まず、先生役の大石が生徒――私たちに向かって喋り出す。「だから、この銀河系、天の川と呼ばれるものは我々の目に見えているように、実際に宇宙の奥の方でミルクのような液体が流れているのではありません」喋りながら、大石は私たち生徒の間を舞台の右袖から黒板の前へ歩いて行く。私たちは先生を目で追う。やがて先生は黒板の前へ辿り着いてそれを拳骨でコツ、コツと叩いた。

「さて、それではこの銀河の河は一体何なのでしょう」

 まず、姿勢良く座っていたカムパネルラが手を真っ直ぐ挙げる。それに続いて、二、三人の生徒役が手を挙げる。その中にはザネリ役の水野もいる。

 先生は僕を見て、少し意外そうな顔をして聞いた。「ジョバンニさん、あなたには分かっているのではないですか」

 先生は僕が、よく宇宙のことを書いている雑誌を読んでいることを知っていた。僕にしても、銀河の光、一つ一つが星々であることくらいは分かっていたのだけれど、その時は眠くてぼんやりしていて、立ち上がったのはいいけど、何を喋ればいいのかよく分からなかった。前の席のザネリが僕をちらと見て、隣の人と笑い合った。僕の頭には血が昇って汗が出てきて、余計何を言えばいいのか分からなくなって、終いには涙が滲んできてどうしようもなかった。

 ……私はそのとき、初めて学校の制服を着た日のことを思い出していた……

 先生はちょっとの間僕を見ていたけど、やがて不思議そうな顔をして、今度はカムパネルラに同じことを聞いた。すると、カムパネルラは、「ごめんなさい、よく考えたけど分かりません!」と明るく恍けて言った。それで教室中は沸騰したように笑いが籠もった。

 この笑いは脚本には無い筋だ。私はこの偶然に驚いた。私がジョバンニに暗い少年のイメージを焼き付ける一方で、相沢はカムパネルラに明るい少年のイメージを充ていたのだ。原作のミステリアスなカムパネルラのイメージからはやや外しているように思えるが、私の役のキャラクターと演技を併せたときに、その対比は私たちの役の他の属性を際立たせるように思われた。

 舞台監督の津田は私たちの役作りが今後の展開に与える影響に目を見開いているようだった。こういうとき、彼は良い仕事をする。意外に思われたのは演出家の西山が難しい顔をして相沢を見ていたことだ。パイプ椅子に座りながら前屈みになって口元を堅く結んでいる。

 大石が台詞を喋りだしたところで私は役に戻った。

「良いですか、皆さん。銀河の粒、一つ一つを望遠鏡で見ると、それは星なのです」生徒たちがざわめく。「ええ、そうですよ。皆さんが、夜ごとに空を見上げると光っているあれです。あの白い液体のように見える光は、星々の集まりなのです。白くぼやけて見えるのは、丁度河の水の底の石がぼやけてみえるのと同じようなことなのですよ」

 そこで学校のチャイムが鳴る。教室内に緩和した感じが拡がる。

「皆さん、今日は銀河祭りですね。外へ出て、よく空をご覧になるとよいでしょう。ではここまで」

 僕が机の上のノートやペンを鞄にしまっていると、後ろから肩を突かれてせっかく仕舞った文房具が床に散らばった。

「ラッコの上着!アハハ……」と耳元で叫ばれた。僕は思わず耳を押さえた。その間にザネルと彼の友人たちは走って行ってしまった。ラッコの上着は、僕のお父さんが今度帰ってきた時にお土産にしてくれる約束だった。しかし、お父さんはもう随分帰ってこない。

 僕が散らばったノートやなんかを拾い集めているとジョバンニが手伝ってくれた。

「どうしてザネリのやつは僕にいじわるするんだろう?」

「分からない」

 教室にはもう僕とカムパネルラしかいなかった。

「ジョバンニ、今日のお祭りには来るだろう」

「分からない。仕事もしなきゃいけないし、母さんの調子も」

 鞄に荷物を入れなおし終わると、カムパネルラは僕に向き直った。

「待ってるよ」と笑って言って、教室から出て行った。

 そして僕も教室を出て行く。歩幅は狭く、歩みは遅く……。

 暗転。


 一場が終わった。津田は「良いじゃないか」と笑った。

 相沢は汗をタオルで汗ばんだ額を拭っている。西山の様子を見ている。何か不穏な雰囲気を感じたのか、タオルで口元を隠した。彼女の癖だ。

「西山。何なんだ、一体」相沢の不安が伝染したのか、津田が西山に尋ねた。

「うんム……」

 西山は明瞭な返事をしなかった。ただ、「もう一度だ」と言った。


 それから、一幕一場、全く同じ場面を演じること数度。稽古場にははじめの頃には無かった妙な居心地の悪さが充満した。何も言わない西山の指示に黙って私たちが従うのは、無論、座付き作家でもあり演出家でもある彼の、所謂センスに信頼を置いていたからだ。だが、次第に相沢の演技にノイズが混じり始めた。

「ジョバンニ、今日のお祭りには来るだろう」

「分からない。仕事もしなきゃいけないし、母さんの調子も」

 鞄に荷物を入れなおし終わると、カムパネルラは僕に向き直った。

「待ってるよ」

 笑っていない。苛ついているのだ。

 何度も同じ台詞を喋らされ、同じリアクションを取らされた役者たちは、居心地悪そうに汗まみれになっている。私もそうだ。老練な大石でさえ、酸欠の気が出たのか捌けた後は床に座りこんで天井を仰いでいる。


 その間、西山は隣に座っている津田と幾人かのスタッフとボソボソ会談をしていた。

 やっとカムパネルラと臥した母と話す二場に入るかと思うと、それを飛ばしてジョバンニとカムパネルラが語らう四場を通すように指示された。


 祭りで華やかな町並みで、ザネリ達の集まりから抜けてきたカムパネルラと出会うジョバンニは星について語り合う。ここは、二人の背景事情を補足する場で、原作には存在しない会話シーンだ。父親同士が親友であり、ジョバンニは幼い頃からカムパネルラの家によく遊びに行っていたことや、彼の家にザウエルという犬がいること、原作であれば、臥せた母親との会話で語られる事情の説明がこちらに回ってきている。二場は舞台が静かなのでこちらに詰めたのだろう。

 それで、時計屋の前を通りかかるかというところで、西山からストップが入った。

 

 相沢はとうとう西山と津田が座っている所に大股で歩いて行った。

「いい加減にしてください。私の演技に至らない点があれば、言ってください」と一息で言う。

「ううん。やっぱりなあ」西山はあくまで暢気な態度らしい。

 津田はオロオロしている。初めの通しの後に見た瞳の煌めきは消え失せている。

「カムパネルラは女の子でいこう」

「は?」

「今日からお前はカムパネルラちゃんだ!」と立ち上がって例のポーズをする。 

 相沢が丸めた脚本で西山の脳天を引っ叩いた。西山は「あいてえ」と叫んだ。昨晩観たテレビの、子犬が転ぶ映像が思い浮かんだ。

「そらみろお!」津田がやにわに立ち上がって絶叫した。

 稽古場が騒然とした。「馬鹿!」と叫びながら相沢が仮の舞台から四角い箱を頭上に持ち上げて攻撃しようとしたらしい。それを止めに掛かったのは意外にも心ちゃんだった。が、吹っ飛ばされた。私はへたり込んだ心ちゃんに駆け寄った。「と、止めてください……」と言われた。だから、私はまず相沢が持っている四角い箱を後ろから取り上げて、そのまま後ろにぶん投げたあと、重心を後ろに滑らせて体勢を崩した相沢を羽交い締めにした。相沢はそれでもうなり声を上げながら腕を上下にバタつかせた。西山と津田は「ひええ」と言った。私は相沢に「落ち着きなよ!」と言った。そこでようやく相沢は沈静化した。

「原作と違う!」

 羽交い締めにされていても相沢は腹から声が出るらしい。

「何だって?」と私は息を切らしながら聞き直した。

「原作と違うじゃん!そんなの!」

 距離を取っていた西山がゆったりと歩み寄ってきた。

「演出家を引っ叩くとは何事だ。まったく」

「でも、昨今のブームに乗っかってるつもりなのか知りませんが、何でもかんでも性転換するのはよくないと思いますよ」と、私も相沢に加勢した。

「いや、全く根拠が無い改変ではないんだよ」汗をかいた津田が間に入ってきた。「カムパネルラのモデルは、原作者である宮沢賢治の妹だって説があるんだ。それにそう考えると、カムパネルラとの関係性に腑に落ちるところも」

「私は、髪を、切っているんですよ」

「そんなもんカツラを被れば良かろう」と西山はにべもない。

「バッカみたい!」

「それより脚本を直さないと。今日は解散!」

 それから西山は騒然とする稽古場から逃げるように出て行ってしまった。「それじゃあ、今日は、そういうことです。皆さん、お疲れ様でした」と津田が言って退出。演出スタッフもぞろぞろとそれに倣った、役者陣も相沢を横目に捉えつつ去り始めた。私は相沢を解放したが、相沢は呆然として突っ立ったままだった。それで、なんとなく私も変えるに帰れない雰囲気になった。大石が私たちに近づいてきて「カツラもね、悪くないと思うよ。僕は」と余計なことを言って出て行った。

 相沢はため息をついて私の方に振り返った。

「白田さん、さっきはごめんなさい」

 心ちゃんは立ち上がって「あ、はい」と言った。

 そうして相沢も俯きながら早足で出て行った。


「今日は大変でしたね」

 心ちゃんは前方から目を離さないで喋り出した。横顔のバックには町の明かりが走って線になっている。スピーカーからはラジオが鳴っている。もう午後七時だった。

「相沢にも困ったもんだね」私は前方に目を戻して答えた。「でも、今回ばかりは相沢に同情するな。副主役からいきなりイロモノに変えられたようなものだし」

「イロモノですか」

 隣から、心ちゃんが苦く笑うときの鼻笑いが聞こえる。

「相沢さんには悪いんですけど、私、カムパネルラちゃんの演技、観てみたいなあ。ふ、ふふ」

 私は久しぶりに心ちゃんの性の曲がった部分を見た気がした。

「そんなこと言っちゃあ、相沢に怒られるよ」

 停車した。左手に私の家があった。私はシートベルトを外した。

「でも、私、西山さんの気持ち分かるんですよね」心ちゃんはシートに深く体を預けた。両手を太ももの上で合わせている。「世の中で自分にしか作れないものを作りたい……たまには失敗しちゃうけれど……創作者の夢ですよね。きっと、役者のあなたにも共感するところがあるんじゃないですか」

「……」遠回しに心ちゃんに諭されているような気がする。

 そこで、心ちゃんは家に燈が付いていないことに気がついたらしい。

「あれ……同居人さんは?」

「羽佐間? 彼女、今朝から家空けてるんだ」

「え、一日中?」

「いや、一週間。野暮用なんだとさ」

「まあ……」心ちゃんは絶句した。「それじゃあ、寂しいですね。こんな広い家に……」

「いや、そんなことはないんだけど」そこで言葉が詰まった。私はそのときになって初めて、一人きりの夜を想像した。普段、耳を澄ませば聞こえてくる、他人が発する生活音がないというのは案外、想像よりもずっと寂しいものなのかもしれない。だが、

「ねえ、私の家、来ませんか?」彼女の表情に艶が見えた。

「ありがとうね、でもいいよ」

「そうですか」と当てを外したような顔をした。

 家にはルールがある。自分の恋人を家に連れこまない。薫さんが決めたルールだ。

 

 その晩は、一睡もできなかった。ベッドに寝てしばらく目をつぶっても、妙に喉の渇く感じがした。台所に行って水を飲んだけど、それでも、その感は残った。それで私は水をガブガブ飲み始めた。それでも喉は渇いたままだった。私はリビングのソファに座り込んだ。両手で顔を擦った。テレビを付けてちょっと観てみたが、なんだか胸の軋むような感じがして、すぐに消した。テレビを消しても違和感が残った。なんでだろう?

 なんでだ?

 どうして、私は家のルールを守ったのだろう。心ちゃんの、裏切られたような顔。

 横隔膜が跳ねて、私はトイレに駆け込んだ。吐いた。そうか……。

 薫さんはまだ生きているんだ。

 また横隔膜が暴れて喉の奥から水が飛び出た。それから何度か嘔吐いたあと、トイレを流して洗面器で顔を洗った。鏡に映った女は泣いていた。私は左肘を洗面器の縁で支えて、左手で目を押さえた。涙は止まらなかった。薫さんとの思い出がフラッシュバックしていた。始めて会った日のこと、彼女の舞台を観た時、彼女に演技を教えて貰った四季、悩みを打ち明けた夜のこと、そしてともに生活することを決めた瞬間。私の思い出の中で薫さんは息づいていた。

 薫さんは、交通事故で死んだ。その現実に対しての麻痺が、今夜になって解けたことを知った。その効用を長く引かせたのは、心ちゃんとの夜だったかもしれないし、突如現れた羽佐間という同居人の存在だったのかもしれない。しかし、この夜にはそのどちらも無かった。私は寂しかったのかもしれない。全く気づかなかった。私にこんなに女々しい部分があったこともまた、気づかなかった。

 私はリビングに戻った。ダイニングテーブルの上に置いてあった脚本が目についた。

 銀河鉄道の夜。

 気を紛らわすために開いた脚本。私は役作りを始めた。そうだ、明日は<アトール>が開いたら気の済むまで入り浸ってやろう。食欲はないからマンデリンを飲もう。そう思ったら少しだけ元気が出る気がして、役作りに集中することが出来た。

 僕はジョバンニだ。

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