第201話 僕と、彼女と、カノジョ at 1995/9/2

「ほら、早く来いって」


「で、でもさ……や、やっぱやめとこうよ! なんだかすっごい気まずいし……さっきも……」



 足取りの重いロコはもごもごと呟くと、無意識に自分の唇に人差し指で触れる。とたん、僕の方まで頬が熱くなり、ロコから反らした視線はうろうろとあたりをさまよい始めた。



「ばっ――あ、あれは! 勘違いしたロコの起こした単なる事故! 不幸な事故なんだって!」


「……大事なを、不幸とか事故とか言われるの、かなりムカつくんですけど」



――。


 誰からも好かれる学校一の美少女だったら、もうとっくに済ませていたのかと思い込んでいた僕は、潤んでいるようにも見えるロコのジト目に狼狽ろうばいしまくりながらも言い返した、



「だだだ大事なんだったら、軽々しくすんなって、もうっ!」


「ししし仕方ないじゃない!? 怪我させちゃったんだ! って必死だったんだからっ!」


「だからって! めたら治る、とか、思考パターンが犬猫レベルだろうがぁあああ!」



 次第にエキサイトする二人の会話に驚いたのか、ベランダ側の窓をがらりと開ける音が聴こえ、僕たちは知らぬそぶりでその場から逃げるように、木曽根商店街の広場へと足を進めた。



 団地住まいの僕らにとって不便なところはこういうところだ。


 部屋の防音対策はそこまでしっかりできておらず、ドミノのように隣接する棟から棟は、真夏に窓もカーテンも開け放てば向い側からはほとんど丸見えだ。実際、僕の家のキッチンの窓からは、ちょうど向かいに見える部屋で暮らす女の子の着替えが拝めたことだってある。夫婦喧嘩や果ては夜のいとなみに至るまで、よほど注意深く暮らさなければそこいらじゅうに知れ渡る。


 これは逆もまた同じで、団地と団地の間でひそかに話す内緒話なんて、内緒でも何でもない。そこまで耳を澄まさなくても充分聞き取れてしまうことだってある。夏になると決まって、好奇心旺盛で遊びたい盛りの年頃の子どもたちが遅くまで公園に集まって無駄話をしたり、花火をしたりして一晩中やかましくなるものだ。それも確かにうるさいのだけれど、それを家の窓から胴間声で注意する頑固おやじの方が、第三者にとってはよほど迷惑だったりする。



 ともかくだ。


 あまり派手に二人で揉めていると、いつなんどき誰が嗅ぎつけるかわからない。先を急ごう。



「……」



 けれど、僕の隣に立つでなく、数歩後ろから遠慮がちにちょこちょこ付いてくるロコの姿はあまりに新鮮で、かつ、僕の居心地をひどく悪くさせるものだった。さっきのアクシデントのせいもあるが……そもそもは『団地祭』の次の日からの『らしくなさ』が関係してるのだろう。



「……なあ、ロコ?」


「ん」



 背中越しに返ってきた答えは短い。



「なにがあったのか知らないけれどさ、お前らしくないぞ? 体操部も休んでるだなんて」


「……そうだね」


「僕たちの方はいいよ。嫌だったら無理に来なくたっていいんだからな」


「……嫌じゃないってば」


「そっか」



 そんなやりとりをしているうちに、ようやく木曽根商店街の近くまで辿り着いた。中央にある円形花壇の真ん中に、白いレースの日傘が一輪の花のようにぽつりと咲いている。純美子だ。



「僕が言いたいのはそれだけだ。あそこでスミちゃんが待ってる。どうしても話をしたいって」


「わかったわよ……」



 ふてくされたような、叱られて少ししょんぼりしたような声が聴こえ、僕は振り返った。



「僕がいると話しづらいこともあるんだろ? 僕は、今日は帰ることにするから。ほら――」


「う、うん。でも――」


「いいって。けど、スミちゃんには代わりに謝っておいてくれ。頼むよ」



 ロコは僕の顔をじっと見つめ、そして困ったような笑顔を浮かべてうなずいた。



「わかった。……よかったね、ケンタ。スミとうまくいって。じゃあ、またね――」



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