第44話 鮮血に染まる乙女ゴコロ事件(2) at 1995/4/26

 たかが僕だ。




 学校スクール階層カースト最下位の、モブキャラに過ぎない僕だ。




 そんな僕が、この混沌とした状況下でとがった嫌な目つきをして静かに立ち上がったところで、誰も気に留める者なんていない。狂宴に加わり楽しむでもなく、さりとてとがめることもなく、ただこの場所から尻尾を巻いて逃げ出すのだとでも思っているのだろう。




 だからこそ、その瞬間まで、誰ひとり気づかなかったのだ。

 この僕が、教室の中央に立つまで。




「おい、そっち行ったぞ! 古ノ森・・・!」



 一瞬早く気配を察知した小山田の声とともに、僕の顔の真ん中目がけてそれが飛んできた。



 ぱしいっ!!



 僕はロクに見もせずにそれを右手でキャッチする。そう、僕ならばこそ、二周目の僕だからこそ、どこに飛んでくるのかは寸分の狂いもなく予測できていたのだ。ぎゅっと握り締める。そして、誰にいうでもなく小さく呟いた。



「……ごめんな」



 僕は背を向け顔を伏せながら、教室の後ろの、掃除用具の入ったロッカーの脇にあるゴミ箱へとゆっくり歩いていく。



「ほら! 投げ返してみろよ!? 俺はここだぜ、古ノ森!」



 挑発するように手招きしながら小山田が叫んだ。


 しかし、僕はそうはしない。


 目的の場所まで辿り着いた僕は、手の中のそれをゴミ箱の中の紙屑に埋めるようにそっと置くと、そのままゴミ箱ごと持ち上げて抱えこんだ。すると、背後から駆け寄る音が聴こえた。



「……おい!? 何してんだ、古ノ森、てめえ……!?」



 ぎり、と押し殺した怒りで倍増した小山田の握力が僕の右肩にきつく喰い込んだ。



「見たらわかるだろ。僕、掃除当番なんでね。ちょっと捨ててこようかと思ってさ」


「ふざけてんのか、おい!? せっかく楽しんでんだろうがぁあああ!?」


「大真面目だよ。離してくれ」



 どんっ!



 反応すらできない速さで小山田から繰り出された右足が、ビニル樹脂製のゴミ箱の側面をしっかりと捉え、僕の腕の中からすっとんでいく。教室の後ろのドアにぶち当たり、ゴミ箱の中身はき散らされて、木製ドアのめ込みの小さなすりガラスが割れて飛び散った。そして小山田は、がら空きになった僕の胸元にもぐり込むと、胸倉を嫌というほどつかみ、しぼり上げた。



「何余計なことしてんだよ、てめえ……! この俺に逆らおうってのか? あぁあ!?」


「………………はぁ」



 目を血走らせた小山田を見つめたまま、僕はうんざりしたように長く息を吐いた。


 なぜかというと、あれほどまでに恐れ、関わり合いになることを避けてきた小山田の力量は、四〇歳の僕と比べても、あまりに非力で稚拙ちせつなものだと理解してしまったからだった。



 過去の嫌な記憶と決別するために、僕は社会人になってからSNS動画をお手本に身体を鍛えていた。誰かを傷つけるためではなく、自分の手の届く範囲の人くらいは守れる力が欲しかったからだ。勝てなくてもいい。みっともなくてもいい。無事逃げられるだけでいい。その思いで護身術のセミナーにも数回通った。同僚の通う合気道教室で組手にも参加させてもらった。


 その経験のもとに感じたのだ――今なら僕は、小山田を屈服させることもできる、と。




 だから僕は――。




「いいか、小山――いや、ダッチ? これだけは言っておく――」



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