捨てた男 ①

「本当にいんのか。そんなやつが」


 見るからに重たげな雲が立ちこめる空に向かって、一人の若者が、大きなため息をつきました。

 会社の勤務時間が終わってすぐに、自宅へ戻るバスとは逆の方向へ走るバスに乗って辿り着いたのは、鬱蒼としすぎて怖い都市伝説まで流れている事で有名な、原生林の入口――雨風に煽られて折れた木の看板には‘靑ゐ樹海’と墨字で書かれていました。

 入口付近にあるバス停の看板は、手入れする人が誰もいないのかボロボロに朽ち果てていて、そこには数匹の蜘蛛が巣を作り、また数匹の蛾が羽根を休めており、その周りには名前すら付いていないような、とても小さい羽虫が群がっていました。もはやバス停というよりは、こういった虫たちの生息場所にしか見えない有様です。

 元来、虫という類を毛嫌いするこの若者は、バスを降りる直前にその生息場所を窓越しに確認すると、早々と小銭を料金箱に投げ捨て、息を止めながら小走りに原生林の入口までやってきたのでした。


「今どきICカード使えないバスってあるんだな。どんだけ田舎だよ……」


 止めていた息を解放して、さっそく若者はぶつくさ言い始めました。


「これ虫除けスプレー持ってきた方がよかったかな。いいか別に。一応長袖だし、マスクしてるし」


 若者はワイシャツのボタンを念入りに止めて、不織布のマスクを付け直しました。

‘靑ゐ樹海’とある折れた看板を一目見ると、まるでこれから厳しいハイキングに挑むような意気込みでリュックサックを背負い、看板の奥へと踏み出しました。




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