第273話『諸相』
――もう帰ろう……
雨上がりの雲の下を、絶望の表情で青年が佇んでいた。
人込みで刑場の中央は見えずとも、もう全ての事が済んだのだと嫌でも分かる。
セイラの死を見届けるのが何もしてこなかったゼントへの罰なら、彼はもう痛いほど味わっている。
だから、少しばかり休ませてあげよう。これはずっと精神をすり減らしてきた者への救いになる。
僅かにでも前向きな見方をするのなら、これで悩みの種が一つ減ったのだ。
あとは町を離れて、障害のないどこかでつつましく生活していくことはできる。
――しかし、もし仮に奴の復讐がまだ続くのだとしたら?
町を移動した程度では付いてくるだろう。今後も本人だけに手を出さず、周りにいる人間だけが狙われるのだとしたら?
だめだ、新たな悩みが生まれかけている。やはり彼女を敵に回すのは悪手だったのだ。
こんなことになると分かっていたのなら、あの時の選択肢を喜んで考え直したものを。
少なくとも今だけは安息を得ても罰は当たらない。だから、例え犠牲の上に続く安らぎの時間をほんの僅かでも……
そうしてゼントは帰る前に一つ、刑場の柵に群がった人込みを避けて、円の中心を見ようとする。
最後にセイラの姿を見なければと無意識に思った。それがこの世を去った者へのせめてもの責任と慰めかもしれない。
泣いたせいで呼吸が整わないため、口元を抑えて咽びつつも何とか人混みの薄いところを狙って、恐る恐る惨状の中心を目に入れた。
…………ゼントはその光景を、自身が見たにもかかわらず頭で理解しようとしない。
同時に、まるで自己暗示に掛ったかのように周りの雑多な音声も聞こえなくなった。
地面の色と一緒に鮮やかな赤が見えたものの、心の中は刹那、清らかな程に真っ白く。しかし直ちに黒々強い負の感情が結われる。
セイラとの付き合いは、ユーラやサラのように親しいものでは決してなかった。
普段から心配してくれるのかと思っているとからかってきたり、事件についても決定的なことは話してくれず剽軽な態度を取り続けた。
でも、ゼントの心の支えの一柱を担っていたことは事実だ。
浅慮に浸って人の命を軽々しく奪う自警団が到底赦せなかった。
仕方なかった? 例え言い分は聞けても、全員に罪として償わせるべきだと感じる。
可能なら自らの手で一人残らず葬り去ってしまいたい。
同時に元凶である彼女に対しても同様の怒りを覚えた。そもそも彼女がいなければ……
更に言えば彼女の手を振り払った自分にも。恨む相手は無尽蔵に思えた。
だが、もう気力も体力も底を付いている。怒りという不快な感情すらも薄れてしまうほどに疲弊していた。
どうか頭を空っぽに。でなければ発狂するか、刃物で自分の喉を掻き切ってしまいそうだ。
しかし思考の隙間を縫うように、ふとこんなことを思ってしまう。
世の中の全ては力だ。金を湯水のように扱える財力も、筆一走りで人々を強制できる権力さえ、強大な力を前にすれば皆等しく無力。
力さえあればこのくそったれな世界を壊してしまうことだって、同時に守ることだってできたのに。
セイラはその点、ひどく世界に適していなかったといえるだろう。自分を含め、非力な人間はあらゆる選択権すら発生しえない。
理屈の通ってない事柄をいたずらに並べて、愚痴のように零すだけ零して、結局何もできない自分に絶望して、そして足は帰路に向かい始める。
これから本当にどうすればいいのか。途方くれるばかりで一向に解決の糸口が見えない。
「――ああもう、地面に這い蹲るとか汚いしめんどくさい、死んだふりをするのはもういっか」
人生そのものに希望を見出せなり、瞳も思考も、全てが死に切った時だった。セイラのような声が聞こえてきたのは。
初めゼントは反応もしなかった。どうせ思考の一端に流れ込んできた不純物であろうと。
あるいは最近よく聞く幻聴か。夜寝る前が多かったのだが、ついに真っ昼間にも現れたか、と。
しかし声は幻聴でも空想でもなく、確かに辺りに響き渡っていた。
それは紛れもなく刑場の中央付近、ちょうどセイラの頭が転がっている所から。
……誰もおかしいと思わなかったのだろうか。不可解に欠損しり跡形もなく蒸発した被害者達。その所業が一人の、しかも冒険者でもない女性がやり遂げることに。
不可思議なことはまだある。変に情報を曖昧にしてきた彼女は、だが突然自白供述を行ったこと。
つまるところ、ゼントを含め誰しもが踊らされていたのだ。状況はずっと“彼女”の手のひらの上。
自警団のほぼ全てと、彼女の声を知っている者はすぐに声の元へと振り返った。
その全員が一瞬だけ地面に落ちた頭部を視界に入れ、そして気のせいかと思った。
「ねえゼント、さっきの涙は誰のための涙? もちろん私だけのためよねぇ?」
もう一度聞こえた声が幻ではないと、思考が早いものは即座に理解できた。
しかし異変に気づいたからと言って何が起こっているのか、自分がどうすればいいのかわかる者はおらず。
そして声を掛けられた当の本人に至っては未だ気づいていない。頭の中に直接語り掛けられたような感覚さえしている。
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