プロローグ

 ぶくぶく、ぶくぶく……


 鼻から口から抜けた空気が泡となって、水の中を揺蕩い、そして消えていく。

 見上げた水面は、太陽の光のせいかキラキラと輝いていて、ハッとするほどキレイだった。まるで宝石みたいに。

 肺から酸素が逃げていくのと引き換えに、水がたくさんたくさん入ってくる。

 息ができない。苦しい。

 目の前が霞んでいくみたい……意識が遠のいてく感覚。


 あぁ、わたし、死ぬのかな。死ぬんだな。


 あの頃のわたしはまだ小さくて、死ぬっていうことがどういうことかとか、わかんなかったけど。

 でも、死ぬってことを強く感じた。

 怖い……とは、思わなかった。いまでも、とっても不思議に思うくらい。

 ただ、お父さんとお母さんに会いたいなって思った。

 もう、会えないのかな……それはイヤだな……って。それは、寂しいな。

 水なのか涙なのかわからないけれど、なにか温かいものがほおに触れた気がした。

 急にまぶたが重くなってきて、抗いきれずに目を閉じていく。

 閉じながら、重たい腕を必死で持ち上げて、キラキラ輝く水面に向かって、めいっぱい伸ばした。

 ふいに、温かくて柔らかいなにかが、その手に触れる。

 ギュッと握りしめる確かな感覚に、それが誰かの手だと気付いた。


『まだ、諦めるな──っ!』


 今にも泣きそうなくらいに震えた声。


『死ぬんじゃ、ない……っ』


 声と同時に、引っ張りあげられた。

 ぐんぐん、あの宝石みたいな水面が近付いてくる。

 ううん、わたしが近づいて行ってるんだ。


 バシャァ…………ッ


 音を立てて、わたしは水の外に出た。

 飲み込んだ水が出て行くのと引き換えに、今度は空気がいっぱい、入ってくる。

 ゲホゲホと何度もむせかえりながら、わたしを引っ張りあげた人を見る。

 逆光になったその人の顔は、よく見えなかったけれど。

 わたしより年上の、当時のわたしにしてみれば立派な大人の、その人の背中には。

 真っ白くて大きな翼が生えていた。


「てんし、さん……?」


 わたしの呟いた声を聞いて、その人はなぜか息をつめた。


「てんしさんだぁ……」


 たしかあのとき、天使に会えたのが嬉しくて、笑ったんだ。

 その人はわたしの頭にそっと手を置いた。

 ゆっくりと動かしながら、言ったんだ。


「……天使じゃないよ」


 って。

 その言葉の意味はまったくわからなかったんだけど。

 ただ、悲しそうに笑う人だなって思った。


 ──表情なんて、よく見えなかったのに。

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