第15話 双子たちと怪盗の短くも長い夜⑦
時速八十キロメートル。
強盗は
追っ手の姿はなかった。燕のように地上スレスレを滑空し、狼のように執拗に追いかけてきていた三人の魔術師たち。彼らは忽然と姿を消していた。背後に見えるのはアスファルトで塗り固められた濃紺の車道と、主の後を追従する
彼らはほんの数秒前まで強盗のすぐ後ろまで迫っていた。強盗もその気配と息遣いを背中に感じ取っていた。だが、その数秒後には
背後に続くこの道のどこかしらには、彼らの死骸が転がっているに違いない。
と、普通であればそう考えてもおかしくはなかった。
だが、強盗はそうは考えなかった。
速度を落とさぬよう真っ直ぐに駆け抜けることに集中していて、後ろの様子を窺う余裕はなかったからだ。彼らの最期を見届けたわけでもなければ、かと言って彼らの断末魔を耳にしたわけでもない。だとすれば、彼らが死んだと安心するのは早計だ。
それに、強盗はこうも思っていた。
——果たして“あの男”がこうも簡単にくたばるだろうか、と。
そして案の定、その予想は強盗の期待に応える形で的中した。
「D2D、
その声は、足元から聞こえた。
時速八十キロメートルで走行するバイクの足元、そこにあるのは時速八十キロメートルで並走する自分自身の影だけだ。だが、そこにあった影はいつの間にか自分だけの物ではなくなっていた。その影はまるで路面を濡らす水溜まりのようで、タイヤが回転を続ける度にパシャパシャと飛沫を撒き散らしていた。不自然に波打っていた。
「まさか、影の中か……!」
そしてその三つの人影は、少女の声と共に“影”から浮上する。
「——油断大敵、下からパーーンチッ!」
ザバーン! と元気よく影から飛び出してきたのはメアリだった。拳をバイクの底面に叩き付け、飛び出した勢いのまま上空へとかち上げたのだ。
バイクの重量は百キロを優に超えているが、メアリはそれに跨った強盗ごと数十メートル以上の高さまで運び去った。ルーサーが作り出した反重力空間の応用、というよりは自分が纏った反重力の泡ごと相手にぶつかって行っただけではあったが、シンプル故にその効果は大きかった。強盗は今まさに、宙に囚われていた。
「ようやく捕まえたぞ、横取り野郎」
ルーサーは脇にアンを抱え、背中にはメアリをおぶった格好で、反重力の泡で捕らえた強盗と向き合った。そして、懐から取り出したリボルバーの銃口を突きつける。
「さあ、お前の盗った
強盗は依然としてバイクに跨ったままだったが、一度空に浮かんでしまえばバイクなどただの鉄の塊。いくらエンジンを吹かそうとアクセルを捻ろうと、タイヤは宙で空転するばかりで前にも後ろにも進まない。
高度百メートル。首都ルドーの夜景がそこそこ楽しめる高さで立ち往生だ。
「余計な真似はするなよ? 銃を取り出すのも駄目だし、シロアリに助けを求めるのはもっと駄目だ。お前に与える選択肢は二つ、イエスかイエスだ」
「…………」
強盗は眼下に広がる景色を眺めながら黙っていた。すでに諦めているのか、それとも往生際が悪いだけか。奴は眼前に突きつけられた銃口には見向きもしない。
「おい、お前! いつまで黙ってるつもりなのさ! おじさんがせっかく格好つけてるんだから、なんか反応してあげないとかわいそうじゃん!」
「お前のせいで色々と台無しだよ」
「……ククッ、おじさんか。その男はお前たちの父親ではなかったのか?」
と、強盗がクスリと笑った。メアリは「あっ」と口を押さえているがもう遅い。
そもそも、この強盗は初めからそんな嘘は信じてはいなかったに違いない。あえて騙されたフリをしていた理由は分からないが、自分の仕事にはさして影響がないと考えたのかもしれない。
そして今も強盗は、自分の仕事が失敗するとは微塵も思っていなかった。
「ここまでの追走は見事だったが……さて魔術師、果たしてお前の
そう言うなり強盗は、即座に行動を起こした。バイクから転げ落ちるように座席を降りた強盗は、そのままバイクの車体を蹴って飛び降りたのだ。
「……なにッ!?」
咄嗟のことに、ルーサーは引き金を引きそびれた。蹴伸びの要領で勢いをつけた奴はあっという間に反重力空間を突破し、重力に引かれて地上へと墜ちて行く。高度百メートル。ビルにすればおよそ三十階ほどになる高さだ。もしもその屋上から人が飛び降りたとして、その人は果たしてどうなるだろう。きっと着地と同時に潰れたトマトのようになるに違いない。
「ッ、嘘でしょ! こんなとこから飛び降りるなんて!」
「きゃああ! 大変ですっ、ぺちゃんこになる前に助けないと!」
双子たちから悲鳴が上がる。
その直後、聞き慣れた機械音……蟲の羽音が頭上から降って来た。
『——ミュィィイイン!』
シロアリの群体が、ルーサーたち目掛けて突っ込んで来る。アレに呑まれたらひとたまりもない。慌ててルーサーは双子たちを抱え、後退した。
しかし、シロアリが受信した指示はルーサーたちを噛み殺すことではなかった。
宙に置き去りにされたバイクに喰らい付いたシロアリは、それを部品以下のサイズまで細かく分解した。それは「主人の元に帰るついでに解体しておいた」くらいの手際のよさで、解体作業を終えるなりシロアリたちは強盗の元へすっ飛んで行く。
目を疑ったのはそれからだ。
地上に向かって真っ逆さまに墜ちて行く中、これまた瞬く間に、宙でバイクが組み上がっていくのだ。ここまで来るともうなんでもアリだ。強盗は墜ちながらにして、シロアリが宙で組み上げたバイクに跨り、シロアリが宙に敷いた真っ白な
サーカスでも見せられているようだった。鮮やか、としか言いようがない。
「うわっ、なにあれ! かっこよ……っ! もうあっちがヒーローじゃん」
「本当、素敵……! 白馬に乗った王子様みたい!」
「王子様に一体どんな無茶を期待してんだ、お前は……白っぽい要素しか合ってねえよ」
対してこっちは観客気分に浮かれたお子様が二人。ルーサーは走り去って行く強盗の背中を眺めながら、ホッと息を吐いた。役立たずの拳銃をポケットに仕舞いながら、どうやら自分は安堵しているらしいぞ、とそこで初めて気付く。
……なんで奴は俺が撃たないと確信できたんだ? まさか奴は俺のことを……
「あっ!」
それからややあって、もはや何度目かも分からないうっかりにメアリは気付いた。
「とゆーか、見惚れてる場合じゃないって! 早く追っかけないと逃げられる!」
「いや、もう勝負はついた」
「なに言ってんのさ! 負けを認めるにはまだ——」
「俺たちの勝ちだ。そうだろ、アン」
えっ、とメアリはアンの方を見る。
アンはそんなメアリに微笑みを返しつつも、やや緊張した面持ちで遠くの強盗を見やった。遠くへ遠くへと遠ざかって行く背中に届かぬ手を届かせるように、あるいはなにかを手繰り寄せるような仕草で、アンは右の五指を正面へと突き出した。
「——戻ってきて、ぬいぐるみさん!」
丁度その時、強盗は自分の懐でコソコソと蠢く異変に気付いた。
ボタンの目玉に糸で縫われた波々模様の口。真っ茶色の生地に包まれた二腕二足のぬいぐるみ。そいつは全く気付かぬうちに、自分の胸元にぶら下がっていたのだ。
「こいつ、いつの間に……!」
強盗の服をよじよじと登って、肩の上でしめしめと笑うぬいぐるみ。その手に握られている“それ”を見て、強盗はこの時初めて「しまった」と思った。
胸ポケットに入れておいた賢者の石。それが、ぬいぐるみの手に握られていた。
『——クィキキッ! ガッァァァ、チャァァ!』
こんなぬいぐるみが取り付く隙などそうはなかったはずだ。思い当たるとすれば、反重力の魔術に囚われたあの一瞬。あの一瞬で、まさか……。
強盗は賢者の石を取り返そうと肩に手を伸ばしたが、ぬいぐるみは強盗の手を蹴って跳び上がり、ヘルメットの上にしがみつく。だが、いつまでもそうしているわけにもいくまい。バイクを走らせている限りぬいぐるみは帰る術を持たないはず……。
……いや、もちろんそんなわけはない。
あの
「——
アンがそう叫んだ直後、ヘルメットの上からぬいぐるみが跳び上がった。疾走するバイクからぴょいーんと飛び降りたぬいぐるみは、天から垂れた糸に釣り上げられるような格好で、夜空に吸い込まれるようにして帰って行った。
それこそはまさに、
——双子たちが初めて“怪盗”を成し遂げた記念すべき瞬間だった。
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