第11話 双子たちと怪盗の短くも長い夜③
夜も更け、パラ=ローグの街並みからぽつぽつと明かりが消え始めた頃、少年はゲーム機を枕元に放り出して、布団からひょっこりと顔を出した。部屋の電気は消えていて、この時間になると流石にお母さんも覗きにはこない。こんな時間までゲームをしていたと知られたら、きっとゲーム機は没収されてしまうだろう。
少年はゲーム機を勉強机の上に置き、あたかも朝までそこにありました、といった具合にアリバイを作る。まあ、朝になってお母さんが起こしに来た時にそれを見れば「おや、昨晩覗きに来た時には置いてなかったはずだわ。さては——」とむしろ墓穴を掘ったような結末が待っているわけだが、少年はそこまで気付いていない。
明日になったら、今晩たっぷりと鍛え上げた自慢のゲームデータを友達に自慢してやろう、くらいのことしか考えていなかった。だから窓の外を覗き込んだのも、特に意味があってのことではなかった。ただなんとなく、少年は夜空を見上げた。
初めそれは、なにかの見間違いかと思った。パラ=ローグの——とりわけ首都ルドーの空にはいつも霧がかかっていて、星が綺麗に見えることは稀だ。だからそれが星ではないことはすぐに分かった。流れ星にしても、それはあまりにも近すぎた。
その影は、空を飛んでいた。ぼんやりとした月明りを背景に、三つの黒点が夜空を駆け抜けて行く。それは翼を羽ばたかせ風の中を掻き泳ぐ
——そう、それはヒトだった。
「……まじかよ」
そう長い時間ではなかったが、少年はその人影が流れ星のように夜空を駆け抜けて行く光景をただただ無心で眺めていた。それこそ、大人になってからも思い出すほどの強烈な記憶として、少年の心に強く刻まれた。
少年が初めて本物の“魔術師”を見た瞬間だった。
* * *
「きゃっほーーい!」
ルドーの夜空に、少女の歓声が染み渡る。
メアリは今、空を飛んでいた。
「やっばい、あたしたち今本当に空を飛んでるんだっ! これ本当に飛んでるんだよね? 夢じゃないよね!? アハハっ、凄い凄い!」
「おい、あんまりはしゃぐな。近所迷惑だ、って石投げられたくはないからな」
「はしゃぐなって、そんなの無理に決まってんじゃん。こんな最高の景色見せられてさ、しかもこんな風に自由に飛び回ってさ、こんなっ……夢みたいな!」
「はいはい、分かったから手は放すなよ?」
そう言ってルーサーは、メアリと繋いだ手を握り直す。
——D2G、
空間と重力を制御し、周囲に反重力の泡を纏う高等魔術だ。
この魔術によってルーサーは生身での飛行が可能となる。直進も後退も上昇も下降も滞空も思うがまま。魔術による空中遊泳。星のくびきから解き放たれたルーサーにとって、空を飛ぶことは空を泳ぐことと同義だった。
そしてメアリとアンの二人もまた、ルーサーに手を引かれる形で空中遊泳を堪能していた。冷たい夜風も足を引く重力も魔術の泡が守ってくれる。彼女たちはただルーサーのエスコートに身を任せるだけでよかった。
もしも彼女たちに必要なものがあるとすれば、それはほんのちょっぴりの勇気だけ。
「いやぁああああああ! 高い高い高い、ッ落ちる落ちる落ちちゃうぅううーー!」
フラメール邸を離れて少し経ったところだが、アンは未だ空の感覚に慣れない様子で、ルーサーの身体にコアラのようにしがみつきながら泣き叫んでいた。
「おい、そんなに引っ付かれたら動きにくいだろ。バランス崩して落っこちたらどうすんだ」
「じゃあ今すぐ降ろしてくださいっ! 落っこちない前に! 落っこちない前に!」
「馬鹿言うな。お前たちが手伝えって言うからこうして運んでやってるんだろうが。賢者の石を取り返すまでは辛抱しろ」
「むぅりぃぃでぇすぅぅぅうーーっ!」
アンはイヤイヤと首を振り、ルーサーの横っ腹にぎゅっと爪を食い込ませこれまで以上の力でしがみついてくる。さっきまでの仕返しにからかってやろうかとも思ったが、これ以上身体に痣は作りたくない。
「メアリ、こいつはお前の妹だろ。なんとかしろ」
「そうは言ってもなー、アンは昔っからビビりだしなー」
ぷくく、と笑いながらメアリはルーサーの脇の下からひょこりと顔を出す。そしてそのままルーサーを間に挟んだ格好で、メアリはアンに言葉をかけた。
「でもさ、アン。こんな経験めったにないんだから楽しまなきゃ損だよ。景色だってめっちゃ凄いから! だからさ、目閉じないで一回ちゃんと見てみなって」
「そんな余裕ないよっ、大体下見たらもっと怖くなっちゃうでしょ!」
「怖くないって、慣れたら楽しいもんだよ。それにほら、おじさんがちゃんと手、掴んでくれてるから大丈夫だって。そうでしょ?」
メアリはルーサーと繋いだ手を見せてそう言った。まさかそこまで彼女に信頼してもらえているとは、正直意外だった。
「ああ、そうだな。俺がちゃんと掴んでてやる。エスコートは俺に任せろ」
「本当ですか……? これまでの仕返しだ、とか言って放り出したりしませんか?」
「…………しないよ」
「間っ! なんですか今の間は! 絶対悪いこと考えてたじゃないですか……!」
「いや、今のは違う。俺がそんなことするわけないだろ。信用しろ」
「……絶対、絶対に放さないでくださいね。約束ですよ……?」
「ああ、約束だ」
やがてアンは決心した面持ちで、恐る恐るとルーサーにしがみついていた手を放した。宙に彷徨った彼女の手を、ルーサーはそっと手に取ってやる。彼女が空の感覚に馴染むのは案外早かった。立ち泳ぎでもするように宙をふらふらと足で漕ぎ、それが落ち着いてくると、アンはようやく眼下に広がる景色を見下ろした。そして、
「……ぁ、っ……」
ハッと息を呑んだ。
道路に沿って等間隔に光を灯す街灯は滑走路を照らす誘導灯のようで、遠くに見える工場地帯は未だ煌々と光を放っていてまるで遊園地のよう。後ろへ後ろへと眼下を流れて行く市街地にもまだ明かりは灯っていて、その一つ一つが煌めいて見えた。
「ね、凄いでしょ?」
「……うん。凄い、綺麗……遠くまで、ずっと遠くまで見える……それに、気持ちいぃ」
メアリが感激した光景がそこにはあって、それを同じ景色を見て、アンもまたその感覚に心を奪われていた。
「私、自分の住んでいる街がこんなにも広かっただなんて……知りませんでした」
「あたしも……」
「——ようこそ、過去と未来が層を連ねる
「ってことは、世界はもっとでっかいんだろうなー」
「どれくらい大きいか想像つかないね」
「でもさ、おじさんの魔術があれば世界の果てまでひとっ飛びなんじゃない?」
「あ、それ愉しそう! 魔術で世界旅行なんて素敵だよ」
二人は夢見る子供のように目を輝かせて、流れ行く景色を眺めていた。まあ、年齢的にも十分に子供ではあるのだが、彼女たちはこの一日、ただの子供ではいられないような体験をしてきた。空き巣に遭い、強盗にも遭い、そして今は取られた宝物を取り戻すために空を飛んでいる。ただこの瞬間だけは、二人ともそんな理不尽から解き放たれたような無垢な表情で、ただこのひと時を愉しんでいた。
まさかここまで喜んでもらえるとは。ルーサーは双子たちの横顔を眺め、連れて来た甲斐があったな、と小さく微笑んだ。
「喜んでくれたようでなによりだが。お前たち、本来の目的も忘れるなよ?」
ルーサーがそう言うと、二人はふと我に返った素振りで「あっ」と声を漏らした。
「そうだよっ! こんなことしてる場合じゃないじゃん、あたしたち! ……強盗! あたしたちは強盗追ってたんだよ!」
「そ、そうだよね……雰囲気に流されて忘れそうになってたよ」
「まったく、能天気な奴らだな」
「能天気違う。あたしたちは一秒一秒を全力で愉しんでるだけだよ」
物は言いようだ、とルーサーは微笑する。
「でも、この広い街の中からどうやって強盗さんを見つけるつもりなんですか?」
「高いとこからなら見つけられるかも、とか思ったけど……こうも建物がいっぱいじゃあね。道だって迷路みたいに入り組んでるし。なんか策でもあるの?」
「策がなけりゃあお前たちを連れ出したりはしない。奴ならもう見つけてるさ」
「えっ、どこどこ!?」
メアリはキョロキョロと街を見下ろすが、強盗らしき影はまだ見当たらない。
そこに、一羽の
「うわっ、なにこのカラス。なんでついて来んの?」
「私たちのこと仲間だと思ってるのかな? ふふっ、なんか可愛い」
「そいつは俺の相棒だ。俺に代わって、強盗のあとを
「……それも魔術ですか?」
「そうだ。まあ、お前のぬいぐるみと似たようなもんかな。俺が空き巣に入ってる間に余計な邪魔が入らないよう、家の周りを見張らせてたんだよ」
「あっ、それで泥棒さんだけすぐに気付いたんですね。——敵が来た、って」
「まあ、そういうことだ」
やはりこのアンという少女は察しがいい。
賢者の石を強盗に渡した時もそうだ。その後のドタバタもあり当初の計画とは違ってしまったが、彼女がルーサーの意図を察してくれたおかげで最悪の事態は免れた。
あのまま双子たちが駄々をこねていたら全滅もあり得たはずだ。
双子たちが傷付けられる展開だけはなんとしても避ける。それがあの時ルーサーが思い描いていたプランだった。
結果としてその双子たちを連れ強盗を追っているわけだが、それもちゃんとした考えがあってのことだ。ルーサーはすでに勝つための策を練っていた。
「——奴はこの先だ。ちゃんと掴まってろ、速度を上げるぞ」
ルーサーは確信を持って進路を変える。鴉の先導に従って大きな通りを一つ二つ、建物を三つ四つと越えた先で、ついにその後ろ姿を捉えた。
「見つけたっ、あいつだ!」
強盗の乗ったバイクは、無人の公道を約六十キロほどの速度で走行していた。
強盗がルーサーたちの存在に気付いた様子はなく、また慌てて逃げているような素振りもない。どうやら市街地を抜け、工場地帯の方へと向かっているようだった。
「ここで会ったが三千光年。さっきのお礼をたんまりとしてやるんだから!」
メアリは早くも魔力をバチバチと散らして、臨戦態勢に入っている。いざ強盗を前にして怖気づく可能性も考えていたが、この様子なら心配はいらなそうだ。
戦力は十全。
しかし、ルーサーにはその前に解消しておかなくてはならない疑問があった。
「まあ待て、
「もー、なにさこんな時に。それって今じゃなくちゃ駄目なの?」
「ああ、その答え
メアリはもどかしそうにしていたが、賢者の石のことと聞くと、一旦は魔力の放出を止め耳を傾けてくれる。アンも黙ってルーサーの言葉を待っている。
「確認したいのは一つだけだ」
ルーサーは、今この瞬間までずっと疑問に思っていたことを口にした。
「俺たちが今追っている賢者の石。——あれは、本物か?」
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