中編

 一年前――。


 数日間に及んだ御賀の余韻も落ちついた四月。四十年ぶりとも言われる大地震が都を襲った。家屋が倒れ、煙が上がり、逃げ惑う人びとで都中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


 盛子が住む白河は都から離れていることもあり、火の手は遠くに見えていたが、地震の被害からは逃れようもなかった。室礼しつらいという室礼は倒れ、上げていた御格子は勢いよく閉じて破損した。


 いつまでも止まない揺れのなか、盛子は女房や家司たちに連れられ、被衣かずきをかぶって南庭へ避難した。地震は未の刻(午後一時~三時)の出来事で、いまはまだ明るいが、もうじき春の日も暮れていくだろう。


 くりかえされる大地の揺れに、邸はぎしぎしと不気味な音を立てている。中へ戻ったとたんに倒壊したのでは、たまったものではない。


 せめて盛子だけでもどこかの邸へ避難できないものかと家司たちは思案したが、どこも同様の有様で、むしろ混乱に乗じた野盗が跋扈しているであろうことを考えると、京中のほうが危険だった。


 日が沈み、このまま夜露に濡れるしかないのかと心細くなってきた深更、先触れのすぐあとを追うようにして基通が姿を見せた。いくらか萎えた直衣に、鬢のあたりがややほつれている。おそらく、宮中からそのまま駆けつけたのだろう。


 基通は盛子の無事を確認すると「准后じゅごう、失礼を許されよ」と言うなり、さっと抱きあげた。慌てふためく周囲をよそに、引き留めようとする家司へ言い放った。


「今上の御母代おんははしろでもあらせられる御方を、このような場所に留めおいてはよろしくない。せめて、牛車の中へとご案内する」


 盛子は基通の養母となったあと、さらに帝の准母として従三位に叙せられている。暗に不手際を咎められた、と感じた家司たちは口をつぐんだ。


 冷泉局が、それなら自分がおそばに付くと申し出ると、基通はそれも一蹴した。


「母上は少し怯えておいでのようだ。無理もない。ここは、わたしが労わって差しあげたい。――なに、母と子が語らうのに、なんの心配があろうか」


 あでやかな笑みで女房を黙らせた基通は、悠然と牛車へ乗りこんだ。被衣で顔を隠したまま下ろされた盛子は、基通の強引なやり方に驚きながらも、子どものころからそうだったと思いだした。


 良くも悪くも自分の感情や欲求に素直で、それをまた周囲が受け入れてくれるものだと疑いなく思っているような子どもだった。


 いまも盛子の困惑などよそに、したり顔で改めての挨拶を述べていた。


「母上、ご無事で安心いたしました。いずれ、六波羅から迎えの者が参るはずです。それまでは、こちらで辛抱なさってください」


 盛子は背を向けたまま、こくりとうなずいた。


 基通が元服して以来、直接に言葉を交わしたことはない。母と子とはいえ、血のつながらない他人である。年も近い。外にいる女房や家司たちに、万が一にでも誤解されるようなことがあってはいけなかった。


(困ったわ、早く六波羅のお迎えが来ないかしら……)


 隔てるものがない空間で、盛子はひっそりと息を詰めた。


 しかし、基通はいっこうに気にする様子もなく、むしろかつてのような近しさで「母上、お加減でもお悪いのですか?」などと殊勝なことを言ってくる。


 それでも盛子が蛹のように身体をかたくしていると、「昔のように打ちとけてはくださらないのですね」と、あからさまに拗ねてみせた。


(まあ……ほんとうに、子どもみたいだこと)


 呆れた盛子が心の内でため息をついていると、ふっと基通が笑ったような気がした。


「母上はいま、わたしを子どものようだと思われたのではないですか。――心外ですね、これでも一人前の男のつもりなのですが」


 そろりと、基通が盛子のうちきの裾へ手をかけたことに気づき、盛子はいよいよ身体をかたくした。


(こんな、つまらない戯れをなさるなんて)


 子猫が悪意なく小鳥をもてあそぶときに似た基通のやりように、困惑と、羞恥と、わずかな怒りがこみあげてくる。


 基通はわざとらしくため息をもらすと、困ったように言った。


「そう頑なにおなりでは、わたしの立場もございません。今宵、こうして母上のもとへ駆けつけるのにも、いらぬ苦労があったのですよ」

「……」


 黙ったまま、盛子はさらに顔をそむけた。


 宮中を警護する右中将の職にある基通が、このたびの地震で混乱する職場を抜けてくるのは容易ではなかっただろう。しかも、行き先が正室のもとではないとあれば、あれこれと言いたてる従者もいたかもしれない。


(素直に妹のもとへ行ってくださればよかったのに。どうして、わざわざ――)


 基通の真意が、わからない。


 けれど、袿へかけられた悪戯な指先に、ふわりと胸をくすぐるような記憶と感情がよみがえった。


 義理の親子という自覚もないまま、じゃれ合うたびに触れた互いの指先には、たしかにかすかな熱がこもっていた。あれは――。


 あわてて記憶を閉じ込めた盛子へ、基通は彼女の袿の裾を愛撫するように指をすべらせた。


「あなたさまのために、従者からの誹りを受けてまで参上したわたしに、ほんの一言なりとも、お声を聞かせてはいただけないのですか」


 盛子の動揺を見透かしたように、その声には艶が含まれていた。盛子は被衣を深くかぶり、基通の声を聞くまいとした。


 しかし、基通が身じろぎするたびに濃厚な薫物の香りが鼻先をかすめ、盛子を絡めとるようにまとわりついてくる。盛子が香りから逃れるように息を吐くと、するりと被衣をはぎ取られた。


「あ――!」


 驚いた盛子は、小さく叫んだ。


 うつむいたまま肩ごしに、髪の透き目からそっと背後を探ると、被衣を手にした基通がまっすぐに盛子を見ていた。


「声をあげると、外の者たちに怪しまれますよ。――白河殿」


 はっと、盛子は息を呑んだ。


 人はいま、盛子を「白河殿」と呼ぶ。母とは呼ばず、あえてその名を口にした基通に、盛子はふるえる声で言った。 


「……母上、とお呼びなさい」

「ああ、懐かしいあなたのお声だ。もっと、お聞かせください。白河殿」

「いいえ――わたしは、あなたの母です」


 盛子が訴えるように言うと、わずかな沈黙のあとで基通が声をもらした。


「本当に、そう思っておいでか。わたしは一度も、あなたを母だと思ったことはありません。ただの一度も――」


 落ち着いた口ぶりの端ばしから、鮮烈にほとばしる感情の波に、盛子は血の気が引くのを感じた。


(いけない、基通どの。それ以上おっしゃってはだめよ――!)


 言わせてはいけない。口にしてはいけない。そう思えば思うほど、盛子の呼吸は浅く、そして荒くなり、やがて息苦しくなったかと思うと、ふいに意識が遠のいて上体から崩れ落ちた。

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