おしどり夫婦と呼ばれる二人
通木遼平
前編
差し出された手は自分のものとそう大きさは変わらないのに、重ねた感触は全く違う。手袋に包まれたそれから視線を移すと、一瞬だけ彼は痛そうな顔をして、それから何でもないようににっこりと笑った。
ほんの少しよく見れば、手袋の中にある手はキズや肉刺でいっぱいで、巻かれた包帯には少しだけ血がにじんでいる。アルティナはなんとなく申し訳なくて、「よくなりますように」と心の中で唱えた。
痛みが急になくなったことに気づいた彼は、その原因がすぐわかったのだろう。目を丸くしてアルティナを見た。まだ幼さが残る彼のそんな表情にどうしてかうれしくなって、今度はアルティナがにっこりと笑ったのだった。
*** ***
アルティナが母の故郷であるアルディモアに行くことになったのは、国同士のあれこれというよりもアルティナ自身の問題があったからだ。
ドラゴンと人間の間に生まれたアルティナは、どちらかというと人間に近い存在だった。魔力は人間より多いが人間以外の姿を持たず、寿命も人間より少し長いくらいで魔族にしては短い――アルティナとアルティナの父の元を訪れたエルフにそう告げられた時、父は心底悲しそうな顔をした。
父はアルティナが生まれた国の国王で、この世で最も強いドラゴンだった。ほとんどの者が父を恐れていたし、父も他の者の前では冷たい目をしていたが、アルティナの前ではわかりやすいくらい表情が変わる。
父はアルティナを溺愛していたのでそれでもできるだけ傍にいたいと考えてくれたようだったが、アルティナがある程度成長してくると少し考えを変えたようだった。というのも、アルティナ自身が自分の方が父より先にしわくちゃのお年寄り――というよりも、父は老いというものがないのでずっと若いままなのだが――になってしまうと自覚し、それなら人間の国で暮らすのもありなのでは? というようなことを父に漏らしたからだった。
アルティナを生んだ時に亡くなった母は、アルディモアの王女で聖女だった。アルディモアの聖女は人々を癒し、土地を豊かにする力があるのだが、母が父の元に嫁いで以降は母の力が規格外だったせいもあって慢性的に聖女不足に陥っていた。
アルティナは母方の祖父母に会うために幼い頃から何度かアルディモアを訪れていたが、アルディモアの王家からするとアルティナには聖女の力があるらしい。アルティナが人間よりの存在だということもあって、それとなくアルディモアへの移住を誘われることがあった。
アルティナは十六歳になっていた。
今のところ人間と同じくらいの早さで成長している。結局、アルティナはアルディモアへ移住することに決めた。父はかなり渋ったが宰相が説得し、代わりに国境近くの街にアルティナが住むことと、父娘は許可なく国境を越えて自由に会うことができることを条件とした。
「えっ? 婚約?」
その日、部屋でのんびりと過ごしていたアルティナの元を訪れた父の秘書官に気まずそうに告げられて、アルティナは少し赤みの帯びた金色の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「そんな話が出ているの?」
「いくらアルディモア王家の血を継いでいてもこの国の王女だから、ただ移住するよりもアルディモアの人間に嫁ぐ、という形をとりたいらしい」
亡くなった母に拾われ実子のように育てられた秘書官は、アルティナにとって兄のような存在だった。公の場でなければ気安い態度を取っていたしアルティナもそれを望んでいた。
「お父様は反対したでしょう?」
「それはベレナングレン様に任せた。俺じゃ手に負えない」
秘書官は両手を上げた。
「もちろん、アルティナの意見も聞いてからだ。あちらの王家だと血も近いし、年のあう男はいなかったはずだから、嫁ぐにしても貴族の誰かになる。こっちの方が立場は上だ。それにアルティナはちゃんと好きあった相手と結婚したいんだろ?」
アルティナの両親はお互いに想いあって結婚した。アルティナはそれに憧れていて、恋愛結婚を夢見ている。幸いなことにこの国はそれが許されていた。が、こういう話になってくると人間の国の王家や貴族のように政略結婚になる可能性が高くなってしまう。
「どうしても結婚しなきゃダメ?」
「とりあえず婚約だけど……向こうも国内の貴族でうるさいヤツがいるらしい」
「でも国王陛下はわたしのおじい様なのよ?」
「王城じゃなくて辺境に住むだろ? 仮に独身で移住したら、たぶん権力目当てのヤツにすり寄られるぞ」
「ええ……」
「のどを噛みちぎるわけにはいかないからな」
とにかく王家のやることが気に入らない者は排除に動くだろうし、そうでない者なら繋がりを持とうとするだろう。こちらからも護衛を派遣すれば睨みをきかせられるがさすがにそこまではできない。人間の護衛はつくが、こちらからしてみれば頼りなかった。
それにアルティナにもし何かあれば父は怒り狂ってアルディモアを滅ぼすだろう……それをわかっているからこそ、アルディモアは結婚を提案してきたのだ。
「相手は決まっているの?」
「候補はいるらしいが、もしアルティナがあっちに遊びに行った時に知りあって気に入ったやつがいたら話をするから聞いて来いって」
パッとアルティナは顔を輝かせた。
「それなら、ギディオン・ファーニヴァル様を候補に入れて!」
「誰?」
「わたしがおじい様たちのところに遊びに行くと、いつも護衛をしてくださる方。魔導騎士みたいなの。わたしと同じ年頃で、子どもの頃から護衛についてくれているの。護衛の隊長が気をつかって年の近い子を護衛に入れてくれたのね。彼以外にも同い年くらいの護衛がいるもの。もちろん女の子もいるし……それで、彼とあまり話したことはないんだけど、すごく素敵なのよ。髪はブルネットで、瞳は灰色なんだけどすごく綺麗で銀色みたいに見えて……キリっとした顔立ちなんだけど、やさしいの」
「……それ、陛下の前では言うなよ」
うれしそうに語るアルティナに秘書官は重々しく告げた。
*** ***
仕事のできる秘書官の尽力があったのか、こうしてアルティナの婚約者はアルディモアの公爵家の長男であるギディオン・ファーニヴァルに決まった。ファーニヴァル家は王族を祖とする公爵家で身分的にも問題はない。彼は長男だったが家督は弟が継ぐことになり、彼自身は辺境の広大な領地を与えられ、辺境伯を名乗ることとなった。
それが三年前のことだ。
アルティナは去年ギディオンと結婚し、アルティナ・ファーニヴァル辺境伯夫人になった。聖女として国のために祈ったり人々のケガや病気を治したりしながら辺境伯夫人としても仕事をこなしている。幸い、彼女は頭もよく、慣れない貴族の生活も仕事をすぐに覚えられた。
「まあ、辺境伯夫妻よ」
「いつも素敵ねぇ」
うっとりとした声が、煌びやかな会場の空気をたっぷりと含んでアルティナの鼓膜を震わせた。こうして社交の場――今はシーズン中なので、王都にある貴族のタウンハウスでは連日のように夜会が開かれていた――に夫婦で出ると、アルティナと夫のギディオンは羨望の眼差しを向けられる。
アルティナが思っていた以上に人間の国は政略結婚が多く、もちろん夫婦になってから想いを寄せあう者たちも多かったがそれ以外は仮面夫婦、あるいはそこまで行かなくてもどこか仕事仲間のような関係だった。
そんな中、アルティナとギディオンはおしどり夫婦だと言われている。二人は相思相愛で結ばれたのだと。ギディオンがアルティナに惚れて熱烈に口説き落とし、アルティナの父を説得し晴れて夫婦になれたとか、あるいはアルティナがギディオンに恋をしていてギディオンもそんなアルティナに惹かれ、アルティナが父を説得して二人は晴れて夫婦になれたとか、そんな噂がいくつも立っていた。
相思相愛、ね……。
にこやかに夫と共に知りあいにあいさつをしながら、アルティナは内心で大きくため息を落としていた。少なくともアルティナはギディオンが好きだったが、残念ながら相思相愛ではない。
ギディオンの名前を出してとんとん拍子に彼との婚約が決まり、はじめて顔をあわせた日のことをよく覚えている。星の光を溶かしたような銀色に見える彼の美しい灰色の瞳はまるで曇り空のようだった。終始表情も声も硬く、アルティナは自分のわがままが彼を巻き込んでしまったのだと覚った。
アルティナははじめて会った時から彼に恋をしていた。
一生懸命訓練をしていることがうかがえる傷だらけの手も、その痛みを我慢してアルティナをエスコートしようとしてくれるやさしさも、驚いて目を丸くしたどこかかわいらしい表情も、アルティナの心を満たしてくれた。
彼と会うたびに新しい部分を好きになり、成長してかわいらしさが減ってからもそれは変わらなかった。
でも、彼には好きな人がいたかもしれない――アルティナがギディオンに会うのはせいぜい年に二回ほど、長くても一週間程度の期間だけ。それ以外の彼を知らない。ひいき目抜きにしても彼は素敵な男性だし、こうしてアルディモアの社交界に足を踏み入れると同年代の素敵な女性は大勢いる。彼に熱い視線を送る人も。
公の場ではもちろんのこと、屋敷でも彼はやさしくはあったがどこかよそよそしさを感じていた。一緒の食事やお茶に誘っても、同席はしてくれても会話は少ない。アルティナが会話を振っても返事は簡潔でつづかない。夜は未だに別の寝室を使っていた。
ダンスのための音楽や人々の話し声がねっとりとまとわりついてくるようだった。あいさつもひと段落し、一応はダンスも一回踊り、アルティナはギディオンが騎士団の人間と話す間、壁際に置かれた椅子で休ませてもらうことにした。彼は結婚と同時に騎士団をやめたが辺境伯として独自の騎士団を持ち、それをまとめあげている。
でも本当は騎士団で魔導騎士として働きつづけたかったかもしれない。
座り心地のいい肘掛け椅子にさりげなく背をあずけて、アルティナは今度はちゃんとため息を吐いた。暗いことを考えるとずるずると思考が沈んでいく。
「あら、アルティナ様、こちらにいらしたのね」
明るい声に顔を上げるとギディオンの妹のメイジーが立っていた。アルティナにとってこの国に来てはじめてできた友人で、今では親友と呼べる関係だ。お互いに明るい性格で気もあうため、夜会などに参加した際は必ず声をかけるし普段は文通をしていた。
「おとなりいいかしら?」
「もちろん、どうぞおかけになって」
「お兄様は?」
「あっちで騎士団の方とお話しているわ。同期の方たちみたい」
「それでアルティナ様をほうっておいているの? わたしの婚約者もお友だちと会って盛り上がってしまっているのよ。ほうっておかれた者同士、ここでのんびりしましょう」
そう言って飲み物を頼むメイジーにアルティナは笑った。
「今日のドレスも素敵ね」
「ありがとう」
「お兄様がプレゼントしたの?」
「たぶん。そう言って侍女が持ってきてくれたけど、ギディオンは何も言わなかったから」
「照れているのよ」
飲み物をアルティナにも渡しながらメイジーは言った。
「お兄様は仕事人間で女性とまともに接したことなんてなかったから、アルティナ様みたいに綺麗な奥様をもらってどうしたらいいかわからないのよ」
「そうなの? でもギディオンは素敵な方だし、実は恋人がいたりとか……」
「確かに人気はあったけれど」
メイジーからしたら兄の魅力はいまいちわからないらしい。しゅわしゅわと炭酸の泡が浮かぶ飲み物を口にすると、少しさっぱりとした気持ちになった。「あら」とメイジーが声を上げた。つられて視線を向けると、ギディオンたちの話の輪の中に華やかなドレス姿がいつの間にか入っていた。薄い水色のドレスで、ふわりとして愛らしいデザインだが繊細なレースの装飾が甘すぎないように抑えている。
「あの方……」とメイジーが顔をしかめた。誰の視線も向いていないのをいいことに一気に飲み物をあおったので、アルティナは苦笑いしてそれをいさめた。
「ジャスミーヌ・セルヴァンだわ」
「知りあい?」
「伯爵令嬢で――知りあいにはなりたくない方よ。有名なの。男性陣はお知りあいになりたいという方が大勢いるらしいけれど」
「まあ」
「わたしの婚約者も前に話しかけられて、鼻の下を伸ばしていたのよ。わたし、三日は口をきいてやらなかったわ」
思い出したのか、メイジーはぷりぷりと怒っている。その間にもジャスミーヌはギディオンに話しかけていて、アルティナは表情を曇らせた。
「お兄様は結婚されているのに! わたし、言ってくるわ」
「いいのよ」
メイジーが立ち上がって駆け出しそうだったのでアルティナは慌てて押しとどめた。ギディオンはジャスミーヌや仲間と少し会話をかわし、それからくるりと振り返ると真っ直ぐにアルティナの元へ帰ってきた。その表情は、やはり暗い。ジャスミーヌにはもう少しやさしい顔で話しかけていた気がするのは、アルティナの気のせいだろうか?
「お兄様、お早いお帰りですこと」
「メイジー、来てたのか」とギディオンは兄の表情で言った。
「婚約者はどうした?」
「お友だちとお話し中よ」
「仲良くやっているのか?」
「おしどり夫婦のお兄様とアルティナ様ほどではないけれど」
ギディオンが困ったような顔をしたのを見て、アルティナはまたどんよりとした気持ちになった。「仲がいいならいいんだが」と灰色の瞳がそんなアルティナに向けられる。
「待たせてしまってすまない」
「いいえ」
「顔色が悪いようだが、大丈夫か?」
「平気よ。少し人に酔ってしまったの。ここは熱気もあるし」
「必要なあいさつは済んだからもう帰ろう」
ギディオンが差し出した手にアルティナは自分の手を重ねた。手袋越しにも彼の手のひらの硬さがよくわかる。
「メイジー、またお手紙を書くわ。今度一緒にお茶もしましょう」
「ええ、また」
ちょうどメイジーの婚約者も姿を現し、彼にもあいさつをしてから主催者に帰ることを伝え、会場を後にした。
馬車に乗り込むまでギディオンは当たり前のようにアルティナをエスコートしてくれたし、その表情は穏やかだった。しかし馬車の扉が開くと、また表情は硬くなってしまう。アルティナはもうため息も出なくて、そっと窓の外を見た。街を夜の闇が支配してその風景は点々と街灯が浮かび上がらせる切り抜き以外、ほとんどよくわからない。それでも夜の闇そのものは母国の父を思い出させてくれてアルティナは好きだった。
「……体調はどうだ?」
気づかわしげにギディオンがたずねた。
「えっ」
「顔色が悪かっただろう?」
「ああ……ええ、大丈夫よ」
沈黙が狭い空間に居座っていた。ギディオンの表情はやはり硬く、じっと何かをこらえているようにも見えた。
「……夜会に残りたかったなら、残ってもよかったのに」
「えっ」
「お友だちもたくさんいたし、セルヴァン伯爵令嬢だったかしら? 彼女は離れたところから見てもかわいらしかったし、無理してわたしにつきあわなくてもよかったのよ」
ギディオンは驚いたように目を丸くした。その表情がはじめて会った日のことを思い出させて、アルティナはなんだか声を上げて泣きたいような気持ちになった。
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