学校の怪談 追憶の呼び聲

かごめ

第零幕 黒濁

『……地方では現在……暴風雨によ……避難勧……』


 その言葉を最後に、気休めのおんぼろラジオは役割を放棄してしまった。


 プリントの頂に乗せていたラジオを掴んだ水島透みずしまとおるは、昭和に従い二度三度叩いて押して引っぱってみたが、何をしてもノイズを吐き出す以外に進展はなかった。


「嘘だろ……? 娯楽なんて限られてるのに……」


 もうノイズそのものになってしまったラジオを見限った水島は、三学期に使う予定のプリント製作を止めて席を立った――と同時に外で雷鳴が轟いた。それに続いて地響きが職員室を揺らし、一瞬とはいえ電気が消えてしまった。


 ガタガタと悲鳴をあげる木造の天井と壁と床も相まって、このまま校舎が吹き飛ばされてしまうんじゃないか、という不安がますます煽られる。


 今年は二00一年、来年は二00二年だ。新校舎の新築が遅れていることと生徒数の増加があったとはいえ、いつ崩れるかわからない木造校舎を解放するなんて聞いたことがない。長い間封鎖していた弊害で雨漏りは酷いし、体育館も穴だらけだ。台風の直撃を受ければひとたまりもないだろう。


 そんなことを考えていた時、机に乗せていたトランシーバーが鳴った。


『水島……生? 一瞬です……電気が飛びまし……そっ……大丈夫……か?』


 途切れ途切れに聞こえてきた声の主は、二階の雨漏り箇所を直している用務員の小沢真おざわまことだ。水島はトランシーバーを持ち、


「小沢さん、こっちは大丈夫です。電波が悪いみたいで少し聞き取り難い状態みたいです」 


『……りました……三カ……直したら終わ……です』 


「あと三カ所で終わるんですか? わかりました。さすが、早いですね」


 この旧校舎は来年には取り壊す予定だ。それだのに小沢はずぶ濡れになりながら雨漏りを直しているのだ。用務員の仕事とはいえ、何でも屋ではないだろうに。そう思った水島は、誰にも聞かれていない状況の中でこう言った。


「小沢さん、戻ったら……一杯どうですか? 待ってますよ」


 教師だって人間だ。こんな暴風雨の中で宿直をして、相棒は濡れながら雨漏りを直している。酒を楽しんでも罰は当たらないだろう。宿直室に隠してある日本酒を思いながら、水島はプリント制作に戻った。


 大好きな日本酒のことを考えると、ガタガタ騒ぐ窓も引き戸も気にならなくなった。いつもなら不快でしかない時計のひび割れたチャイム、昼間との落差から生まれる静寂と暗闇への恐怖も薄まり、プリント制作はあっさりと軌道に乗った末に完成した。


「やぁ、完成完成〜」


 水島は背もたれに身を預けながら、大の字に伸びた。昼間なら珈琲を片手にパソコンと絶え間ない御見合い、プリントの山に追われ、生徒の素行を話し合う教員で溢れているのに、今は誰のことも気にせず身体を動き回せる。幼い頃、両親が出掛けた後、何をしても自由なんだと騒いだあの時の気分に近いのだろう。


 軽い足取りのまま席を離れた水島は、びしょ濡れの相棒を想って備品棚から綺麗なタオルを取り出した。直している位置から先読みし、タオルは引き戸の横にある机へ置いておいた。小沢が引き戸を抜けたら即座にわかる位置だ。


 その後は小沢が戻って来るまで職員室内をうろついてみた。こんな時でもなければ堂々とうろつくことは出来ないため、引き出しを漁りはしないが、他の教員たちの机や掲示板に貼られた新聞委員会の新聞などを眺めて行き――新聞の中に懐かしいフレーズを見つけた水島はその場で立ち止まった。


「〝学校の怪談〟……か。そういえば、俺も子供の頃はトイレの花子さんや口裂け女を信じてたなぁ。ポマード、ポマードってな」


 賑やかだった昼間との落差によって生み出された怪談たちは、『トイレの花子さん』『増える階段』『ひとりでに動くピアノ』『動く人体模型』『動く骨格標本』といったように、今思えばたわいのないものばかりだが、それが怖くもあり楽しくもあった。とはいえ、当時は怖がりだった水島にとっては楽しさよりも怖さが勝っていた。


 気をつけろ水島、引き戸の隙間や窓から幽霊が覗いているかも……。


 もう怖がることのない妄想を連れて水島は机に戻り――それと同時にまた雷が轟いた。お化けでもない自然への恐怖で思わず飛び跳ねてしまい、机にぶつけた足と「ぎゃっ」という悲鳴を連れて水島は倒れてしまった。その衝撃で机の本は倒れ、押された本は写真立てとプリントの一部を巻き込んで床に落ちてしまった。


「そんな……嘘だろ?!」


 巻き込まれたプリントたちは無情にも散らばってしまった。机の下に潜ってしまったものや潰されて折れ曲がってしまったものまである。その最悪なプリントたちを掻き集め、横倒しになった本も戻し、写真立てを起こして――水島は思わず手を止めた。それは一学期の初日、この旧校舎の中庭で撮ったクラスの集合写真だ。


「どうしたんだろうな……肺の病気なんて昨日今日で患うものじゃないし、急に倒れるほどの症状なんて起きるのか……?」


 プリントと入れ替えるように写真を手に取った。そこには自分が担当している四年二組の生徒たちが写っていて、誰もが緊張と笑顔を浮かべている中、柴犬を抱えたまま笑顔を浮かべる男子生徒がいる。彼が三学期を待たずに引っ越してしまった生徒だ。


「肺炎……肺気腫……気胸……肺がん……とか?」


 残念ながら水島は病気にも肺にも詳しくはない。両親側も何が起きているのかわからず、医者も匙を投げたというのだから、一介の教師にわかるわけないのだ。


 写真立てとプリントを戻した水島は、小沢の様子でも見に行こうと思い、職員室から出ようとしたその時、雨の音に混じって犬の吠え声が届いた。威嚇するような鋭い吠え声だった気がするが、すぐに何も聞こえなくなった。


 そういえば……この間も吠えてたな。


 柴犬の名前はうずまさという。雨風に負けないほどに強固かつ大きな小屋を持ち、中庭を自由自在に動けるほどの長い首輪を付けているから、基本的に昼も夜も自由にさせている。そんなうずまさが、中庭の池に向かって狂ったように吠えていたのが二週間前だ。


 そのこともあり、水島は予定を変更して雨合羽と懐中電灯を取り出し――。


 プルルルルル、プルルルル、プルルルルルル。


 机に置かれた電話が鳴った。それは黒川先生の机で、彼女が担当するクラスには入院している女子生徒がいた。雨合羽と懐中電灯を放って受話器に飛びついた。


「もしもし、こちら旧朧小学校です!」


 最悪の可能性も視野に入れて水島は応えたのだが、


『わたし、メリーさん。今、校庭にいるの』


「はい?」


 何を言っているんだろう、と思う前に電話は切れた。


「悪戯……?」


 プルルルルル、プルルルル、プルルルルルル。


 今度は橘先生の電話が鳴った。


「……もしもし」


『わたし、メリーさん。今、校舎の前にいるの』


「誰か知りませんが、悪戯は止めてもらえますか?」


 そう告げたが、何も応答がないまま電話は切れた。


 こっちに近付いて来ている。それくらいは水島にもわかった。だから、


 プルルルルル、プルルルル、プルルルルルル。


 プルルルルル、プルルルル、プルルルルルル――プッ――。


『ただいま電話に出ることが出来ません。発信音の後にメッセージをどうぞ』 


 留守電……!


 留守電を失念していた水島は相川先生の机に飛び込み――。


『わたし、メリーさん。いま、廊下にいるの』


 電話は切れた。


 肝心の廊下は照明を点けていない。その事実に水島は廊下へ飛び出し、寝ていた蛍光灯たちを叩き起こした。その強制に蛍光灯たちはジージーと抗議の声をあげたが、水島はそれを無視して周囲を見渡した。脳内に先ほどの台詞が何度も飛び交うが、廊下に件の姿は見えない。人形もスイカのジャックランタンも見えず、変質者の戯れ言なんだと思い込もうとした時、


 リリーン、リリーン、リリーン。


 どこかで電話が鳴った。


 リリーン、リリーン、リリーン。


 それは現代の呼び鈴じゃない。学校の怪談と同じように、古典となってしまった黒電話の呼び声だ。水島には懐かしさがあるものの、この音を発する電話は職員室にはない。あるのは昇降口にある〝通じない〟公衆電話だけだ。


 留守電なんてない公衆電話はいつまでも鳴り止まず、水島はジージーと唸る蛍光灯の下で受話器に手を伸ばした。


「もしもし……」 


『わたし、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの』


 その瞬間、水島は振り返り――。


『フフ、違うわ。こっちよ』


 周囲を見渡す水島のことを笑い、メリーさんは、


『こっちよ、こっち。あなたの耳の中に――』


 その瞬間、受話器から液体が溢れ出した。


「うわっ!」


 耳の中へ手を伸ばして来た液体と受話器を床へ叩き付けた水島は、その場から転がるように逃げ出した。


「何だ……何なんだよ……!!」


 叩き閉めた引き戸に背中を預けたまま、耳に指を突っ込んだ。耳のさらに奥を目指すかのように暴れる液体を掴み、それを床にぶちまけた。べたつく指をズボンで何度も拭いながら、その液体が何なのか凝視してみた水島だが、彼の引き出しに思い当たる液体は存在しなかった。


 液体の色は墨汁のように黒く、触っただけでとにかく不快な感触を与え、異星人が暴れる映画のようにネバネバしていて血生臭い。


 これを生徒の悪戯だと決めつけることは簡単だ。二十三時の校舎に忍び込み、ムービーで水島の醜態を撮影してパソコンに晒す。今の子供は躊躇わないのだろうが、それだけの為には手が込み過ぎている。


「……もういい。小沢さんが戻って来たら、一緒に調べてもらえばいいだけだ」


 水島は液体を殴るように踏みつけてから、自分の机に戻り、


 ビチャ……。

 

 水音が背中を刺した。


 暴風雨の中で届くはずのない水音は背中を抜けて耳を抜けて、最後は水島の耳元でこう囁いた。


 サァ……イッショニトケマショウ……。


 誰かがいる。


 気配も音もないまま、その誰かは背後に来た。


 震える脚を押さえたまま、水島は雷鳴の下で振り返った。

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