第67話 辦道話その五十六 坐禅=悟り

 「又、まのあたり大宋国にしてみしかば、諸方の禅院みな坐禅堂をかまへて、五百六百および一二千僧ぞうあんじて、日夜にちやに坐禅をすすめき。その席主とせる伝仏心印の宗師しゅうしに、仏法の大意だいいをとぶらひしかば、修証の両段にあらぬむねをきこえき。

 このゆゑに、門下の参学のみにあらず、求法ぐほう高流こうりゅう、仏法のなかに真実をねがはむ人、初心後心しょしんごしんをえらばず、凡人聖人ぼんにんしょうにんを論ぜず、仏祖のをしへにより、宗匠のみちをおうて、坐禅弁道すべしとすゝむ。」

 また(道元禅師が)目の当たりに偉大な宋の国において見たことは、いろいろな所の禅院はみな坐禅堂があり、500人600人および1,000人2,000人というような数の僧たちが修行できるようにしており日夜坐禅するようにすすめていた。坐禅堂の主人となる釈尊以来の真実・真理を伝える宗師に仏法の最も大事なところは何かを質問したところ、修行と大宇宙の真実・真理の実現・実証(悟り)は2つに分かれたものではないという答えであった。

 この故にこの宗師の門下で学ぶ者だけではなく、真実・真理の教えを求めている人、仏法の中に真実・真理を願っている人、これらの人は初めてだろうが、経験があろうが、凡人とか聖人とかのレッテルなど関係なく釈尊の教えにより師の指導の下坐禅し仏法を学ぶようにとすすめられている。

 繰り返し繰り返し、「坐禅という修行を続けていくと悟る」ということではない、坐禅は悟るための手段ではないとお書きになっている。

 坐禅した瞬間に大宇宙の真実・真理の実現・実証される。この身心が大宇宙の真実・真理と一体となるのだ。

 厳しい修行の結果ようやく悟るなんていうことではない。坐禅した瞬間なのだ。

 宗教を金儲けの道具にする奴らは、「厳しい修行をしなきゃ駄目だ」「もっとこういう修行をしろ」「修行が足りない」とかなんとか言ってあの手この手で金を巻き上げようとする。

 騙されてはいけない。坐禅だけしてればいい。ただ毎日毎日死ぬまで坐禅はやめてはいけない。でもただそれだけでいいのだ。

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