第59話 辦道話その四十八 仏教は唯一つ

 「しるべし、この禅宗の号は、神丹しんだん以東におこれり、竺乾じくけんにはきかず。はじめ達磨大師、嵩山すうざんの少林寺にして九年面壁くねんめんぺきのあひだ、道俗いまだ仏正法をしらず、坐禅をしゅうとする婆羅門ばらもんとなづけき。のち代々だいだいの諸祖、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家ぞくけは、実をしらず、ひたたけて坐禅宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡して、ただ禅宗といふなり。そのこころ、諸祖の広語こうごにあきらかなり。六度および三学の禅定ぜんじょうにならべていふべきにあらず。」

 知らなければいけない。この「禅宗」というような言い方は中国以東に起こったものでインドにはない。初めて達磨大師がインドから中国に来て嵩山の少林寺で9年間壁に向かって坐禅をされていたのだが、当時の出家者も在俗の人も真の仏法を知らなかったので達磨大師のことをもっぱら坐禅をするインドの僧と名付けたのである。達磨大師を継いだ代々の方々は皆坐禅を一生懸命にされた。それを見た愚かな世俗の人間は本当の仏法を知らないため、いい加減に坐禅宗と言ったのである。今の世では坐の言葉を略して禅宗と言ったりする。そういったことは仏と言われた方々の語録ではっきりわかる。達磨大師直系の坐禅と六度や三学の禅定と同列にして語ってはいけない。

 達磨大師は釈尊直系の真の仏教を伝えられた。仏教は一つしかないに決まっている。○宗、△宗、□宗なんていうふうに仏教が色々ある筈がない。だから仏教の中の「坐禅宗」「禅宗」というような言い方はあり得ない。

 こんなことを言ったらすべての宗派から袋叩きだろうなあ。けれどここにあるように道元禅師がそうお書きになっている。そして私はそれを信じている。

 本来仏教界できちんと議論があって然るべきだろうけど、大変なことになって、まともな議論にならないことは目に見えているから誰もやらないんだろうな。

 前回書いたように、経典は膨大にあり、仏教用語も膨大かつ難解だ。だから極々一部を切り取って「これが正しい」という人間が次々出てくる。

 詐欺師が専門知識が必要な分野で専門用語を駆使して人を騙すのとよく似ている。

 坐禅して正法眼蔵を読む。それだけでいいのだ。

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