09.曾(ひい)お祖母(ばあ)さまの秘密

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美しい夕陽を眺めながら唇を重ね、強く惹かれ合うふたり。

でも、天使像に隠された驚くべき秘密に、クロエは……。


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 クロエはうっとりと目を閉じた。硬い胸に強く引き寄せられ、たくましい腕に包まれる。背中に回された温かい両手が、感じやすい素肌を撫でた。

 ダレルのキスは、このうえなく優しかった。初めは軽く触れ合わせ、それからゆっくりと確かめるように唇を動かし、しっかり重ねる。クロエはいつの間にか唇を開き、ダレルを味わっていた。潮風のようにさわやかで、どこかなつかしいような……。

 二日前の短く衝動的なキスとはちがって、今度のキスは探索だった。ダレルが舌でクロエの唇をなぞってから、少しずつなかへと入ってきた。自分の舌になめらかな舌が触れると、背中にわななきが走った。

「あっ」クロエは思わず小さくあえぎ、ダレルの胸に体を押しつけた。その声に反応して、ダレルがキスを激しくした。舌と舌を絡め、なまめかしく撫でつける。片手が体のわきから上へとすべり、片方の胸を包み込んだ。親指が硬くなった先端をかすめたとたん、電気が走ったような気がした。

 はっと我に返り、ダレルの背中に回していた両腕の力をゆるめる。ダレルもそれに気づき、さっと胸から手を離して、顔を上げた。こちらの目をのぞき込むようにして、荒い息をついている。

 かっと頬が熱くなり、クロエは目を伏せた。横を向いて早口で言う。「そ、そうだわ。天使像のことよ。話してくれる約束でしょう」

 ダレルがこちらをじっと見つめているのがわかった。焼けつくような熱いまなざしで。

「長い話になる。食事をしながら話そう」

 ダレルがクルーズ船内のレストランへとクロエを導いた。


 そのころリッツァは、〈エーゲ海のかけら〉の店内で、コスタスが迎えにくるのを待っていた。母のタペストリーがかかっている店の奥をちらりと見る。

 あそこに、〝永遠の時をいだく天使〟という宝物が隠されている。

 あの日、リッツァはすべてを見ていた。クロエが秘密の扉から天使像を出して、ダレルに見せる場面を。

 姉とけんかをして店を飛び出したものの、言い過ぎたと気づいて戻ってきた。すると、店先でぶつかった男性がまだ店内にいた。姉と男性のあいだになにやら緊張した雰囲気が漂っていたので、そのまま声をかけずに眺めていたのだ。

 そして、びっくりするような話を聞いた。ママの形見。今の今まで、姉からは何も聞かされていなかった。どうして? わたしだって、ママの娘であることに変わりはないのに……。長女が受け継ぐ宝物だとしても、そのことを教えてくれたっていいはずだ。わたしが文句を言うとでも考えたのだろうか。そこまで子どもだと思っているの?

 そう、わたしは子どもだ。リッツァはため息をついた。

 二年半近く前に母が亡くなったとき、リッツァはどうしたらいいかわからなくなった。しばらく学校へも行かず、ベッドで泣いてばかりいた。クロエだって同じくらい、もしかするとリッツァ以上に、悲しんでいたはずだ。でも姉は、二週間後には店を再開して働き始めた。そして立派に店を維持してきた。それだけではなく、リッツァを励まし、学校に戻らせてくれた。意外なことに、リッツァは勉強に楽しみを見出した。特に数学が好きで、常にトップクラスの成績を収めるようになった。なぜなのかはわからないが、むずかしい問題に取り組み、それを解くことで、心が軽くなるような気がする。ほんとうは姉が言うように、大学へ進みたい気持ちもあった。

 でも、このままではクロエに頼ってばかりだ。姉を犠牲にしてまで、自分の希望をかなえていいものなの? わからない。心を決めることができない。だから、毎晩逃げるかのように、コスタスたちと夜遊びをしてしまう。たいして楽しいと思っていないくせに。そう、最近では幼なじみたちと話が合わない。みんなも、うすうすそのことには気づいている……。

 リッツァは母のタペストリーをめくってみた。四角い切れ込みと、小さな鍵穴。秘密の扉をあけて、天使像を見てみたい。鍵はおそらく母の部屋にあるのだろう。しかし、母の部屋に入って引き出しを探り回る気にはなれない。ここ数日、何度も姉にきいてみようと考えたが、あまりにも忙しそうで言い出せなかった。

 それに、あのダレルという人。天使像を買い取ろうとして、しつこくクロエにつきまとっているのだろうか。クロエはあの人に惹かれているみたいだけど……。

「よう、お待たせ。何見てるんだ?」

 いつの間にか、コスタスが店のなかに入ってきていた。リッツァは急いでタペストリーを元に戻した。「な、なんでもないわ」

「その裏の壁になんかあるのか? じっと見てたじゃないか。どれどれ」止める間もなく、コスタスがタペストリーをめくった。「へえ、秘密の扉か? 何が入ってるんだい?」

「わからないわ。たまたまめくってみただけで……」

「あけてみようぜ」コスタスがにやりと笑って、ポケットから釣り針を出した。

「だ、だめよ、コスタス」

「なんでさ? 何が入ってるか気になるだろ?」

 リッツァはため息をついて、話し始めた。「何が入ってるかはわかってるわ。じつはね……」


 船内のこぢんまりしたレストランは落ち着いた雰囲気で、とても静かだった。窓から暗い海とちらちらと揺れる船の明かりが見える。テーブルの上のろうそくが淡い光を投げかけ、向かいに座った男性の目を不思議な色に輝かせた。クロエはしばしうっとりとその瞳に見入っていた。

「きょうはフランスの高級ワインよりも、レツィーナの気分だな」ダレルがワインリストをざっと眺めながら言った。

「ええ。わたしも好きよ」

 ダレルがウエイターに松脂入りのギリシャワインを注文した。

「料理は先に注文してある。メインは子羊のローストだが、いいかな?」ダレルがきいたので、クロエはうなずいた。

 ほどなくワインが運ばれてきて、ふたつのグラスに注がれた。ダレルがグラスを持ち上げ、低く穏やかな声で言った。

「麗しき天使との出会いに乾杯」

 クロエもグラスを手に取り、ダレルのグラスに触れ合わせた。黄味がかった透明の液体が揺れて、ほのかなろうそくの明かりにきらりと光った。

「あなたのお目当ての天使は、店で留守番中だけど。さあ、〝永遠の時をいだく天使〟のことを知ったいきさつを話して」

 ダレルがふうっと大きくため息をついてから言った。「このあいだちらりと話したとおり、今回のことは仕事ではないんだ。まったくの個人的な目的で、あの天使像を手に入れたいと思っている」

「ご家族と関係があるって言ったわよね。どういうこと?」

 ダレルは語り始めた。「話は、ぼくの曾祖父の時代にさかのぼるんだ――」

 一九二〇年代前半。海運業で成功したダレルの曾祖父、フレデリック・プレストンは、商用でギリシャを訪れた。ある日、王室が開いた盛大なパーティーに招かれ、クリスティアナという美しい女性と出会った。クリスティアナは王家の親戚筋である名門一家の娘で、まだほんの十七歳だった。ふたりはひと目で恋に落ち、半年後には結婚を考えるまでになった。しかし、クリスティアナの家には跡継ぎの息子がおらず、すでに父親を亡くしていた彼女が、すぐにでも婿を迎えて家を継がなければならなかった。

「当時は、王家とつながりのある娘が外国人と結婚するなど、言語道断だった。たとえ成功した実業家でもね。曾祖父も、アメリカ国籍を捨ててギリシャの家に婿入りするわけにはいかなかった」いったん言葉を切る。

 彩り鮮やかなグリークサラダと、揚げたてのカラマリが運ばれてきた。ダレルがリング状の烏賊のフライをフォークで刺して、ひと口かじった。さくっ、という軽快な音がした。

「ふたりでアメリカへ行くという方法もあったかもしれない。もちろんフレデリックは、何度も彼女を説得しただろう。でもクリスティアナが去れば、家も終わりだ。それ以上に、夫を亡くして途方に暮れている母と、幼い妹たちを見捨てられなかった」

「ふたりは別れてしまったの?」クロエはサラダのオリーブをつつきながらきいた。いつの間にかダレルの話に夢中になり、ほとんど食べることも忘れていた。

 ダレルがうなずいた。「フレデリックがギリシャを去るとき、クリスティアナは、亡き父から受け継いだいちばん大切な宝物の一部を、こっそりフレデリックに渡した。『いつかまた、必ずひとつになれると信じています』と言って」

 その後まもなくクリスティアナは、とある貴族の次男を婿に迎えた。そのあとも、フレデリックとはときどき手紙のやり取りをしていた。しかし、一九二〇年代半ば、ギリシャに政変が起こった。クーデターによって王政が倒され、クリスティアナの家も財産と領地を没収された。連絡は途絶えた。もう二度と、クリスティアナには会えないだろう。フレデリックもとうとうあきらめ、別の相手と結婚した。そして数年後、アメリカを大恐慌が襲い、フレデリックもおおかたの財産を失ってしまった。生きるだけで精いっぱいの日々。ギリシャでの恋は、遠い過去の出来事になった。手もとには、あの日クリスティアナに渡された宝物の一部だけが残った――。

「クリスティアナ……」

「聞き覚えのある名前かい? ぼくの曾祖父と恋に落ちた娘の名は、クリスティアナ・デュカキス。きみの曾お祖母さんだ」

 ダレルがひと息ついて、クロエの目をじっとのぞき込んだ。それから、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てている子羊の肉を手際よくナイフで切った。

 クロエは目を丸くしてダレルを見つめ返すばかりだった。「ぜんぜん知らなかったわ。母は、そんな話ひとことも……」

「きみの曾お祖母さんが誰にも話さなかったんだろう。なにしろ、大切な家宝を無断でアメリカ人の男に渡してしまったんだからね」

「その宝物って……」

「そう、〝永遠の時をいだく天使〟のことだよ。正確にはその一部だけど」

「〝一部〟ってどういうこと? あの天使像には付属品があるの?」

 ダレルが片手を上げて、ちょっと待ってというしぐさをし、肉をほおばった。それを見て、クロエも香ばしく焼き上がった肉を少しだけ口に運んだ。

「あの天使像は、イースターエッグをかたどった美しいケースに収まる〝サプライズ〟として作られたものなんだ。曾祖父は外側の〝卵〟の部分を受け取った」

 クロエはナイフとフォークを持った手をぴたりと止めた。

 〝卵〟と〝サプライズ〟

 〝いつの日か、失われた半身が現れ、止まった時が動き出すとともに、永遠の幸福が約束されるでしょう〟

 失われた半身。

「その〝卵〟、どこにあるの? あなたが持っているの?」クロエは勢い込んで尋ねた。

 ダレルが落ち着いた声で説明した。「曾祖父は、大恐慌で財産を失っても、それだけは手放さなかった。でもその息子の祖父は、あまりの貧しさに家族を養えなくなって、やむなく一度それを売ってしまった。祖父はなんとか買い戻すために懸命に働いたよ。でも、もう海運業ではやっていけなかった。事業が軌道に乗ってきたのは、父の代になってからだ。アンティーク家具の輸入業がうまくいき始めてね。五年前からぼくも加わって、事業を拡大することもでき、なんとか成功といえるところまでたどり着いたんだ。そしてようやく、〝卵〟を二百万ドルで買い戻すことができた」

 二百万ドル!

 クロエは息をのんだ。

「なんといっても、曾祖父の遺言があったからね。『何が起こっても、〝卵〟だけは手放してはならない』と。でも、曾祖父の遺言はそれだけじゃなかった」

 ダレルがレツィーナをひと口飲んでから、ぐっと身を乗り出した。

「『いつの日か、デュカキス家に伝わる〝永遠の時をいだく天使〟を見つけ出して買い取り、宝物をひとつにせよ』曾祖父はそう言い残した。ぼくの代になって、ようやくそれが可能になったんだ。仕事の合間にデュカキス家について調べ、ようやくここにたどり着いた。天使像も見つけた。曾祖父の願いをかなえてあげたいんだ。なんなら〝卵〟と同じ二百万ドル、いや、それ以上出してもかまわない。それだけの価値がある宝物だよ。どうか、ぼくに〝永遠の時をいだく天使〟を売ってくれないだろうか?」

 クロエはあまりの驚きに言葉を失っていた。二百万ドル。それだけあれば、リッツァの学費をまかなえるところか、一生楽に暮らせるかもしれない……。

 しかしすぐに思い直した。いいえ、売るなんてとんでもない。わたしのほうにも、〝決して手放さないで〟という母の遺言がある。

「売れないわ」クロエは小さな声で、それでもきっぱりと答えた。

 ダレルが静かにうなずいてから言った。「きみのほうにも、天使像に特別な思い入れがあることはわかっている。今すぐ返事をしなくてもいい。よく考えてみてくれ」

 クロエはただ呆然としていた。

 食事が終わると、クルーズ船はゆっくり港へと戻り始めた。

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