07.オールドアゴラでつまずいて
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自分の仕事にダレルが口を出したことが気に入らないクロエ。
しかも、半ば強引にカフェに連れていかれて……。
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クロエは大通りの信号を渡って、歩道を急ぎ足で歩いた。しかし、ダレルが道の反対側から車のあいだを抜け、あっという間に追いついてきた。
「待てよ」後ろから、ぐいっと腕をつかむ。「せっかくアテネの街で運命的に出会ったのに、ずいぶんそっけないじゃないか」
クロエは振り返り、静かにダレルの手から自分の腕を引き離した。「さっきはありがとう。あなたのおかげで、予算内に収めることができたわ。でも、あれはわたしの仕事であって、あなたには関係ないのよ。口を出してほしくなかったわ」
ダレルが少し考え込むような様子をしてから、ゆっくり答えた。「長年のつき合いで仕事を続けていると、本人たちには見えないことがいろいろあると思うんだ。お互いが少しずつ変わっていくなかで、条件を見直すのも必要なことだからな」
「わたしにはわたしのやりかたがあるのよ。見ず知らずのあなたに手を貸してもらう必要はないわ。今までずっと、ひとりでやってきたんだから」思わずどなるように言ってしまった。
ダレルはそれにはかまわず、穏やかな低い声で言った。「いきなり口を出したのはすまなかった。お詫びに何かおごるよ。昼ご飯、まだだろう?」
クロエはぎゅっと唇を結んで相手を見た。「いいえ、もう食べたわ」
「それじゃ、コーヒーでも。さあ」背中に軽く手を当てて促す。
クロエはしかたなく歩き出した。「あなたって、ほんとうに強引な人ね」
「きみこそ、思った以上に頑固な人だ」ダレルがからかうような口調で言って、こぢんまりした落ち着いたカフェにクロエを導いた。
店に入ると、ダレルは窓際の席の椅子を引いてクロエを座らせ、店員にさっと合図した。「こちらの女性にコーヒーを。ぼくはちょっと用事をすませてくる」それからクロエに向き直り、ごく当たり前のことのように言った。「トニとの仕事の件で、一本ニューヨークに電話する必要があるんだ。無粋な話なんで、向こうで話してくる」クロエが何か答える間もなく、右手をさっと上げ、すたすたと店の外へ出る。
クロエは少しあきれて、その後ろ姿を見送った。なんて自分勝手なのかしら。何もかも、自分のペースで進めようとして……。簡単にそのペースに巻き込まれてしまうのが悔しかった。
クロエはため息をついて、大きな窓の外を見た。
小高い丘の上にあるこのカフェからは、古代アテネの中心地だったオールドアゴラが見渡せた。運ばれてきたコーヒーをひと口飲み、石造りの朽ちかけた神殿と緑の木々を眺める。
先ほど〈アンティーカ・バナシス〉にダレルが現れたときは、ほんとうにびっくりした。出会ってまだ数日しかたっていないのに、あの人はあらゆる場所に入り込んでくるみたいだ。そう、どこよりも、わたしの頭のなかに。このところなぜだか、彼の顔ばかりが頭に浮かんで、落ち着かない気持ちだった。やっと仕事に集中できたと思ったら、そこへひょっこり現れて、いろいろ意見を言うなんて……。これはわたしの仕事。母が亡くなってから、どうにかここまでやってきた。
それでも、ダレルのおかげで条件が改善されたのはたしかだ。もっと感謝しなくてはいけなかったのかもしれない……。
ぼんやり思いにふけっていると、不意に後ろから声をかけられた。「きみ、かわいいね。そこ、座っていいかな?」
はっと振り向くと、学生風の若い男性が、どこかしら引きつったにやにや笑いを浮かべて立っていた。襟もとまで伸びた黒い髪を片手でかきあげながら、早口でまくし立てる。「ぼく、ロンドンから来たんだけど、ギリシャをひとり旅してるんだよね。きみ、このへんの人? もし暇だったら、案内とかしてくれるとうれしいんだけどな。貧乏旅行だけど、コーヒーくらいおごるよ」
クロエがなんとも答えないうちに、向かいの椅子の背に手をかけて、座り込もうとする。
「あの、わたし……」クロエが言いかけたところで、背後から低く穏やかな声がした。
「観光案内所ならテッシオン駅のそばにあったよ。そこで相談したらどうかな?」
「ダレル!」ほっとした気持ちが広がった。
「クロエ、お待たせ」ダレルはウインクして、背中に回していた一方の手をさっと差し出した。ピンク色の薔薇のかわいらしい花束が目の前に現れた。
ぽかんと口をあけているイギリス人学生に向かって、ダレルが言った。「悪いね。こちらの女性は、ぼくと待ち合わせをしていたんだ」
「そっ、それは失礼」学生は手の甲でぐいっと汗をぬぐい、そそくさと立ち去った。
「コーヒー一杯できみに観光案内させようとは、大胆なやつだな」ダレルがあきれ顔で言ったので、クロエは思わずくすりと笑った。
ダレルが目を合わせて微笑んだ。「待たせてすまない」花束をもう一度差し出す。
クロエはためらいがちに受け取って、じっと花を見つめた。「ありがとう。とてもきれいね」先ほどまでの苛立ちが
ダレルが席に着き、気さくな調子で言った。「ランチは食べたんだっけ? それじゃ何かデザートをおごるよ」
クロエは明るく答えた。「ここはガトーショコラがおいしいのよ」
「それじゃ、それとコーヒーのおかわりを。ぼくにはサンドイッチとペリエをね」ダレルが店員に注文した。それから、こちらに顔を向け、じっと目をのぞき込んだ。
クロエはどぎまぎして、思わずまつげを伏せた。
「店では余計な口を挟んですまなかった。きみのデザイン画があまりにもすばらしくて、驚いたんだ」
クロエは顔を上げて微笑んだ。「ありがとう。まだまだ勉強不足だけれど、そう言ってもらえて素直にうれしいわ」それから、つぶやくような声でつけ加えた。「それに、テオが認めてくれたのもうれしかった」
ダレルがにっこり笑って言った。「機嫌を直してくれてよかった。きみを怒らせるのは二度めだからね」
「わたしも、さっきはどなったりしてごめんなさい。言いすぎたわ」
デザートが運ばれてきた。しっとりしたガトーショコラにバニラアイスが添えられ、ブルーベリーの実と苺のソースで飾られている。ひと口食べると口のなかでとろけて、濃厚な甘さとほんのりとしたラム酒の香りが広がった。
ダレルが、牛肉と野菜がたっぷり挟まれた大きなピタパンにかぶりつき、うなずいてみせた。「うん、なかなかいける」
きのうのランチのときも思ったが、この人はほんとうにおいしそうにものを食べる。見ていると、こちらまで幸せになってくるような……。じっと視線を注いでいると、ダレルが不思議そうな表情をした。「顔にソースでもくっついてるかい?」
「い、いえ……」クロエはさっと目をそらした。顔が熱くなり、なんだか頭がぼうっとする。ガトーショコラのラム酒に酔ってしまったかのようだ。急いで別の話題を探した。
「あなたが〈アンティーカ・バナシス〉と取引をしていたなんて、驚いたわ。あの店には、祖母の代からお世話になっているのよ。〈エーゲ海のかけら〉を開店できたのも、先代のご主人とトニたちのおかげなの」
「そうだったのか。デザインの勉強はどこでしたんだい?」
「学校できちんと習ったことはないわ。最初は見よう見まねで、テオに少しずつ教わったの。あとはデザインの本を見て、自分で勉強したり」
「それであのレベルまで達したのかい? それはすごいな」ダレルがすっかり感心したように言ったので、クロエはうれしくなってまた頬を赤らめた。
さっきまであんなに怒っていたのに、どうしてかしら。
ダレルが窓の外を見渡した。「こんな景色を見ながらサンドイッチを食べられるとは、やはりアテネは特別な街だな」
「オールドアゴラよ。古代アテネの中心地。敷地内を散策できるわ。このあと行ってみましょうか?」いつの間にかそう誘っていた。
「いいね」
ふたりは席を立って、カフェを出た。クロエは手にした小さな薔薇の花束を、そっと顔に近づけた。甘く高貴な香りがした。
坂を下って少し歩くと、濃い緑の木々が生い茂る広々とした敷地が見え、巨大な古代の門がふたりを出迎えた。すぐ向こうに、アクロポリスの丘が見える。丘の上の壮大なパルテノン神殿には、観光客が群がっていた。それに比べると、オールドアゴラには人が少なく、みんなゆっくり歩いて思い思いに遺跡を眺めている。
「へえ、アテネの街はあわただしいイメージだったけど、ここはのんびりしていていいな」
「ええ、わたしも好きで、たまにひとりで散歩するのよ。夏のあいだはめったに来ないけど」
ふたりはしばらく黙ったまま、並んで歩いた。陽射しは強いが、ときどき涼しい風が木々のあいだを吹き抜ける。ダレルはちらりと視線を横に向けて、クロエの姿を見た。上品なすみれ色のサンドレスが陽光に映え、すらりとした姿を引き立てている。思わずどきりとしてしまうほど美しい。
「さっき、お祖母さまの代から〈アンティーカ・バナシス〉に世話になっていると言ったね。きみたち一家は、ずっとあの島で暮らしているのかい?」
クロエが少し間を置いてから答えた。「曾祖母の代からあの島で暮らしているわ。でも、わたしとリッツァはカリフォルニアで生まれたの。このあいだも話したけれど、父はアメリカ人なのよ。わたしが九歳のときに母が父と離婚して、サフォロス島に帰ってきたの」
「なるほど」
ふたりは、巨大な円柱がそびえるヘファイストス神殿の前までやってきた。
「堂々たる神殿だね」
「パルテノン神殿よりも古いと言われているわ。でもどこの神殿よりも保存状態がいいのよ」
ダレルは屋根の下の繊細な彫刻をじっくり眺めてから言った。「それで、きみのお祖母さまはどうして〈アンティーカ・バナシス〉に世話になっていたんだい?」
クロエが探るような目をこちらに向けてから答えた。「持っていた骨董品をいくつか売ったのよ」
「〝永遠の時をいだく天使〟以外の骨董品を?」
「あなたはわたしたちの家族のことを、どこまで知っているの?」
「デュカキス家が伯爵家だったことは知っている。政変で領地を奪われたことも」
その言葉にクロエがはっとして、石段を下りる途中で立ち止まった。「天使像のことは、どうして知ったの?」
ダレルは少し間を置いてから答えた。「じつは、今回のことは仕事ではないんだ。ぼくの家族と関係がある」
「あなたの家族……?」クロエが目を丸くしてこちらを見つめたまま、また歩き出した。ところが、石段の一部が欠けていたらしく、足を踏み外して、すぐ下にいたダレルのほうへ倒れ込んできた。
「おっと」とっさに両手を差し出して、抱き留める。右肩にクロエが頬を押しつける形になった。両手で支えた細い両腕の素肌が、柔らかく温かい。甘く心地よい香りがする。
「ご、ごめんなさい」クロエがあわてて身を引こうとしたが、ダレルは手を離さなかった。そのまま両腕を背中に回してぐっと抱き締めた。
「ダレル……」戸惑いに身を固くしていたクロエが、ゆっくり力を抜いた。
ダレルは絹のような手触りの髪をそっと撫でてから、クロエの両肩に手を置き、まっすぐ顔を見つめた。紅潮した頬、潤んだ瞳、手にした薔薇と同じ色の唇。
その唇に自分の唇を重ねた。そよ風に乗って、薔薇の香りがあたりに漂った。唇の柔らかさに、うっとりと浸る。
クロエがあいているほうの手をダレルの背に当てた。さらに引き寄せようとしたところで、不意にどこかの教会の鐘が、大きな音で鳴り響いた。
クロエがはっとして身を引いた。今度はダレルも手を離した。ふたりは少しだけ息を弾ませ、戸惑いながら互いを見つめていた。あたりにひとけはなかったが、誰がやってきてもおかしくはない。
「い、今、何時かしら?」クロエがそわそわと尋ねた。
ダレルは腕時計で時間を確かめた。「四時ちょうどだ。さっきの鐘はそれを知らせたらしいね」
「たいへん。もう行かなくちゃ。フェリーに間に合わなくなるわ」
ダレルは出口のほうへクロエを導きながら言った。「ぼくといっしょに飛行機で帰ろう。飛行機なら三十分で着く。早く店に戻りたいだろう」
クロエがぎゅっと唇を結んだ。「そんなお金は……」
「もちろんこちらが払うよ。秘書に電話して、すぐにチケットを手配させよう」
「この件は、仕事とは関係ないんじゃなかったの?」
ダレルはにやりとして答えた。「そのへんの事情を、もっと詳しく聞きたいだろう?」
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