04.猫たちとお行儀の悪い紳士
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ダレルからランチに誘われ、つい応じてしまったクロエ。
海を見下ろすレストランで向き合ったふたりは……。
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「ひゃっほう!」
コスタスがバイクのハンドルをわざと左右にひねって蛇行した。
後ろにつかまっていたリッツァは、思わず叫んだ。「ちょっとコスタス、やめてよ」
「なんでさ? 気持ちいいだろ?」
ふたりは海岸沿いの暗い道路を、仲間たちといっしょにバイクで飛ばしていた。
「気持ちよくないわ。危ないわよ」
コスタスは取り合わず、顔を後ろに振り向けて、エンジン音に負けない大声で言った。「カマリ・ビーチでひと泳ぎするかい?」
「わたしは、そんな気になれない」リッツァは答えた。
仲間のアリがバイクをぐっと寄せ、こちらに向かって叫んだ。「おれんとこの果樹園で、さくらんぼを食おうぜ」
アリの後ろに乗ったモナが応じた。「いいわね」
「よし、行くぞ」パウルがぶおんとエンジンをふかして、先頭に立った。
三台のバイクはわき道に入り、広々とした果樹園へ向かった。柵の横にバイクを停めると、五人は次々と柵を乗り越え、アリの案内で桜の木が立ち並ぶところまでやってきた。あたりは真っ暗だったが、生い茂る葉のあいだに、小さな丸い実がたくさんなっているのがわかった。五人は好きなだけさくらんぼを摘むと、草地に座り込んでそれを食べた。
「最高!」
「あーあ、ずっとこうしていたいな」モナが言った。
「こうしてればいいじゃん」アリが、さくらんぼの種をぷっと飛ばしてから言った。
「そうもいかないわよ。夏休みは、あと二週間ちょっとで終わりだもの」モナはリッツァと同じ、アテネの高校に通っている。「また学校かあ。うんざりだわ」
「学校なんかやめちまえばいいのに」パウルが、アリよりも遠くにさくらんぼの種を飛ばしてから言った。パウルはコスタスと同じように、高校へ行かずに漁師の見習いをしている。
「パパもママも、とりあえず卒業しとけって言うんだもの」モナが気のない返事をした。「花屋の娘が、どうして関数を勉強しなきゃならないのか、ぜんぜんわからないんだけどね」
「ほんとだな」アリがあきれたように言った。
コスタスが、さっきから黙ったままでいるリッツァをちらりと見て言った。「関数が好きな人間もいるのさ」
モナがぱっと振り向いて言った。「そうそう。リッツァは数学が得意よ。数学だけじゃないけどね。ねえ、大学には行くの、リッツァ?」
リッツァはあいまいに答えた。「たぶん、行かないと思う……まだ決めてないけど」
「大学ねえ。何を好きこのんで、高い金をかけて、頭が痛くなるようなむずかしいことを勉強しにいくのか、おれにはわからんな」パウルが言った。
「そりゃ、おまえにわかるはずないだろ。ま、ぼくにもだけどね」コスタスがおどけて言ったので、全員が笑い出した。
リッツァもいっしょに笑った。正直、あまりおもしろいとは思えなかったけれど。
大学。そのことで、またクロエとけんかしてしまった。ちゃんと考えなくてはいけないことはわかっている。でも、なぜだか素直になれない。
甘えてばかりいてはだめ。そう思って、姉に謝ろうと店に戻った。だけど店には男の人がいて……。
リッツァは、さくらんぼを食べながら、先ほど目にした光景を思い出した。何をどう考えればいいのか、まだよくわからなかった。
果樹園の木々はまるで幽霊のように頭上に生い茂り、暗がりはどこまでも広がっているように見えた。
わたしはどうしてここに座っているのだろう?
クロエは少しぼんやりしながらテーブルの向かいに座った男性を見つめた。
ミスター・プレストンは約束どおり、十二時に〈エーゲ海のかけら〉に迎えに来た。クロエは断るつもりだった。昨夜、不意をつかれて思わず誘いを受けてしまったけれど、忙しいから行けない、と。
しかし彼は、店に入ってくるといきなり言った。「〈アレクシリオ〉っていうレストランのテラス席を予約したんだ。ホテルのスタッフに薦められてね。すぐに行こう」
「あの、わたし、仕事が……」クロエは言いかけたが、ミスター・プレストンはさっと横を向いて、レジのところできょとんとしているリッツァを見た。
「こんにちは。初めまして、かな?」
クロエはあわてて紹介した。「リッツァ、こちらは、ミスター・ダレル・プレストン。ニューヨークからいらしたんですって。ミスター・プレストン、妹のリッツァよ」
「ダレルでいいよ。よろしく、リッツァ」彼が手を差し出すと、リッツァはおずおずとその手を握ってから言った。
「あの、夕べはごめんなさい。わたし、ドアのところであなたにぶつかったでしょ」
ダレルが笑いながら答えた。「ああ、いいんだよ。ぼんやりドアの外に立っていたぼくのほうが悪い」
リッツァが少し口もとをゆるめた。
「一時間ほど、お姉さんを借りてもいいかな? だいじょうぶ、ニューヨークへさらっていったりはしない」
リッツァが肩をすくめて答えた。「どうぞ。お昼時はおみやげ屋は暇だからだいじょうぶよ。いってらっしゃい」
妹にそう言われては、断るに断れない。結局クロエはダレルに導かれるまま、海を見下ろすテラスのあるレストラン〈アレクシリオ〉にやってきた。広々とした開放的なテラスには、大きな白いパラソルと、水色の清潔なクロスがかかったテーブルがずらりと並ぶ。すでに昼食を楽しむ人たちでかなり混み合っているが、海にいちばん近い端のテーブル席は少し離れた一画にあり、静かで快適だった。
ダレルがてきぱきと料理を注文してから、にっこりと微笑みかけた。白い歯が真昼の陽射しにきらりと光る。
すぐに飲み物が運ばれてきた。ダレルにはギリシャのビール〈ミソス〉、クロエにはレモネード。ダレルが緑色の瓶からグラスにビールを注いだ。
「今後ともよろしく、クロエ」グラスを持ち上げて言う。
クロエもレモネードのグラスを手にして、相手のグラスにかちりと合わせた。
不思議な人だ。ひどく強引で、こちらの都合などおかまいなしにどんどんものごとを進めてしまう。でも、それがとても自然に感じられる。仕事のときも、こんなふうにすぐさま相手を自分のペースに巻き込んでしまうのかしら。まるでずっと前からの知り合いのように、気さくな笑みを浮かべて……。
クロエははっとして、小さく咳払いした。今だって彼は仕事中なのよ。わたしは交渉相手なんだわ。気を引き締めなくちゃ。
「ミスター・プレストン……」
「ダレルだよ」
「ダレル、ギリシャの島は初めて? それともお友だちの豪華なクルーザーで何度もいらしてるのかしら?」
ダレルがにやりと笑って答えた。「いや、ピーター……あの船の持ち主は、大手観光会社の重役で、それこそ飽きるほど地中海クルーズを経験しているだろうけどね。ぼくはアテネには仕事で何度か来ていて、ついでにクレタ島の観光をしたことはあるけど、それだけかな。ここは初めてだ。のんびりしていて、とても美しい島だね」
「ええ。クレタ島みたいに立派な遺跡はないけれど、羽根を伸ばすにはいいところよ」
「でもこの島は、伝説のアトランティス大陸じゃないかとも言われてるんだろう?」
「ふふ、そういう説もあるみたいね。アトロキア遺跡では、何枚かフレスコ画も見つかっているわ」
魚介のグリルとサフランライスが豪華に盛りつけられた皿が運ばれてきた。ダレルが大きな海老をナイフで切って、ひと口ほおばった。「うん、うまい」
クロエもこんがりと焼き上がった白身魚をひと切れ口に運んだ。彼の言うとおり、とてもおいしかった。昼からこんな贅沢をすることはめったにないが、ここはクロエもお気に入りのレストランだった。
そのとき、一匹の白い猫が、テーブルの下にやってきた。ダレルがふとそちらに目をやり、海老のしっぽを放ってやった。猫はかりかりと音を立てて、おいしそうに食べ始めた。
とたんに、低い壁の向こうからわらわらと猫が集まってきて、テーブルを取り囲んだ。
ダレルが少し困った顔をして、猫たちを見回した。「全員に配ったら、ぼくの食べるぶんがなくなりそうだな」
クロエはくすくす笑った。「甘やかしちゃだめよ。その子たちは漁師にも、たくさんごちそうをもらってるんだから」
「そういえば、港でも猫を見たな」
「この島には、こういう猫たちがいっぱいいて、みんなで育ててるのよ。気前のいい漁師や、あなたみたいな優しい観光客には事欠かないから安心して」
「でもここに集まった連中は、今にもテーブルにのぼってきそうだ」
「だいじょうぶ。毅然とした態度でいれば、のぼってくることはないわ。この子たちも、そのへんはちゃんと心得てるから」
クロエがさっと鋭い視線を走らせると、猫たちはその場に行儀よく座り込んだ。
ダレルが楽しそうに目を躍らせて言った。「頼もしいね。きみがそばにいれば、猫たちに襲われることもなさそうだ」
ふたりは食事をしながら、サフォロス島で見つかった土器やフレスコ画についてひとしきり話した。
クロエはときどき猫たちを眺め渡して、おとなしくしているよう目だけで言い聞かせた。ところがダレルは、クロエが話に夢中になっているときを狙って、さりげなく食べ物のかけらを下に落としていた。しかも、猫たちが均等に分け前をもらえるよう、左右さまざまな角度に手を動かして。
クロエはくすりと笑った。「猫たちよりあなたのほうがお行儀が悪いみたいね。そんなに食べこぼすなんて」
ダレルが一瞬決まり悪そうな顔をしてから、白い歯をきらりと光らせて笑った。「レディの前で申し訳ない。ふだんのテーブルマナーは、もう少しましなんだけどね」
「猫が好きなの?」
「父と母がラグドールを飼っていてね。実家ではぼくより地位が高いのさ。だからつい、猫の意向を優先してしまうんだ」ダレルがわざと悲しげな表情で言ったので、クロエは声をあげて笑ってしまった。
ダレルがウェイトレスに食後のコーヒーを注文し、真顔に戻って言った。「お母さまが亡くなったのは二年半前と言ったかな? お父さまはどちらに?」
「父はアメリカ人で、たぶん今もアメリカにいるわ。母とは十五年前に離婚したの」クロエは簡潔に答えた。
「それじゃ、お母さまが亡くなってからはリッツァとふたりきりで?」
「ええ。アテネに叔母夫婦が住んでいて、妹はふだんはそこから高校に通っているけれど、家計についてはなんとか迷惑はかけずにふたりでやっているわ」
「立派なものだ。昨夜はびっくりしたけど、リッツァはかわいくていい子じゃないか。きみによく似ている」
ダレルが優しい目をして言ったので、クロエは思わず頬を赤らめた。運ばれてきたコーヒーをひと口飲む。
「夕べは驚かせてごめんなさい。わたしもいけないのよ。妹を怒らせてしまって」
「大学のことを、何か言っていたね」
クロエは唇をかんだ。「ええ。わたしが進学するようにしつこく言うから、ときどきあの子が我慢できなくなって……」
「妹さんは進学したくないのかい?」
クロエは少しためらってから答えた。「そう言っているけれど、本心はちがうと思うの。リッツァは昔から成績がよくて、勉強が好きなのよ。あの子なら、アテネでいちばんいい大学に、いいえ、それこそアメリカでだって一流の大学に入れると思う。もちろんアメリカに送り出せるお金なんてないけれど……」
「リッツァは家計の心配をしているんだね?」
クロエは目の前に座った男性の顔をじっと見つめた。夕べ会ったばかりの人に、どうしてこんな話をしているのだろう。でも自信ありげな頼もしい口調で質問されると、自然に答えが口から出てきてしまう。灰色がかった緑色の目には、理解と思いやりがあった。
「リッツァは、自分のためにわたしが犠牲になって働いてると思い込んでいるの。そんなことないのに。わたしは母から引き継いだあのお店を誇りに思っているし、仕事にもやりがいを感じてるわ」クロエは顔を上げてきっぱりと言った。
ダレルはしばらく黙ってじっとこちらを見つめ、コーヒーを飲んでいた。
クロエは続けた。「生活費とあの子の学費を稼ぐのはたしかにたいへんだけど、お店もうまくいっているし、なんとかなると思うわ。あとはリッツァをうまく説得するだけね」
ダレルがコーヒーカップをソーサーに置いてから、テーブルにひじをつき、ぐっと身を乗り出して言った。「もしぼくが、生活費と学費をじゅうぶんにまかなえるだけの金額で、あの天使像を買い取ると言ったら?」
クロエが一瞬目を丸くしてから、みるみる警戒の表情になった。
ダレルにとっては予想どおりの反応だった。簡単に説得できるような女性ではない。まあ、それでこそやりがいがあるというものだ。
「お断りします」
「すぐに返事をしなくてもいい。じっくり考えてみてほしい。きみとリッツァにとって、悪い話ではないと思うよ。亡くなったお母さまを安心させるという意味でも」
クロエがかたくなに唇をぎゅっと結んでから言った。「わたしもう、店に戻らないと」
「そうか。送っていこう」ダレルはすばやく会計をすませて立ち上がった。
ふたりはしばらく黙って坂道を下っていった。人通りの少ない入り組んだ路地に差しかかったところで、クロエがふと立ち止まった。横の低い壁の上を、先ほどの白い猫が歩いている。
「ニョッキ、ついてきたの? もうごちそうはないわよ」クロエが壁のほうに歩み寄って気さくに話しかけた。猫が立ち止まって顔を向け、にゃあ、とひと声鳴いた。
ダレルはクロエの背後に歩み寄った。「その猫は、ニョッキっていうのかい?」
クロエが猫の顎の下を人差し指でそっと撫でながら答えた。「わたしが勝手につけた名前よ。白くてころっとしてて、かわいいでしょ」
ダレルはなぜか、クロエの後ろ姿に見入っていた。すらりと伸びた背中に垂れかかるつややかな黒髪。華奢な白い腕。不意に胸に熱いものを感じて、いつのまにか肩に腕を回していた。そのままこちらを向かせて、ぐっと引き寄せる。クロエの頬が、木綿のシャツの胸に押しつけられた。
クロエが小さく息をのんだ。ダレルの腕に両手を当て、ぐいっと押しやるまでのあいだに、一秒、いや二秒くらい間があった気がした。
「あなたって、ほんとうに強引な人ね。そうやって不意をついて、今度は天使像を売らせようというの? もうその手には乗らないわ」クロエは頬を赤らめながらもきびしい表情で言ってから、走り去った。
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