第31話 失われた記憶 Lost Memory
「タク、ちょっと、大丈夫?」
居間のソファで眠りこんでいた匠は、貴美に揺すられて目を覚ました。頭がぼうっとしてやけに眠気が強い。
「起こしちゃってゴメンね。でもまだ七時よ。シャワーでも浴びてきたら?食事も用意するから」
貴美は弟の顔を覗きこんだ。いつもならそのまま放って置いただろう。眠いなら眠ればいい。脳と身体が休みたがっているのだし、お腹が空いてないなら、無理に食べなくても大丈夫だ。
けれども、匠の様子があのフィールドトリップの日にそっくりなのが気になり、揺り起こさずにはいられなかった。
「タク、今日は木村真弓とデートしたんでしょう?どうだった?」
「あ~、マユね。でも、デートじゃないよ。昼前にメールが来て、ドームの外縁まで行った。都市工学の勉強にドームの支柱を見学したいって・・・」
匠はアレっと思った。待ち合わせ場所まで行ったのは覚えているのだが、その後の出来事をまるで思い出せないのである。
「彼女、勉強熱心なのね~。小田君と気が合いそうね」
貴美の言葉に匠はうなずいて言った。
「小田のやつ、自分のこととなるとやたらシャイなんだよ・・・ともかく、眠気覚ましにシャワー浴びてくるよ」
匠は眠い目をこすりこすり、ソファから立ち上がった。
シャワーを浴びているうちに、眠気はいくらか薄らいだが、あの空き地に着いた後の記憶はきれいさっぱり消えている。
一体全体どうなってるのだろう?
匠はひどく不安になった。
フィールドトリップの後と似ているけれど、今回は完全に記憶が空白だ。あの時も、帰ってくるなり眠りこけてしまったが、曖昧だったのは帰路につく前の一部の記憶だけだった・・・
シャワーを浴びた後、メールの履歴を見て不安は一段と
昼前に友人たちと交わしたメールのやりとりは、記憶している通りちゃんと残っているのに・・・
もしや汚染地帯で高い放射線を浴びた影響だろうか?
不安になった匠は、夕食の食卓に着くやさっそく貴美に尋ねた。
「カミ、この間のカウンセリングと検査、先生は正常だって言ってたけど、何か聞いてない?」
すると、貴美は二,三度、瞬きして真顔で言った。
「大丈夫よ。脳にもまったく異常はないって。私もデータを見せてもらったから確かよ」
「そっか・・・じゃあ健康に問題ないんだね。安心したよ」
そう返事はしたものの、貴美の様子もいつもと違うと感じていた。この数週間、姉は何か隠していると気づいていた。
今だって検査は正常だったと教えてくれたのに、カウンセリングの件には触れなかった。医学的には脳は正常なのだから、別の原因があるはずなのに。でも、貴美が話したがらないのには必ずそれなりの理由があるはずだ・・・
匠はそれ以上追及しなかったが、今の状態を知らせておかないと、専門家の貴美も正確な判断ができない。消えた記憶とメールの件は伝えようと決めた。
食事をしながら話をすると、貴美はおし黙って話を聞いていた。匠が話し終わるとじっと目を見つめながら、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「タク、あなたも薄々感じているでしょう、あのフィールドトリップで何かが起きたって。それがきっかけで中世の夢を見たのは間違いないの。今日も何かが起きたんだと思う。信じられないでしょうけど、記憶がないのは誰かがあなたの記憶を消したからなの。眠気に襲われるのもそれが原因なの」
今度は匠が黙りこくって聞いていた。現代の脳科学技術では、特定の記憶を選んで消去するのは不可能と知っている。しかし、真剣な表情と静かな口調から、貴美が真実を語っていると直感したのである。
信じたのでも考えて納得したのでもない。ただわかったとしか言い様がない。こんなふうに直感的に確信する感覚は初めてだ。言葉を介さず、まるで心と心がひとつに繋がっているような不思議な感覚だった。
「あなたの人生にね、転機が訪れているの」
貴美の口調は穏やかだったが真剣そのものだった。
(あなただけでなく、皆の未来にも関わってくる話なの)
突拍子もないことをいきなり言われたのに、何の
(人類ってこと・・・?)
と、貴美は彫りの深い目を大きく見開いて息を呑んだ。口に手を当てて二、三度、軽く咳きこんで言った。
「・・・ごめんね、タク。喉がちょっといがらっぽいの。うがいをするわ、きっと花粉のせいね」
つと立ち上がって洗面所に向かった貴美は、しばらく経って食堂に戻って来た。
「ごめんなさい。それでね・・・」
話を続けようとした瞬間、貴美のIDから呼び出し音が鳴った。
「あらっ・・・職場からだわ!冷める前に食べてね!」
貴美はダイニングルームを出て、部屋に入りしばらく戻らなかった。守秘義務がある仕事のため、職場からの電話はいつも自室で受ける。異常にお腹も空いていた匠が先に夕食を食べていると、貴美が電話を終えて部屋から出て来た。
「大事な話の途中にごめんね。急用なの。ちょっと出かけてくるわ。夕食は帰ってから食べるわ。あなたはともかくよく眠ってね!」
そう言って匠の肩を軽く叩いた。
「話の続きはまた明日ね!ちょうど休暇で時間もたっぷりあるわ」
「わかった。先に食べて寝るよ。カミもお疲れ!」
よほど急いでいたと見えて、普段着のままそそくさと姉が出かけた後、匠は再び強烈な眠気に襲われた。食器を片付け歯を磨くと、耐えられずにそのままベッドに潜りこんだ。
「自分にいったい何が起きているんだろう?カミは転機って言ってたけど、何となくそんな気はしていた・・・」
そう思ったのを最後に、睡魔に打ち負かされてぐっすり眠りこんだが、しばらくして、玄関のチャイムで目が覚めた。
手首のIDブレスレットに触れて返事をした。
「スーパー○○○です。商品のお届けに参りました!」
女の声が答えた。
貴美はたいてい水曜日に食料品をまとめ買いする。急用がはいって伝えるのを忘れたらしいや・・・
寝ぼけ眼で玄関のドアを開けると、黒っぽい服を着た小柄な女性が立っていた。
フルフェイスのヘルメットに隠れて顔が見えない。いつも配達してくれる男性店員は、宅配会社の白い制服を着ているから、モニターで姿を確認していなかった匠は、少しばかり驚いた。
「受け取りにサインをお願いします」
店員は宅配ボックスを入り口に置くと、昔ながらの複写式の紙のレシートを差し出した。あまりにも眠かったため、明細も確認せずにサインすると、店員は礼を言ってそそくさと帰って行った。
冷蔵庫に保存する食料品を取り出した匠は、ボックスの一番下に折りたたんだ防水シートが入っているのに気づいた。あのスーパーは食品館なのに変だな、と思ったが、おおかた貴美が別途注文したのだろうと気にとめなかった。
異常な眠気が続いて、それ以上何もする気になれない。キッチンから部屋まで戻るのも億劫になりそのまま居間のソファーに横になった。
眠りに落ちる直前、匠は「あれっ?」と思った。
出がけに貴美に買い物を頼まれたのを思い出したのである。
スーパーに立ち寄るのを自分が忘れたのだろうか?それとも、立ち寄ったのに忘れたのか?
頭が混乱したが、強い眠気にもはや考える余裕もなくなっていた。そのままふっと思考が途絶えて、匠は深い眠りに落ちた。
そして、あの悪夢が再び凶暴な牙を剥いたのだった・・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます