第24話 春分 Spring Equinox

 シティ国際大学は二週間の春休みに入った。学生たちは帰省したり旅に出たりと一斉にシティを離れる。

 シティに残った匠は、遊び相手に事欠いていささか暇を持て余していた。

 脳心理研究所で処置を受けてから、あの夢はまったく見ていない。それどころか夢という夢はまったく見ずに爆睡しては、すっきり目覚める毎日が続いていた。体調も絶好調で、思いっきり身体を動かしたい衝動に駆られる。


 春分の日の今日は、午後からジムに直行した。中装防護服を着ても自由に動けるよう、前々からここでトレーニングを続けている。CMで見かける「VR負荷!運動せず自宅で筋力アップ!」バーチャルリアリティ・ヘッドセット®という手もあのだが、自然派の匠は筋トレ一本に絞っていた。

 と言っても、高重量トレーニングでオールアウトして、直後にタンパク質と糖質を大量に摂って筋肉隆々にする気などこれっぽちもない。腎臓や心臓や関節に負担がかかるし、だいたい、マッチョになりたいとは露ほども思っていなかった。


 ところが、このところ一日おきにジムに出かけては、オールアウト寸前までトレーニングしてしまう。それもフリーウェイトの方が気分的にしっくりくる。そこまでして頭を空っぽにするには、それなりの理由があった。

 姉の様子がおかしいからだ。

 貴美は相変わらず忙しい毎日を送っているが、家に戻ってもどこか上の空で何か考えこんでいるかと思えば、自室に引きこもって調べ物に熱中して、ろくすっぽ会話もできないのである。

 自分があのリアルな夢を見た日から、姉は何やら悩みごとを抱えこんだらしい。何度か様子を尋ねたのに、その度に話をはぐらかされた。

 どうして、話してくれないのだろう?

 匠は寂しくもあり、自分が無力だとも感じて、そのモヤモヤを発散しようとつい筋トレにしまうのだった。



 五クールをこなして丁寧にストレッチングをした匠は、マットの上に寝そべって心地よい疲労感に身を任せていた。そこへ通りすがった男が声を掛けた。

「飛騨乃さん、お疲れ。今日もリキ入ってたね!」

 先週このジムで知り合ったばかりで、今日もベンチプレスのスポットをしてくれた会社員だった。

 一回りほど年上だが物腰が柔らかく、匠を「飛騨乃さん」と呼んで対等に接してくれる。濃いあごひげを蓄えた顔はよく日焼けして、中肉中背なのにベンチプレスは150 Kgを挙げる。建築関係の仕事なのか、凄い人だな、と匠はたまげていた。


「あっ、中村さん、さっきはどうも!」

 匠が上半身を起こしてスポットの礼を言うと、男は気さくに笑った。

「いいよ、トレーナーも休日は手が空いてないからね、いつでも言って。じゃあ、お先に!」

 歩きながらスウェットのポケットを探って、テニスボールを取り出した。左右の手で交互に握りしめながらジムを出て行く。その度にボールがひしゃげるほど変形する。

 外へ出るとテニスボールを地面に繰り返しぶつけながら、駐車場へ向かってぶらぶら歩き出した。三連休の初日で駐車場は満車だった。駐輪スペースにも自転車とエアバイクやエアスクーターが所狭しと並んでいる。


 不意に、中村の手元が狂って、テニスボールが点々と転がり駐輪スペースに紛れこむ。後を追う振りをしながら、駐車中のスクーターを眺めた中村は、シティ国際大学の入構許可証を貼ったエア・スクーターを見つけた。

 記憶した登録番号と確認するや、ボールを拾う素振りでかがみこみ、スクーターの下を覗いた。そして、片手に隠し持った硬貨ほどの大きさの物体を、燃料電池ケースの取り付け部分のわずかな隙間に押し入れた。

 立ち上がりざま、素早く別のテニスボールを懐から取り出し、ちらっと監視カメラに目をやると、何気なくボールを地面にぶつけながら歩き出した。


 「Xデイ」にスクーターで来られては後始末が面倒だ。仕こんだ装置は前日の夜に起動させるとして、後は現場の下準備か・・・

 中村は顔をしかめた。今回はどうした訳か最近入ったばかりの若手のサポート役に回され心底ムカついてしまう。

 だが、あの新人は人間離れしていると認めざるを得ない。恒例の手荒い新人イジメを仕掛けた同僚三人は、指一本触れられずに翻弄された・・・

 何はともあれ、身過ぎ世過ぎで任務は遂行するしかなかった。


 サポート役はターゲットと接触する場合もある。今回の標的がいかにも人の好さそうな学生と知って以来、中村は心のどこかで気がとがめて、嫌な気分になってしまうのだった。

 だから、サポート役はごめんなんだ!

 忌々いまいましくなり、ぺっと道端に唾を吐いた。とことん因果な商売だ!魂が腐るに違いない。もっとも、そんなものがまだこの俺に残っているとしたらだが・・・

 自嘲気味に苦笑いをもらした。


 中村の姿が大通りの雑踏に消えた直後、駐輪場に「魔女の宅配便」のモペットが入って来た。匠のエア・スクーターのすぐ脇で止まった。

 全身黒尽くめのドライバーはモペットから降り、しゃがんでタイヤの空気圧と足回りを点検しながら、さりげなくヘルメットのギアプレートに触れ、マイクロカメラの向きを調整した。

 匠のスクーターの3Dスケルトン映像が、ウインドシールドに映しだされて、製造元の設計図と自動照合が始まり、販売後に形状が変わった部分が赤く表示された。その一つが点滅して、装置名がシールドの右上に映った。ヒットしたのが一箇所と確認すると、ドライバーはカメラを切った。

 辺りをひとしきり眺めて、中村が残したテニスボールを見つけ出した。立ち上がってボールに近づき、手袋を着けた手で拾い上げると、監視カメラに背を向けて、素早く収納袋に入れてポケットにしまいこんだ。


「バカね、回収しないなんて不用心な奴。あんなに何度も握り潰したら、DNAがばっちり残るのに」

 アロンダはつぶやいた。

 きな臭くなってきたわ・・・

 強い危機感を覚えずにはいられない。用心のため身辺を探っていたのだが、脳心理研究所を訪れた匠に、何者かが記憶探査を検査項目に追加していた。あの日以来、匠を尾行して警護を続けている。素人の尾行は楽勝だったが、ピザ宅配の仕事は休みを取るしかなくなった。けれども、アロンダは自分に好意を寄せる店長に頼みこんで、ちゃっかり宅配用のモペットを使わせてもらっている。

 元もと、ピザ店の仕事はカムフラージュに過ぎない。アロンダも貴美と同じように人間社会でダブルライフを送るのには慣れている。それでも、未知の能力を備えたプライムの存在と、おびただしい数の監視カメラには悩まされっぱなしだった。


「テレパシーが使えないから、面倒くさいったらないわ!おまけにこの人工都市ときたら監視カメラだらけ。貴美じゃなくても私だって参るわよ!」

 貴美の場合はトリプルライフで、しかもタクと一緒に暮らしている。ひとりで秘密を抱えこんでいるんだわ。いくら優秀な諜報員でも、プレッシャーに苦しまないはずはないわ!新人類の能力も安定しないとかで、相当悩んでるらしい。

 すべてを打ち明ける日まで持ちこたえて欲しい!

 アロンダは祈るような気持だった。


 その日は思ったより早く来るかもね。ついに敵が動き出したわ!あの男、いったい何者なの?

 十中八九、シティのガーディアンに違いないとアロンダは考えていた。特殊部隊の退役者も中にはいるが、大半は途中でドロップアウトした落ちこぼれである。だが、高度な訓練を受けた危険な連中であることには変わりない。

 男が仕掛けたのは燃料電池をショートさせるブレーカーで、追尾装置でも爆薬でもなかった。

 差し当たって危険はないから、スクーターはこのままにして置こう・・・あの男を泳がせて、正体と目的を突き止めなきゃ!


 匠がジムを出て駐輪場に着いた時には、アロンダはとっくに建物の陰に宅配スクーターを移動させていた。匠が走り出すと着かず離れず尾行する。

 匠が家に着きスクーターから降りてドアを開けて中に入る姿を、五十メートルほど後方にスクーターを止めて見つめていた。

 事が起きるのは匠がスクーターで出かける時ね。自宅に居る間は安全だわ。


 ドームの中を循環するひんやりした風に乗って、緑が萌える早春の匂いがほのかに漂って来る。アロンダはヘルメットのシールドを上げ、目を閉じてかぐわしい空気を深く吸いこんだ。

 脳裏に遠い昔の記憶が鮮やかに蘇る。あの運命の夜を想い出し、アロンダは長い睫毛をしばたたかせて涙をこらえた。


 愛しい人、もうすぐ会える・・・懐かしくて涙が出ちゃう!


 恋人とソウルメイトの板挟みなのに、女心ってわからないものね・・・アロンダは身勝手な己の感情に少々呆れ気味だった。


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