短編集(三日小説・一週間の書架)
ニシマ アキト
三日小説
「私とお前の裏切り」・・・裏切り
十八歳、夏。大学に入ってから初めての恋人ができた。
今日は付き合い始めてから四回目のデートだった。正直に言えば今すぐゲロを吐きそうなほどクソつまらないし早く帰りたいが、もう少しの辛抱だ。もう少しで、ここ数か月間の私の念願が叶う。
映画を見終わって昼食を摂り終えて、私たちは緑豊かな公園の中の遊歩道を二人並んで歩いていた。日曜日の雲一つない快晴の下、公園内は子供やら老人やらで賑わしい。
道の脇に設置されてあるベンチは、散歩で疲れた老人によってすべて埋まっていた。彼氏は諦めずに、きょろきょろと首を回して空いているベンチを探している。その間私のことはほったらかしだった。しかし、どうせベンチを見つけて二人並んで座ったところで、私の退屈を消し飛ばすおもしろトークを彼が展開することはないのだろう。
「ちょっとトイレ行ってきてもいい?」
私が言うと、彼は少し戸惑いながらも頷いた。しかし、ほぼハエの棲み処と化しているような公園内の屋外トイレを私が利用するはずもない。私は上手く彼氏の視界から姿を消して、二分ほどの時間を置いてから、また彼氏のそばに戻ってきた。
道の脇に突っ立っている彼氏の目の前に来ても、彼の地味で冴えない表情は何の変化も見せない。まだ目の前に立っている自分の恋人の存在に気付いていないようだった。しかし彼は特別目が悪いわけでもないし、病的なまでに注意力散漫なわけでもない。
「くへ、へへく……、へへへふふ、ははっ……はははっ、ははは」
私が普段は絶対に見せないような下品な笑いを漏らしても、彼は全く反応しない。時折スマホに目線を落としながら、辺りを見回してもうすぐ帰ってくるはずの私の姿を探している。
彼には私の姿が見えていない。
「……っすーーーーーー……ふう。……よし」
突然、彼の顔の筋肉が歪み、苦悶の表情を形作った。みるみると顔全体が青ざめていき、やがて咳をするように血を吐き出す。そのまま膝を折って、彼はとめどなく血液が溢れ出している自分の胸を両手で押さえた。
次に彼の喉が横薙ぎされるように裂け、そこから勢いよく若々しい鮮血が飛び出した。ぴちゃぴちゃと音を立てて血液は地面に落ち、遊歩道のタイルの溝に沿って流れていく。今にも眼球がぽろりと落ちてしまいそうなほど大きく目を見開いたまま、彼は自分の血だまりの上に倒れこんだ。彼の状況がそこまで進んだところでやっと、まわりの人間が思い出したように騒ぎ出す。と言っても慌てふためいて騒いでいるのはほんの数人で、大多数の人はたった今目の当たりにした現実の光景を受け入れることができずに呆然としていた。
それもそのはず、ただ立っていただけの人間の身体から突然ものすごい勢いで血液が吹き出してきて、そのまま絶命してしまったのだから。その光景をすぐに理解できる人間は、この場には私以外にいない。慌てふためいているのは理解を放棄した愚鈍な人間だけだ。
「この瞬間のためだけに私の人生は存在しているのだぁー! だーはっははははー!」
そう高らかに宣言しても、周囲の誰も私に注目しない。全員の目はまだ彼の死体に釘付けになったままだった。私は哄笑しながら勝利の凱旋の気分で遊歩道を大股で歩いた。脳内が幸福感で満たされていた。頭皮の毛穴からドーパミンが滲み出てきそうなほどに。
とても気分が良かった。
生きがいというものを強く感じる。
やはり、殺人の味は、より多くの手間暇をかけるほど熟成され、甘美なものへと昇華していくものなのだ。
今日、この日のために、私は多大なる時間とお金と手間をかけてきた。そうして手にした殺人の味は、今まででもかなり上位に入る良質なものだった。
幸せだ。今まで生きてきて本当に良かった。この世に生を受けて本当に良かった。
そんな風に先程の殺人の味をいつまでも噛み締める一方で、私は早速次の殺人計画について考えを巡らせていた。
*
私が殺人の味を覚えたのは十五歳のときだった。最初に殺したのは自分の母親だった。その殺人の味は今でもよく覚えている。
高校に入学して一か月か二か月が経った頃のことだ。私は地元ではかなり上位の部類に入る公立の進学校に通っていた。しかし母親は高校生活が始まってしばらく経ってからも、私が第一希望の私立高校の入試に落ちたことをネチネチと責め立ててきた。そもそも私は別に、その私立高校に何か特別なこだわりがあるわけではなかった。ただ、親が行けと言ったから行こうとしていただけだ。だから私は、受験に失敗した結果として通うことになった公立高校にそれほど不満はなかったし、時々私立高校に合格していた世界線の自分のことを夢想して感傷に浸ることもなかった。数か月も前の受験の結果なんて今更どうでもいいと思っていた。
しかし母親は、寡黙な私の気持ちを推し量る能力が欠如していたので、私が言い返さないのをいいことに、飽きもせず毎日毎日、夕食の席で高校受験のことを話題に出した。どうやら母親は、今回の高校受験に失敗したことをきっかけとして、私の人生はどんどん悪い方向に傾いていくはずだと信じて疑っていないらしい。高校受験の時点で同じ学力であった同級生にはこれから徐々に引き離されていき、三年後の大学受験のときには、私はわざわざ四年間も通う価値のないような大学にしか進学できない状況になっているはずだと信じて疑わないのである。明らかに論理が飛躍しすぎているが、母親に対してはどれほど理路整然とした反論であっても全く意味を為さない。何を言っても母親は「所詮子供の言うことだから」と聞く耳を持ってくれないのだ。だから私は内側にストレスを鬱積させつつ、黙って夕食を咀嚼しながら母親の話を聞いているしかなかった。
そんなある日にふと、母親を永久に黙らせる方法がひとつあることに気が付いた。どうして今までその方法に思い至らなかったのか甚だ不思議だった。とてもシンプルでわかりやすい、簡単な方法だった。
私は生まれつき、透明になることができる。手の五本の指を自在に動かしたり足を前に出したりといったことが自然にできるように、私は自然に自分自身の身体を透明にすることができる。
しかし、私以外の全人類は透明化の能力を持っていない。だからあまり不用意に人前で透明になることはできず、私はこの能力を使い余していた。
透明化といっても、やれることはそれほど多くない。例えば、絶対にバレずに万引きをすることができる。しかし完全犯罪とはいえ法を犯すのは躊躇われた。倫理に背いてまで欲しい物があるわけでもなかった。また、私が本来であれば入れない場所、男子トイレや男子更衣室や男湯なんかにも透明になれば入れるわけだが、そんなところに入っても何の意味もない。
だから私は今まで、学校の帰り道に微妙な距離感の同級生を見かけたときに声をかけられないために透明化したり、なんとなく悪そうな人たちがたむろしている道を通り抜けるときに透明化したり、そういう地味な能力の使い方しかしていなかった。証明してくれる人は誰もいないが、私は透明化の能力を行使して罪を犯したことは一度としてなかった。そのときまでは。
透明化によって完全犯罪となるのは、万引きだけではない。
人殺しだって、透明になれば絶対にバレない——と気づくのに、私は十五年かかってしまった。
それから話はずいぶんと簡単になった。母親を殺してしまえば、私のストレス源は文字通り消えてなくなる。透明になって母親を殺してしまえばいい。万引きにはあれだけ躊躇していたのに、人殺しへと踏み出す一歩は驚くほど軽かった。
朝に学校へ行くふりをして家を出て、玄関の扉が閉まったところで透明になった。それから、昼に買い物のために母親が家を出てくるまで、玄関の扉の前に座って待っていた。しばらく経つと、自分の家の中から掃除機の音が聞こえたり、ベランダに出た母親が布団を叩く音が聞こえた。私はじっと落ち着いて、いずれ来るその時をひたすら待っていた。
午後の一時を回った頃に母親が玄関の扉を開けた。玄関の鍵を閉めている母親の背中に向かって包丁を突き立てようとしたが、その瞬間に立ち眩みを起こして失敗してしまった。そのまま、家を離れて歩き出す母親の後をつけて、その首筋に狙いをつける。幸いにして母親は自動車免許を持っていなかった。
その時は急にやってきた。無意識に身体が動いていた。
何の変哲もない住宅街の一角の道の脇で、私は母親のうなじに包丁を刺し込んだ。母親は声を上げることもなく、そのままうつ伏せに倒れこむ。私の心は歓喜に震えた。ついにやった! 死んだ! 消えた! 私はそのまま母親に馬乗りになって、母親の身体を何度も何度も貫き切り裂いた。
透明化している最中は、私に触れたあらゆる物質は触れたそばから見えなくなる。だから母親の返り血は、私の制服には一滴も付着しなかった。
それから約一時間、私は母親の上で包丁を振り回し続けた。母親の身体の原型が完全に消失するまで、私は包丁を振り回した。
自然と笑みが零れていた。
そのときに私は生きがいを見つけた。私の人生が始まった。
それからしばらくの間は、無差別に目につく人間を殺していた。まず真っ先に、学校の教室内で自分が気に入らないと思う人間を殺した。それに飽きてくると、道を歩いているときになんとなく癪に障るような顔つきと背格好をしている人間を殺した。とにかく殺したい奴を殺していった。人間の身体を自分の手でぐちゃぐちゃに変形させていくたびに、私の人生が鮮やかな彩りを得ていくような感覚がした。
しかし私は、ただ普通に人間を殺すことに飽きてしまった。
人殺しの中に、自分の感情を震わせるような何かがあれば面白いのではないか、と私は考え始めた。
そして私は、自分に近しい人間を殺し始めた。学校内の友人を殺した。幼稚園時代からの幼馴染を殺した。小学校からの付き合いである親友四人を殺した。別に私は、彼ら彼女らのことが憎かったわけではない。ただ、殺したら面白そうだから殺した。自分が気に入っている人間を、他でもない自らの手で殺した時、そこにどのような感情が発生して、どのように私の心を震わせてくれるのか、その味が知りたかった。好奇心に抗えなかった。
そして、私の期待通り、ただ気に入らない人間を殺した時よりも数億倍の幸福感が私の脳髄を震わせてくれた。幼馴染を殺した時は特にすごかった。十年以上も前から付き合いのある人間が――私たちが今よりも五十センチも小さかった頃から互いを知っている人間が、他でもない私の手によって殺されてしまったのだ。他の誰でもない私が、理不尽にも彼女の人生に無理矢理ピリオドを打ったのだ。目の前で倒れて血の海を形成している彼女を前にした途端、目の奥が異常なほど熱くなって視界がちかちか明滅して、十匹のムカデが身体中の血管の中を駆け巡るような感覚がした。幼馴染に殺されてしまった彼女の中の絶望を想像し、そして幼馴染の命を自らの手で奪ってしまった自分の絶望感に思う存分浸り、身体中の内臓が絶望感で満たされた次の瞬間には、その絶望が幸福に成り代わっている。腹の底が多幸感で温かくなる。こんな感覚は人を殺す以外に味わいようがない。
そしてつい最近。大学生になってからは、もう親しかった人間は既にあらかた殺してしまっていたので、自分で新しく親しい人を作ることにしていた。まず手始めに、入学式の日に話してからその日までずっと一緒に行動していた友人を六月に殺した。そしてついさっき、大学に入ってから最初にできた恋人を殺した。やはり、数年来の付き合いがあった人間を殺した時には劣るが、それでもいつもの甘美な味がした。
もう今までに何人殺してきたのか、私は覚えていない。
*
「デートはどうしたんだ?」
「不慮の事故により中止になっちゃった」
「……また殺したのか」
「さあ、どうだろうね」
彼氏を殺した後に向かった先は別の男の家だった。古臭いアパートの、鍵のかかっていない玄関の扉を開けて彼の部屋のベッドの上に寝転んで、冷房の設定温度を下げる。それからベッドの上に放ってあったままの漫画本を開いた。
「汗でベタベタな状態でベッドの上に乗るな」
「いいじゃん別に。女の子の汗が染みこんだベッドのほうが好きでしょ?」
ベッドに寄りかかるように座って机の上のノートパソコンを操作している彼は、こちらに振り返りもせずに呆れたようなため息を吐いた。
私が彼――矢津という男と知り合ったのは、十七歳のときだった。
私が道端で矢津を殺そうとした瞬間に、私は矢津と知り合った。
道でその矢津という男とすれ違ったとき、私はふとその男を殺したくなった。猫背の姿勢、足を引きずるような歩き方、目の下の大きな隈、常に強張ったような表情、腐った魚のような澱んだ瞳――そのときの矢津の立ち振る舞いからは全く覇気が感じられなかった。そういう矢津の雰囲気が、たまたまそのときの私の癇に障ったのだった。
ちょうど透明化していた私はそのままナイフを振り下ろすと、矢津はそのナイフを足で蹴り上げて弾いた。私の姿も、私の握るナイフも矢津には見えていないはずなのに。現にナイフを弾いた後も、矢津の目線は私の姿を捉えていなかった。矢津の目はあらぬ方向を向いていた。
私は透明な自分の攻撃を防がれるという不測の事態にかなり驚いていたが、矢津はもっと驚いていた。矢津は取り乱したようにきょろきょろ首を回して後ずさった。
「な……なっ、何が目的だ」
私は透明化を解いた。
矢津は一瞬だけ目を見開いた。目の前に突如、ぱっと点滅するように女子高生の肉体が空間に現れたのだから、当然の反応だ。矢津は「……かっ……、くっ」と声にならない叫びをあげた後で、私の前に手のひらを突き出した。
「まっ、待て。お、落ち着け。……その……俺も、人を殺したことがあるんだ」
それから私たちは、その間にはかつて殺意があったのだとは信じられないほどに打ち解けた。初めて人殺しの人と生で対面して、私も興奮していた。矢津は初めて生で透明人間を見て興奮していたのかしていなかったのか定かではないけれども、少なくとも、一度は殺意を向けてきた私のことを拒否しなかった。
話してみると、矢津はよく笑う人だった。柔らかく穏やかな人柄だった。道ですれ違ったときに抱いた印象とは真逆の人物像だった。私と矢津の間で交わされる会話の主な話題は殺しについてだった。初めて、生きがいについて話題を共有できる人ができた。私は意気揚々と、自分の殺してきた人間について、その殺しが行われた瞬間について、矢津に語って聞かせた。矢津と話しているときだけは、他者と関わることの意義を強く実感できた。私はおそらく、矢津と話しているときだけは目が輝いているのだろう。矢津と話しているときだけは、いつもより少し早口になっているのだろう。
矢津は私にとってそういう相手だった。意図せず勝手にどんどん自分の口が回ってしまう、そういう相手だった。
大学に入ってからは、私は暇さえあれば矢津のアパートに赴いていた。矢津の部屋でこうしてだらだらと時間を無為に過ごしている瞬間も、殺しの瞬間には少し劣るが、幸福だった。
私が頻繁に部屋に訪れても、彼は文句こそ言うがそこまで鬱陶しがる様子もない。部屋の中に何度も異性が訪れても平然としている。だからつまり、彼にとっての私も、そういう相手なのだろうと私は半ば確信していた。私と矢津は互いに固く認め合っているものだと、半ば確信していた。
しかし私は、これ以上矢津という人間の内側に踏み込むわけにはいかなかった。
これ以上近づくと、私は矢津を殺したくなってしまう。
「なぁ、起きてるか?」
私が部屋に来てからちょうど二時間ほどが経ち、電気の付いていない部屋の中が薄暗くなってきた頃、矢津がそう声をかけてきた。矢津は振り返って、ベッドの上の、冷房によって冷え切った私の太ももの上にその大きな温かい手を置いた。うつ伏せで少しうとうとしていた私の肩はびくっと震える。
「……な、なに?」
「今度、デートしにいこうか」
「えっ……、なんで?」
矢津は真剣な目をして言った。
「大事な話があるんだ」
大事な話があるらしかった。
*
休日にデートの待ち合わせ場所である駅前に着くと、矢津は妙に精悍な顔で私を待っていた。らしくもなく、緊張しているのだろうか。
「ちょっとついてきてくれ」
私の顔を確認するなり矢津はそう言って、いつもより大きな歩幅で私の前を歩き始めた。
「どこに向かってるの?」
「ファミレス」
言われた通り私は駅前の通り沿いにあるファミレスに連れていかれた。矢津は店内に入ると、受付を介することなく奥の四人掛けのテーブルへと向かった。
そこで私はつい足を止めた。呼吸まで止まったかもしれない。
「……は。えっ、だ、は?」
そこには私が座っていた。
信じられない。そこに鏡があるのか。しかしこの私は立っていて、目の前の私は座っている。認識が混濁する。
「こんにちは」
私が私に挨拶をした。
私と似ている、なんてレベルではない。この人は私とは別の人間ではない。
私と全く同じ人物が、そこに座っていた。
顔も声も身長も髪の長さも座り方も、何から何まで私と同じ。今初めて会ったはずなのに、この人の何から何まで、私には覚えがある。
「だ、……あ、だっ、だ、誰なの、この人」
頭蓋骨の奥がさーっと冷たくなっていくような心地がした。「まあ、とりあえず座れよ」と矢津が私の隣に座りながら、私に座るように促してくる。
私は膝が笑っているのを抑えつつ、私と矢津に向かい合って座った。
「何頼む?」
「……あ、あのさ」
「私パフェ食べる~!」
矢津の隣に座る私が陽気にそんなことを言った。
「お前は?」
矢津が、向かい合って座るこの私に訊いてくる。矢津はこの状況に少しも混乱していない様子だった。まるで最初から、私は世界に二人いるものだと了承していたような。
「な、何もいらない」
「じゃあドリンクバーだけ頼んどくな」
と言って矢津はテーブル脇のボタンを押して店員を呼んだ。店員は矢津と違って、私たちの姿を見て面食らっていたが、矢津が冷静に口にする注文をちゃんと聞き取っていた。
「こいつは俺の婚約者なんだ」
矢津は隣に座る私の肩を軽く叩いて、そう言った。意味不明だった。
「……わ、私は、矢津の婚約者なの?」
「いやお前はただの友達だろ」
矢津は淡々と言う。
私は矢津の婚約者で、私は矢津のただの友達らしい。
「でも、そこに座っているのは私だよね?」
「こいつはお前であってお前ではない」
矢津の隣に座る私はずっと笑顔を浮かべている。それもただの笑顔ではない。私がつい最近まで、既に殺してしまったあの恋人の前で見せていた、猫被りの笑顔だった。私は意識すれば今すぐ彼女と全く同じ顔を作ることができる。
「ど、ドッペルゲンガー?」
「まあ、そんなもんだな。ドッペルゲンガー、もう一人の自分、分身、とか、そんな感じ」
矢津は馴れ馴れしく、その大きな手で覆うように隣の私の頭頂部を撫でた。
「そんで、こいつが本物で、お前は偽物だ」
私が偽物で。
矢津の隣に座る私が、本物?
「……意味が分からないんだけど」
「だからさ、つまり、お前は本当は存在しちゃいけない人間なんだよ」
そこでもう一人の私が頼んだパフェがやってきた。注文したのはほんのついさっきなのに、ずいぶん早く来た。矢津の隣の私はわざとらしく目を輝かせて、パフェにのったクリームまみれのイチゴを口に運んでいた。
「おいし~!」
「こいつが正統で、お前が異端なんだ」
せめてもっとわかりやすい言葉を選ぶ努力をしてほしい。
「どうして私が偽物ってことになるの?」
「お前は透明人間になれるだろ?」
「うん」
「でもな、俺の婚約者のほうのこいつは、透明になることなんかできないんだよ。それが何よりの証拠だ」
「は?」
「矢津くんはホントに人に説明するのが下手くそだよね~」
思わず反射的に苛立ってしまうような自分の猫なで声が聞こえた。こちらに同意を求めるようなトーンで、私が私に話しかけてきた。私は急に話しかけられた動揺で、私に対して苦笑いを返すことしかできない。
「普通の人間は、透明人間に変身することなんてできないよな。普通の人間の実体は、一時的に消えるなんてことはない。一度消えたらずっと消えたままだ」
「だから、私が普通じゃないから、私が偽物だっていうの?」
「まあ平たく言えばそうなんだけど」
言ってから、矢津は不意に、隣の私のパフェからウエハースを指で摘まんで奪い取った。
「あー! も~、勝手に取らないでよ~」
「いいだろ少しくらい」
私の目の前で私と矢津がいちゃついていた。
矢津は口の中でウエハースを咀嚼しきってから、口を開く。
「俺さ、ずっと考えてたんだよ。お前の透明化の能力は、実は丸っきり逆のものなんじゃないのかって」
「逆、って、どういうこと」
「お前のその能力は、本来存在しているはずの自分を消す能力じゃなくて、本来存在していないはずの自分を現す能力なんじゃないかって」
「……は?」
「お前の能力は、実体のある自分を透明化させているんじゃない。透明な自分を実体化させているんだ」
なんだ、それ。
私は本来ずっと透明な人間で。私は本来は実体を持たない存在で。
しかし私は何かの拍子に、自分を実体化させる能力を得てしまった。
そして今この瞬間も、私はその能力を発動中で。
「……そんなわけ、ないじゃん」
「じゃあ、なんで世界でお前だけが透明になれるんだよ」
それはまだわからない。世界中を探し回れば、私以外にも透明になれる人がいるかもしれない。
「それに、俺は自分のドッペルゲンガーのことは見たことも聞いたこともないし、会ったこともないが、お前たち二人はこんな近くにいた。これって偶然か?」
「わ、私だって、今日ここに来るまで、ドッペルゲンガーのことなんか知らなかったし」
「でもこいつは、お前のこと結構前から知ってたぞ」矢津が隣の私に親指を向けて言う。
「うん、知ってたよ。なんか人を殺しまくってるらしいね」
パフェの残りは半分だった。
「あと、お前、ついこの前にたぶん自分の恋人を殺したと思うんだが、違うか?」
「……殺した、けど」
「俺もお前の恋人について色々と知っていたはずなんだ。お前の恋人の名前とか、性格とか喋り方とか趣味とか、俺もそういうことを知っていたはずなんだ。でも今は何も思い出せない。お前に恋人が存在したという事実しか思い出せないんだ。お前の恋人についての詳細なことは、全部靄がかかったようになってて」
「それが何。単に矢津の記憶力が悪いだけじゃ……」
「だから、お前が殺した人間は、最初からこの世に存在していなかったことになっているらしい」
「なんでそんなことがわかるの」
「お前が俺に語って聞かせてくれた、お前が今までに殺してきた人について調べられるだけ調べてみたんだが、そもそもそんな人間は戸籍上存在しなかった。お前が殺した人たちが生きていた形跡は、何一つ残っていなかったんだ」
「怖いね、存在そのものが消えちゃうなんて」
もう一人の私がパフェのクッキーをざくざく噛み砕きながら言う。
「存在そのものが消えるのは、存在そのものがないお前が殺しているからなんだろ。存在していないはずのお前が起こした行動は、全てなかったことにしなきゃいけない。しかし殺してしまった人間は決して元には戻らない。一度壊れた命を修復することはできない。だから、命が壊れたという事実をなかったことにするためには、そもそもそんな命は最初から存在しなかったということにするしかないんだろうな」
「……あのさ、本気で言ってるの?」
「お前が人を殺し続けると、世界の因果律やら物理法則が乱れるんだよ。存在していたはずの命が急に、過去や未来からも完全に消失するなんてことが頻繁に起こるのはとても良くないことなんだ。時間や空間の均衡が崩れるんだよ」
因果律とか物理法則とか時間とか空間とか、何を突飛な話をしているのだろう。
「お前の存在感が大きくなると、こっちも困るんだよ」
「そうなの! あなたの存在が大きくなっていくとね、本物であるはずの私の存在が脅かされてしまうの。偽物のあなたが完全に私の存在を乗っ取っちゃったりするかもしれないの。それは、ものすごく困るのね」
私は全く困らない。私からすればこのパフェを食べている私のほうが偽物なのだ。偽物が存在を乗っ取られて何がおかしい。
それに、なぜかもう一人の私はずっと猫を被り続けている。婚約者ともう一人の自分という、気心が知れているというか、ある程度正体を見破られているはずの人しかこの場にはいないのに、パフェを食べている私はずっと、心に仮面を被せたままだった。一応ドッペルゲンガーとはいえ私とは初対面だから、なのだろうか。
「それで、俺たちはなんとかしてお前の存在を消さなければならないわけなんだが……」
そこで矢津は、ちょうどパフェを食べ終わった私に目配せをした。すると矢津の隣の私は景気よくパンと手を叩いた。
「あのね! やっぱり、殺すしかないかなぁ~と思って!」
私は朗らかな笑顔で、当惑顔の私に向かってそう言い放った。
「お前は意識してその実体化の能力を発動させているはずだ。だからお前の意識を消し去れば、お前の能力も切れて、お前の存在も消えてなくなるはずだ」
「意識を消すための手っ取り早い方法は、命そのものを消し去ってしまうことだよね!」
「どうせ最初から存在してなかったんだから、生きるも死ぬもクソもないだろ。大人しく死んでくれよ」
矢津は驚くほど落ち着いた口調で言った。不気味ですらあった。
「……私がそんな簡単に死ぬほどやわな人間じゃないってこと、矢津なら知ってるよね?」
「ああ、言ってなかったけど、こいつの職業は殺し屋だぞ」
矢津が隣の私の肩を叩いて言った。パフェの皿を回収していく店員が去るのを待ってから、もう一人の私は恭しい口調で言った。
「どうぞ、消したい人間がいらっしゃいましたらご遠慮なくお気軽にわたくしにご依頼ください。愛と勇気をもって依頼を遂行いたします」
「こいつは殺しを生業としている。殺しで飯を食って生きてるんだ。趣味でやってるお前とはわけが違うんだよ」
「こ、ころし、ころ」
「そんで、こいつもお前と同じで殺しに味わいを見出すタイプでさ。でも、依頼された標的を依頼された通りに殺しているだけじゃ、どうしても甘味は得られないらしいんだ」
「それで、わざわざ矢津くんがあなたに近づいたんだよ!」
私は矢津のことを『矢津くん』なんて気色悪い呼び方はしない。
「お前を見つけたそばからさっさと殺してしまえば良かったんだが、どうせ自分の分身を殺すならもっと熟成させてから殺したいって言って聞かなくてさ。だから、なんだ、今まで騙してて悪かったな」
まずい、強烈な眠気が頭の奥から津波のように押し寄せてきた。薬を盛られたのだろうか。しかし私は今日、矢津やもう一人の自分に会ってから何も口にしていないはずだ。
「お前を裏切るような形になってしまったことは謝るよ。お前がまだ存在している限りは、俺がお前の心を傷つけてしまった事実は残るわけだし、今のうちしか謝れないもんな」
私は矢津に騙された。裏切られた。しかしそんなことは少しも重要ではない。
もしも、このもう一人の私が、私と同じく甘美な殺人の味を追い求めているのであれば。あの、身体中の全神経が打ち震えるような殺人の味を追い求めているのであれば。
今日この場で、もう一人の私が猫を被り続けていた理由がわかる。
私は、もう一人の自分である私に対して猫を被っていたのではない。
矢津に対して、猫を被っていたのだ。もう一人の私は未だに、本当の自分の姿を矢津に晒していない。しかし矢津はそんなことに気付かずもう一人の私のことを信頼しきっている。男というのは本当に馬鹿だ、なんてことは今の論点でなくて。
もう一人の私が殺しの味のために熟成させていたのは、この私だけではなかった。
矢津のことも、熟成させていたのだ。
おそらくもう一人の私は、矢津と結婚したうえで、どのタイミングなのか、結婚した直後なのかある程度夫婦生活を積み上げたあとなのか定かではないが、どこかのタイミングで、矢津を殺すつもりなのだ。最愛の妻に殺された矢津の絶望と、将来を誓い合った夫を自らの手で殺した自分自身の絶望を、独り占めして味わい尽くすつもりなのだ。
「じゃあね、ドッペルゲンガーさん。あなたも殺し屋になっていれば、私と互角に渡り合えたのかもしれないね」
もしも矢津が今日この場に私を連れてこなければ。もしも矢津が私を裏切らなければ。私は、ドッペルゲンガーのことなど知らずに、意図せずともどんどん存在感を増していって、矢津の婚約者であるもう一人の私の存在を乗っ取って消してしまっていたかもしれない。もしも矢津が私のことを裏切っていなければ、矢津の婚約者は私の手によってこの世から存在を消されていたかもしれない。
矢津が私のことを裏切らなければ、矢津は自分の妻に裏切られて殺されることもなかったのだ。
矢津は、私を裏切ることによって、私に裏切られることになる。
そんな彼を哀れに思いながら、私はついに眠りに落ち、そして二度と目覚めることはなかった。
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