Lunatic Point

八塚

第1話 incandescent daydream, impressive thirst.

 分かってしまえば、こんなにも話は単純だ。

 だって、私の前で、貴女は微笑ってくれたから。

 だから、助けに行こうと思うのだ。


 ◇


 穏やかな旋律が、静けさを溶かすように鳴り始める。

 耳触りのよい音量のそれは、極めて安定した響きを持っていた。

 講義の終わりを告げる鐘の音。机の上に広げた視野投射画像ホロ・スクリーンへと注釈を書き込んでいた手が止まる。

 集中が途切れ、彼女は平坦な視線を前へと向けた。

 定められた音階を正確に、緩やかに辿った終鈴のチャイムは、そう間もなく教壇に立っていた初老の男性の講釈を打ち切らせ、代わりに雑多で騒がしい会話が広い講義室を埋め尽くしていく。


 機能的なデザインの長椅子が、扇状の空間に並べられた部屋だった。

 設けられた段差によって、聴講生たちが最奥にある教壇を見下ろせるようになっている。前列ほど低い位置で短く、後列ほど高い位置で長い弧を描いて、幾重にも並んでいる聴講席は、まばらな歯抜けを作って埋まっていた。清潔な白色と機能美と、随一の教養に彩られた学院カレッジの一室。そこで講義を受けていた学生たちは、今日も何らの支障もなく、開放感に満ちた放課を迎えたようだった。

 いつであっても、同年代の彼らの話し声は生彩に満ちている。

 手首の神経接続端子バイナリ・ジャックをしまい込み、荷物を取り、思い思いに群れて立ち上がり始める青年たちと、少女たち。学院の漆黒のブレザーに身を包む彼らは、まるで今この時を一瞬たりとも無駄にできないというように、ようやく訪れた自由時間を全力で謳歌しようとしている。目まぐるしく変化する表情も、明るい笑声も、楽しげに語らう仕草までもがそこかしこに飛沫を上げ、十代の彼らの存在というものを主張している。

 翳りのないざわめきが講義室の中を広がり、伝わって満たす。

 神経制御工学サイバネティクス理論や仮想法、現代量子統計力学。

 たった今まで学んでいたものは、政治と軍事に纏わる諸々だ。

 とはいえ、たとえ実際に戦争状態になったところで、どれだけこの光景が変わるかは疑わしい。――――それとも多少は変わるのだろうか。分かっていることは、もしそのような事態になったとしても、ここにいる彼らのほとんどが、実際の戦場に立つことはないだろうということだ。勿論、その戦争が彼らにとって危険なものになることも。

 院生たちは、それぞれが傍らに物々しい武具を置いている。

 形状は人それぞれだ。剣の形をしたものもあれば、斧の形をしたものもある。

 可変機構式長剣オプティカル・ウェポンと呼ばれるそれを玩具のように無造作に掴み取り、1人の男子院生が、どこからかの呼び声へと忙しなく振り返る。

 長剣の形をした、黒色で金属質の携行装備デバイス。それを彼は腰に佩いて駆け出すと、そのまま講義室の出口に固まっていた仲間たちの一団へと加わった。誰かが冗談でも言ったのか、彼らの間から弾けるような笑声が上がる。


 ……教授が立ち去り、無人となった教壇を、まだ眺めている。

 広く、遠くへ拡散していく学院生たちの話し声の中で、思考は形を持たず、意味の判然としない空隙を広げている。

 この後には特段の予定も組まれていない。だというのに講義室から退出していく他の生徒たちと違い、彼女の瞳に何らの熱も、期待もこもらないのは、それまでの集中の名残なのか、はたまた物思いに沈んでいるのか。美しい漆黒の双眸はただ遠く、憂うように正面を見つめている。

 同じ制服を着こなす、背後を通りがかった少女たちの華やいだ会話が途切れがちに耳へ忍び込んだ。――――第八歓楽区画フラタニティ・エリアに新しいカフェが出来たんだって。少し寄っていこう?


 楽しげに弾む声。それをきっかけにして、思考が戻ってきた。

 眩暈を抑えるように、この現実へと焦点を合わせて意識を取り戻す。

 喉奥にせりあがるものを小さな息へと変えて、彼女は瞼を閉じた。

 机の上に展開していた、テキストの表示された複数の虚像スクリーンを消し去る。左手に握ったままだったペン代わりの神経接続端子バイナリ・ジャックも手放し、ようやく仕舞うように意図した。

 端子ジャックはコードが伸びている左の手首の中へ、自動的にするすると引き込まれていき、その先端までもが収まると、白い肌で蓋をされて見えなくなる。机の上には綺麗に何もなくなった。

 他の院生たちにならい、長い黒髪を揺らして静かな所作で立ち上がる。傍に立てかけておいた自らの武器へと手を伸ばした。

 極黒の色彩。機械的で直線的な輪郭に包まれた二本の狙撃銃ライフル

 起伏の少ない板岩スレートのような胴体にいくつかの溝を走らせたそれは、ただし先端に銃口がついていることと銃把があること、その付近に銃筒シリンダーが据えられていることで機械銃であることが分かる。

 床に立てれば腰まで届くほどの身の丈を持つ、二つの無骨な携行装備デバイスは、少女の細い腰の背中側に回されると、ベルトでそれぞれ横向きに固定される。

 次々と講義室から立ち去っていく生徒たちの中に、こちらに話しかけてくる人間はいない。だからこの時も普段通り、れんは小さな鞄を肩にかけると、身に馴染んだ装備の重さと共に、ただ一人で講義室を後にした。


 ◇


 穏やかな陽光の差し込む、学院の廊下を歩いていく。

 放課後の生徒たちが行き交うそこは、やはり賑やかさに溢れていた。

 窓辺で立ち話をする少女たち、雑談しながらすれ違っていく青年たち。誰もが思い思いにこれからの余暇へと向き合い、ひと時の休息に楽しみと安らぎを見出している。彼らの高い声音と生き生きとした表情が伝播して、渦を巻いて、白く理知的な金属質合成素材メタ・マテリアル製の廊下を反響して吹き抜けて――――今は広大な学院の建物そのものが、浮き立つような雰囲気で包まれているかのようだった。

 どこからか、子供たちの笑う高い声が響いてくる。


 多国籍複合企業体Architect of Liferesource――――

 通称ALiCE社が運営する、高等教育学府。

 食料や日用品の生産から、各種インフラの整備、金融や医療、仮想をはじめとした生活サービスまで。全世界紛争を経て、国家という枠組みが意味をなくしつつあるこの時代に、大陸で類を見ない業種、あらゆる産業での台頭を見せた巨大企業ALiCEが運営するこの学院は、数多ある教育機関の中でも最高峰の品格を誇るとされている。

 世界で比肩するもののない巨大企業。

 それを担う人材を輩出するための学び舎。

 いずれはALiCE各部門の運営にまで携わることになるかもしれない、選ばれたエリート階級を生み出す為の富裕層向けの教育機関、ハインライン学院カレッジ


 ALiCE傘下でも飛び抜けて高名で、数多の著名人を輩出しており、ついでに入学金も法外に高額なこの学院に通う院生たちが、しかし厳格なわけでもなく、年相応の稚気と快活さに溢れていることは別段、驚くに当たらない。

 なぜならこの学院に通う生徒の大部分が、既にALiCE幹部の子供なのだから。

 新企業主義に突入した社会において、旧世代を飛び越え旧・旧世代にまで先祖返りしてしまった貴族階級ヒエラルキーの下、恵まれた生まれを持つ彼らは、そもそも将来というものを約束されている。この学院はその将来を現実化させるための一つの名高い手続ツールに過ぎない。4歳に入学し18歳に卒業するまでの時間を、ただ無事に通過することが出来れば、ほとんどそれだけで構わない。視野投射ホロ・スクリーン越しに学問と世界情勢を学び、仮想電脳空間バイナリアリティ・スフィアで今後使うかも分からない武器に一通り触れ、そして安全に友人たちと語らう現実リアルを送るのが、正しく真っ当なここの学生の過ごし方だ。


 ――――その点では、自分は落第だろうと、無感動さを抱くこともある。

 これから与えられることになる学歴と、身につけることになる実際の能力。

 それらがどれだけ乖離しているかは知らないが、それはそれとして与えられている講義の質は確かである。いくら厳格さに欠けているように見えようと、これから自由時間を満喫しようとしている生徒たちが、それなりの英才教育と難しい試験を通過パスし続けていることは否定しようのない事実だった。

 であるならば、この学院の主目的の一つが周囲との交流であることも否めない。

 来るべき時に備え、できるだけの社交性と積極性、何よりこの先に活用できるかもしれない人脈を身につけておくこと。それは人並み以上に物資と教育と、安全を保障された生活の中で。将来を有望視される上流階級アッパークラスの人間たちを、あらかじめ固めているのだから、これが意図されていないとは考えづらい。青春期という、限られているらしい時間ライフリソースを満足させておくことも、また――――。


 どの角を曲がっても、いつの時も、ここで目にする光景は変わらない。

 清潔感のある白く長い廊下。楽しげにさざめく同じ学院の生徒たち。穏やかな談笑と会話の波。通路に置かれている長椅子に座り、無言で目を閉じている院生は、学院保有の仮想空間にでも没入ダイブしているのだろう。今どき仮想適合化手術サブリメーションを受けていない者は稀だ。特に不穏さも見当たらないありふれた構内を、少女は淡々と歩いていく。


 無感情に前を見つめる漆黒の瞳は、黒曜の美を思わせる。

 瞳の色と同じ、闇より深い漆黒の髪は、結ばれることもなく膝裏近くにまで長く伸ばされていた。艶やかに流れおちた髪は歩みに合わせ、淑やかに靡く。

 高く見目のよい鼻梁。淡い果実のように繊細に色づいた唇。白皙の容貌は東洋オリエント系であるようだが、いくらか欧州の血も混じっているようだった。人形めいて動かない表情と、少女らしさを残しながらもすでに完成された顔立ちの造形が、このうえない美貌を形作っている。

 肢体は細く、優麗に。肌は透き通る新雪の白。漆黒のスカートから伸びる白い腿と華奢な腰元、さらにそこで揺れる黒く無骨な二つの機械銃の対照が、不釣り合いなようで隙のない美しさを添えていた。


 近くを通りがかる院生たちはみな、その姿に否応なく目を奪われている。

 ただそこにいるだけであるのに、人目を惹く美貌。分け隔てなく歓談を楽しむ生徒たちの中に、しかし彼女に話しかける人間はいない。惹き寄せられるように振り返り、硬質な装備を帯びた長髪の少女を目にして――――けれどその先は、みな無言で目を逸らすか、黙って廊下の端に寄って道を空けている。通りすぎる瞬間には息を潜める沈黙が。その後には遠ざかる背を見つめる視線と、密やかな囁き声が送られる。


 腰の武装が珍しいのでそうしている、というわけでもないだろう。

 恋と同じ防衛科所属の生徒もちらほらと見受けられたが、反応は他学部の生徒と変わりなかった。身の丈を優に超える細長い円筒のような機械を垂直に立て、長いベルトで肩に提げている男子院生が目に入る。大型砲門カノン型の可変機構式武装オプティカル・ウェポン。二人の女子生徒と笑顔交じりに会話していた茶髪の青年は、同じ学部である恋に気付いたが、声をかける素振りもなかった。何も見なかったかのようにふいと目を逸らし、ふたたび学友との談笑へと戻っていく。

 その傍を、無言で通りすぎる。

 誰と話すこともなく構内を行き、穏やかな喧噪に包まれた学院の敷地を背にしてしまうと、少女は見知らぬ人々が行く街区を歩いていく。


 ◇


 雨上がりのセントラル・エストの街区は、午後の日差しに濡れて眩かった。

 地面の白い減熱ブロックや曇りなく磨かれたビルの壁面の端々に透明な水滴が輝き、あたかもこの都市そのものを細やかな宝石のように飾っている。

 巨大企業ALiCEの膝元、本社中枢が置かれている都市リネノヴァの中心区画だけあって、その開発度は凄まじいものがある。人波と乗用車の行き交いは盛んで途切れることがない。高層ビルが競って立ち並ぶ、整備の行き届いた住み良い計画都市アーコロジーを、少女は自宅のマンションを目指して歩いていく。

 心地よい風。夏を迎えつつある空気は適度に乾いて過ごしやすかった。

 学院内と同じく、この街路も喧騒に満ちて、そして穏当な日常を回している。

 手ごろな飲食店や小洒落た販売店ブティックには彼女と同じか、あるいは違う学制服を着た若者たちが。葉々の色も鮮やかな植込みで彩られた公園には、散歩中なのだろう親子連れや老人の姿があった。鞄を小脇に抱えて、小走りに駆けていく背広姿ホワイトカラーの男は、急ぎの通話でもかけているのだろう。すれ違いざまに息を軽く切らせながらも、虚空に向かって何事かを呼びかけている。思い思いに動く人間たちの間には、清掃用の機械や人型の汎用機械――――NPCも垣間見える。人々の生活を地道に支えるそれらは、あくまで人間たちの脇役に徹して控えめに立ち回っているようだった。

 話しかけられるまでは応答しない、作り物の少女が目に入る。

 多くの人々が行き交う道端で、小さな微笑みを浮かべて立ち尽くしている都市案内用のNPCの前を、彼女は惑うこともなく通りすぎる。


 このようなNPCの配置や人々の生活が成り立っているのも、この街――――セントラル・エストの先進性と治安の良さの賜物だろう。他の場所――――同じ首都リネノヴァであっても、この中央区画を外れた壁の外側では、おそらくこのような運用はされ得ない。

 ナノ洗浄ウォッシュによる清潔クリアな外観と、清浄クリーン大気エア

 機構マシン生活ライフスタイルが融合した先進街区。

 巨大企業ALiCEの威光と武力と保証の下、高品質の安全と安寧を確保された、決して淀むことのない日常を獲得した街。

 当然のように保たれている、日々変わりのない光景だ。

 翳りもなく、誰もが疑いなく平穏と富を享受する一幕イデオロギー

 学院内と同じ。このセントラル・エストはそれが許されている場所で、誰もがそうあるべき一つの社会コミュニティだった。――――買い物帰りなのだろうか、瑞々しい野菜と果物、生活用品や菓子の外箱などが詰められた袋を抱えて歩く男の子と、その母親らしき女性とすれ違う。陽光を浴びて輝く果実の赤が鮮やかだった。苦笑交じりに荷の重さを心配する女に、少年は平気だと笑顔で答えている。


 淡々と自宅のマンションを目指して動き続けていた足が、ふいに止まる。

 高い安全性と高品質な生活と、検問を兼ねた防護壁に囲われた、疵のない街。その中央に位置するものへと長い髪がゆらめいて振り返り、少女の美しい黒瞳が細められた。

 晴れ渡る青空――――それを背景に、小高い丘には壮麗な城が鎮座している。

 陽の光を浴びて煌めく、白亜の城壁と尖塔群は染み一つなく美しい。

 お伽の国の造形物であるかのような。非現実的でさえある荘厳な宮殿を見やった無言の黒瞳は、そのまま視線を高く蒼天そらへと向けた。薄い雲の流れる、目に鮮やかな深い色の空漠。寧日を湛えた蒼穹には、ゆるりと飛ぶ鳥の影がある。この街の平穏の気配は満たされて沈むことなく、空高くどこまでも続いている。


 ――――だから、もし飛べたとしても、きっとここからは逃げられない。


 喉元までせりあがる窒息感。

 青空を映す黒瞳の中に閉塞が過ぎる。緩やかな頭痛がした。

 目を閉じて、踵を返して。

 そうしてまた意識の焦点をこの現実へと合わせる。

 長い黒髪をゆらめかせ、少女は雑踏の中を歩いていく。


 ◇


 住処である古ヶ峰マンションは、高層ビル群の中に紛れて立っていた。

 下から見上げれば雲まで届きそうに聳える背の高さ。洗練された線形フォルム

 それはこの先進特区にあっても、本来なら十代の少女が一人で住むには似つかわしくない、富豪向けの高級邸宅ハイヤーコテージだった。

 脳内チップと連動した、三次元光学精査による生体認証バイオメトリクスを経て玄関広間に足を踏み入れると、広々とした空間には旧世代的クラシックなグランドピアノや著名な画家による絵画、深海の青を湛えるアクアリウムといった観賞物が陳列されている。中央には液状硝子材で球形に覆われた、淡い色の花びらを散らす桜があった。美術館めいたロビーを通り抜け、エレベーターに乗って自室へ向かう。

 物静かで上品な慣性。狂いのないゆったりとした加速度メトロノーム

 辿りついた高層階でもう一段階の認証を経て、自室へ入った。

 背後で扉が閉まると、多少は肩の荷が下りたような気がして無言の息をつく。

 この建物に一歩足を踏み入れた時点で、充分過ぎるほどにこちらのプライバシーは守られているはずだ。堅牢堅固な電子的情報保護セキュリティ――――高度な電子侵入防壁ICEが存在することは、この格調の住居であるのなら当然のこと。

 ただ自宅であるこの部屋に辿りつけたということは、それとは別の安心感をもたらしてくれる。精神的にも――――また、実質的にも。


 語らない黒瞳が一度瞬きし、虚空を浚っていく。

 学生靴のブーツを脱いで艶のあるフローリングに上がると、私室まで進んで腰の装備デバイスと肩の荷物を下ろした。窓を見やると、登校する時には閉めていたカーテンが、光を取り入れるため全て開かれているのが目に入る。閉じるよう脳内端末チップに声もなく囁くと、それらはひとりでに横に引かれて定位置に戻っていった。

 薄闇に包まれた部屋を、水を飲むためキッチンへと横切っていく。

 一つ一つの部屋割りが無駄なまでに広く、それらが使い切れないほどの邸宅だ。マンションの一階層ワンフロアをまるごと占めた物件ではあるが、一人暮らしの恋は全ての空間を使い尽くせてはいない。たまの気分転換と、奥にある一部屋を除けば、キッチンや私室など、生活に必要な場所を必要なだけ使っているのみである。広々とした部屋はどこもがらんとした沈黙を湛えており、生活感に乏しかった。

 喉を潤して私室に戻ると、そのまま胸元に手を伸ばす。露わになっていく白い柔肌。学院の制服を脱いでハンガーへかけると、今度は浴室へ向かう。


 細く白い素足がひんやりとしたタイルを踏む。

 リビングなど他の個室と遜色ない広さの浴室だ。

 壁の二面は非対称光透過素材窓アシンメトリック・ウィンドウで、こちら側からのみ壁の向こう側を視認することができる。澄んだ青空と、遥か高みからの街の展望を壁面に映し出して入浴を楽しむことも出来るが、あいにくと今は暗幕状態ブラインド・タイルだ。広々とした空間の、一段床が高くなった壁際には、大きな円形のジャグジーバスが空っぽのまま息を潜めていた。

 コックが捻られ、薄闇の中で、静かな水音が響き出す。

 シャワーヘッドから温水が降り注ぎ、立ち尽くす少女の長い黒髪を、青みを帯びたさらに深い夜の色へと変じさせていく。白く清冽な裸身は水の飛沫を受け、薄暗がりの中で仄かな艶を帯びていった。首元から形の良い双丘を滑り落ちていく水滴たちは、細い腰元を流れて伝い、柔らかで見目良い尻、そしてほっそりとした脚をなぞっていく。

 目を閉じた少女の、浅い息の音が水音に混じって響く。


 意識を浚う水滴の粒。

 瞼の奥の暗闇へ向かう意識が、その焦点を朧にしていく。

 静かに息を潜めて、シャワーを浴びることは好きだ。

 こうしている間は、厭わしいことを思わずに済む気がしていた。

 正しいことも、相応しくない考えも。無駄であるはずのことすべて。

 この感覚に逃避して、存在の輪郭を溶かして。全ての澱を洗い流すことができるのなら、それはどれだけ幸せなことだろう。

 微睡む胎児のように無防備でいて――――世界を遠ざける雨にうたれて。


 あまりにもささやかな欺瞞だ。漠然とした予感が思考の隅で囁く。

 曖昧になる感覚よりも、確実な経験が。

 判然としない心よりも、冷え固まった理性が忘れさせない。

 ――――一体いつまで、と問われるのなら、おそらくは永遠に。

 どこかに探している答など、はじめからどこにもない。納得のいく未来など、探し方を知らない。はじめから籠の中で生まれてしまった飼い鳥のように、どこかで掛け違いながらも、その正しさを認めてしまっている。行き場もなく、正当性もないこの虚無感と不全感は、だから全てが終わるまで、変わらないままであるだろう。


 心地よい水流が、体を流れて洗い浄めていく。

 単純な音に包まれた、闇の中の世界は求めている居場所に近い。

 …………温くて優しい隔絶は、少しだけ不相応な夢を見せてもくるけれど。

 きっと大丈夫。目を開けば、嫌でもその感覚が取り戻される。

 現実リアルはいつでもすぐ傍にあって、この肌を切実に掴んでいる。


 ◇


 白いタオルを頭に被り、薄闇の中を私室まで戻ってくる。

 品の良く高級感のあるインテリア。一揃いの家具と大きなベッドが清潔に取り揃えられた、ただそれだけの殺風景な部屋。そのまま倒れ伏すように、一人では余白が大きすぎる寝台に上がり込んで横たわった。隅に畳んでまとめてある掛布を取ることもせず、ただ息を吐き出すと、丸くなってぼんやりと虚空を見つめる。

 下着と薄いブラウスだけを身につけた雪花の躰。

 長くしとやかな黒髪が、皺のないシーツの白い海を無造作に漂う。


 軽い倦怠が全身を柔らかに苛んでいる。

 行儀が悪い、と理解していて、けれど身を起こすのが億劫だった。

 誰の目も届かない孤独感。ただの一人で沈黙していられる安堵。

 ここでならようやく人心地がつける気がして、しかしこれも錯覚に過ぎない。

 何にも交わらないように。誰にも見つからないようにあればいいと。

 そう密やかに願いながら、もうずっと、見えない水の底で溺れ続けている。

 この体は回り続ける古時計の針のように、繋ぎとめられたまま。

 ただやって来る朝日と、平穏に照らされた日常を待つことしか出来ないのなら、そこに逃げ場などあるはずもない。


 ぼうとした意識のまま、頭の奥で脳内端末チップに囁きかける。

 薄闇を映す美しい瞳が、何もない虚空に焦点を合わせた。

 電子ネット情報の閲覧。視界にのみ投射されて展開される複数の画面ホロに、今日の出来事ニュースが表示される。

 環境復興に利用できる企業共同開発の微細機械ナノマシンが新たな進展を。巨大企業による統治と技術革新に反発する大規模テロ団体が分裂か。新国際連合AUNとALiCE社との共同軍事演習が予定を近日に変更へ――――。


 音声動画付きの情報群ソースコードは、この現実よりも現実めいている。

 冷たい色をしたそれらの画面をあてもなく追いかけ、眺めていく。

 表示されていく画面では、恋が帰属しているALiCE社の宣伝が多く目についた。傘下の街にいるためか、それともこちらの積み重ねた選好をAIが汲んでいるのか。

 リアルタイムでALiCEの何か新しい声明が発表されたらしく、画面に目立つテロップが差し込まれる。それほどの興味もなく内容を流し見て、ALiCEの一派が紛争の回避を望んでいることだけが印象に残る。企業内外の主流派が好戦的で、調停どころか企業間の衝突を企図しているはずの現状、表に出てくる意見としては少し珍しいと言える。


 やがて一つ息をつくと、少女は全ての視野投射スクリーンを消し去った。

 外界から切り離され、丁寧に保たれた静寂。

 茫漠とした瞳に、殺風景な室内の光景が戻ってくる。

 ――――見えなくなった断片たちは、どこかにあるはずの現実だ。

 紛れもなく存在し、実在するはずの現実。けれどどうせ触れられない、手に入れることの出来ないものなら、それは架空の物語とどう違うというのだろう。

 この街で、綺麗なままに完結できる未来図。何ら不全のない現在。

 疲れ果てて逃避するように。諦念を受け入れているように。

 雑多な五感の届かぬ深みへ潜るようにして、少女は白い瞼を閉じた。

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