第35話 ここにいる理由
次に私が目を覚ましたのは屋敷の自分のベッドだった。なんでもケネスお義兄様が眠ってしまった私を抱えて屋敷に連れ帰ったそうだ。ピピルさん初お姫様抱っこは意識レベル0で33歳妻子ある義兄によって毛布にぐるぐると巻かれたまま運ばれるという、およそ異世界転生とは思えぬ形での実現でしたとさ。
目が覚めたのは良いのだがそれからもずっと眠くてたまらず、睡眠と睡眠の間に辛うじて食べたり飲んだり入浴したりを済ませているって感じが三日も続いた。私が薬に弱かったのと噴水で濡れたせいで低体温症を起こしていた為だったらしい。
馬車に積み込まれ(!?)そうになっているところを保護された私は、一旦その馬車に乗せられ、離宮に移送される間にずぶ濡れのドレスを身ぐるみ剥がれてここでも毛布に巻かれたんだとか。その後どうなって何処で寝ていたのか、多分相当数の方々に裸体を披露してしまったのは間違いないし、寝ていたのは多分『あそこ』だろう。誰に何処までご披露したのか……もう恥ずかし過ぎるので考えるのはやめることにした。
結局オルレア伯と名乗ったあの男は身分を偽って随行員に紛れ込んでいた別人だったそうだ。怖いところですね、異世界。まさか自分が拉致されるなんて物騒過ぎます。
お義父様は王宮に居ながら攫われるとは何事だと激怒して、『こんな所などに居させるものか!』とすぐに私を屋敷に連れ戻すようにお義兄様に命じられたそうだ。それもそうだよね。身体は擦り傷だらけだし薬を打たれたところはしこりができちゃったけれど、それだけで済んだのは本当に不幸中の幸いだったと言ってお義母様は泣いていたもの。こういう事件の結末は、乱暴されるか売られるか、それでなければ殺されてしまうかなのだから。
事件以来私は、お義父様による『ピピルはまだ加減が良くない』という虚偽の報告のお陰で定例の離宮詣でをおさぼりしていた。あちらから異論は出ていないらしいし身体はもう何ともないのだけれど最近気分が沈みがちだったので、特に反論もせずお義父様の言う通り屋敷に篭っている。
その日は晴れて暖かく、私は秋薔薇の咲く庭園でレースを編んでいた。納期の遅れを取り戻そうと余りにも根を詰めて刺繍ばかりしていたので、ちょっと違うことがやりたくなったのだ。近くに青みの強い薔薇が咲いているせいで時折ふんわりと爽やかな薫りがする。思わず顔を寄せて夢中で香りを楽しんでいたら、突然背後から声がして飛び上がるほどびっくりした。
「まだお加減がよろしくないと伺っておりましたがいかがでしょうか?」
ハイドナー氏は相変わらず意地悪だよね。ご覧の通り、すっかり回復しているのは火を見るより明らかだろうに。あのね、笑いを堪えて唇を歪ませるのをやめなさいよ。
「お義父様からは何と?」
「まだ床に伏せっているとの事でしたね」
私は殿下からだという花束を眺めている振りをして惚けようとしたのだけれど、堪え切れずに吹き出してしまい諦めてケラケラと笑った。
「見ての通りですわ。かなり前からね。遅れてしまった仕事も捗りましたもの」
「そのようですね。少なくとも今日やっと床を離れた様子ではないようだ」
私はつられて笑ったハイドナー氏に椅子を勧めた。可愛らしい花束には白いカードが添えられている。
『君の回復を祈念している』
それは癖のない美しい字で、そういえば今まで贈られた物にカードが添えられていたことが無かったので、殿下の直筆を見るのは初めてだった。カーティスさんが殿下は何においても優秀だったと言っていたけれど、おまけに達筆だったようだ。
私はもう一度花束をじっくりと眺めた。淡いピンクのダリアと白い小花、それから斑入りの葉で作られたいかにも女の子という雰囲気のやさしげな花束。私達はしばらく無言だったが、ハイドナー氏が躊躇いながら口を開いた。
「……ここ数日、またふさぎ込んでいらっしゃるとお聞きしました」
「そうですね、流石に堪えました。そのぉ……怖い思いをした事よりもずっと……」
私はレース糸の入っている篭から一通の手紙を取り出しハイドナー氏に渡した。ハイドナー氏が目を通しても良いのかと尋ねるような視線を送って来たので頷くと、彼は封筒から便箋を取り出して素早く読んでからもう一度私をじっと見つめた。
『ピピル・アシュレイド侯爵令嬢拉致未遂事件の主犯は自害、共犯者二名は王宮の牢獄にて殺害されました。どうぞ御安心下さい』
数日前、取引している商会の担当者の名前で送られてきた手紙。筆跡が違うことに違和感を感じながらも誰かの代筆かと思い開けてみたら、書かれていたのはこの一文だけだった。
私は義両親からもケネスお義兄様からも容疑者の身柄を拘束し取り調べられている、としか聞かされていなかったのだけれど、それは私がショックを受ける事を案じての事らしい。お義父様にこれは本当なのかと尋ねると、お前が気に病む事は耳に入れたく無かったと言って激しく狼狽えていたから。
殺されたのは私を運ぼうとした二人の男達、彼らはオルレア伯がテラスに居ると言った男とテラスに居たオルレア伯に似た男達でもあった。私が『奥歯に仕掛ける薬物はあるか?』と殿下に聞いた事でもしやと独房に駆けつけた時には、既に偽オルレア伯は口から血を吐いて事切れており、その横で二人の男達は刃物で刺し殺されていたのだそうだ。
「御安心下さい等と親切そうに……」
ハイドナー氏は悔しそうに呟いた。事件については公にされていなかったのに事情を知り得た人物は限られる。加えて義両親が私には犯人が死んだ事を伏せるだろうと予想できて、更に事実を知ったら私が動揺するのを承知でこれを送り付ける動機がある者も。
「下らないやっかみのせいで三人もの人が亡くなるなんて……しかも二人は自分の意思に反して殺された。口封じされたのでしょう?」
「恐らく。主犯の男はドレッセンの没落した貴族で、グラントリー殿下と頻繁に接触していたようです」
「没落した貴族?家の再興でも持ち掛けられて取り引きに応じたのでしょうか?それなら……」
ゾクリとした寒気が背中に走る。私にはどうしてあの男が仲間を殺した上で自死したのかわからなかった。しかし失敗したとしても口を割らなければ家の再興は案ずるなと言われていたら。彼は自ら確実に自白できない方法を選んだのではないか?
ハイドナー氏は私の考えを読み取ったように頷いた。
「彼は相当グラントリー殿下に傾倒していたようです。言われた事は全て鵜呑みにするほどに。しかしあれ以降グラントリー殿下にそのような動きは無い。単に利用されただけだったのでしょう」
「なんて事を!」
今まではマライヤ様一人が仕組んだ事だった。それも思い付きのような杜撰な物だ。でも今回は違う。グラントリー殿下はマライヤ様の為に私に危害を加えようと前々から手を回して計画的に事を運び、証言する口までもを永遠に塞いだのだ。そして証言が得られない以上グラントリー殿下は不問となる。
「わたくしは、マライヤ様にとってそんなにも目障りだったのですね。だからこんな事に……」
「貴女は何も悪くない」
私は緩やかに頭を振る。確かに彼らは犯罪者だ。それでも自分に関わったせいで命を落としたという事は、私にとって余りにも重い現実だった。
「こんなにありきたりで平凡な人間なんて必要ないのに……。わたくしがここにいるべき理由なんて一体何処にあるのでしょうか?」
ハイドナー氏は眉間を寄せて緑の瞳を細めた。その表情には見覚えがある。あの市庁舎に呼び出された日、断る事などできない話をされて呆然としている私を見た時の切ない目だ。
「ピピル様、貴女は一度も殿下に望まれた理由を問い質すことはなさらなかった。我々はそれを良いことに真実を明らかにせずにいました」
「知ったところで何も変わらないと決めつけていたからです」
初めから殿下の気持ちなんてこれっぽっちも自分に向いていないと判っていた。だったら理由なんて無理に知る必要はない、じっとしていればいつかきっと自由になれると思っていた。殿下から破談にされた気の毒な娘になるのを待てば良い。だからただおとなしく言われた通りにしていたのだ。
「それに、殿下にはお聞きしましたわ。話の流れで言い争いになったのでちょっと興奮してしまって……。けれども殿下は答えて下さらなかった。だからそれ以来理由が知りたいという気持ちを押し込めてきました。それでもハイドナー様は知るべきだと思っていらっしゃるの?」
首を傾げて尋ねる私にハイドナー氏は言葉を詰まらせた。そうして暫く言葉を探しているようだったが、何時もより低い優しい声で語り出した。
「貴女の人生を壊しただけではない。貴女を悲しませ苦しめ傷付けその上命まで危険に晒される事になってしまった。その原因がわたしにあるとしたらどうでしょう?」
「……貴方に?」
予想もしなかった言葉に私は目を見開いて彼の瞳を見つめた。それはガラス玉のように光を失っていて、まるでかつて苦しんで顔を歪めた殿下の瞳のようだった。
「貴方がわたくしに何をなさったのか……わたくしが知りたいというよりも、ハイドナー様の為に知るべきなのですね。だって貴方は謝りたいと思っているのでしょう?何をされたかも知らずに謝られても許して差し上げられませんもの」
貴女には敵わない、と呟いたハイドナー氏がガラス玉のようになっても美しいその瞳を細めて微笑んだ。そして私は捕われたかのように彼の瞳から視線を外す事ができず、心臓が早鐘のようにドクドクと鳴るのを感じていた。
「一年半前、講堂で歌う貴女を見初めたのは殿下ではありません」
私は小さく、でもしっかりと頷いた。ずっとずっと確信していた事に間違いは無かったのだ。それなら殿下が私を縛り付けている理由はどこにあるのだろうか?
疑問を読み取ったかのように今度はハイドナー氏が私に頷く。その緑の瞳は更に苦しみを増しているように見えた。
「これは殿下のわたしに対する罰なのです。我々は何の罪もない貴女を巻き込み、貴女の家族と未来を奪い人生を歪めてしまった。何故なら、それはあの日わたしが……わたしが貴女に恋をしたからです」
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