17

「きてくれると思ってました」

「思ってましたってさあ、おれが来るまでずっとそこにいる気だっただろ」

「はい、もちろん」

 もちろん、じゃないんだよ。といおうとしたところでおれは明日香をしかるような理由がなにひとつないことに気づいた。親が心配しているというのはおかしい。白藤麻紀氏はそんなに心配しているようには見えないというか、むしろ「お前のせいだ」みたいな雰囲気すらあった。だいたいこどもを心配することをことさら周囲におしつけてくるような親にろくなのはいない。そしてそれ以外でいえば明日香に何かを強制する立場にはない。

「それだけですか」

「うん、まあ、ほかにも言いたいことあったような気がするけどわすれた」

 そりゃおれ個人からすればいくらでもいいたいことはあるわけだがいう立場にはない。明日香の意思でもないのに夜中に車走らせやがってとかいえないし、言っても意味がない。

「うそつき」

 強い風が吹いて、張り付いた制服から痩せた身体が浮かび上がった。なびくような髪はもうない。

「ほんとうは言いたいこといっぱいあるのに、言わないだけでしょ」

 なぜか裸足だったことにおれはいまさら気づいた。寒くなくなっていることにも。

 いいようのない不快感をおぼえた。明日香の痩せた身体にではなくて、明日香がこれからしようとしていることと、おれがどうこたえようとしているかと、その結果としておれたちがどうなってしまうかがいちどに見えたせいだ。どうして人間というのはいつもそうなんだ。勝手におれの知らないところでおれの知らない感情を積み重ねて持ちきれなくなったところで投げつけてくるんだ。ふざけんなよ。こっちだって生きてんだよ。できるだけ死なないために感情をできるだけ押しころしておれは生きてんだよ。そう見えないかもしれないけど。どうしておまえらばかりがそうやっておれにサンドバッグみてえに感情を押しつけてくるんだよ。いいかげんにしろよ。いいかげんにしろよ頼むから。

「ほら、またいいたいこといってない」

 明日香の両腕がのびた。ふりほどきたいしふりほどくべきなのだろうけれどからだがうごかない。

 小説とは感情の塊なのだよ。

 国語教師のことばがふいによぎった。おれが小説を書けなかったこと、明日香に出会って何か書けそうになったことがつながってショートした。脳の高電圧に視界がしびれる。

 そうか。そういうことだったのか。

 宮本も志村も、「女」に出会ってしまった。それが原因でかれらは死んでしまった。志村の文章はもう感情のかけらもなかったし、宮本の最後の小説はまるで断末魔だった。自らの「存在」すら捧げて祈るほどのものをかれらは見つけた。そして、それは、たぶん、いや十中八九「女」だ。そう思った。そう思っていたかったから。

「いえないことだってあるよ、あるんだ」

 やっとの思いでどうにか会話になりそうな言葉をひねりだした。ほんとうはもう明日香と会話したくなかったし、する必要もなくなったのに。明日香がかわいそうな気がして涙があふれた。おれはやっぱり彼らを殺した「女」が憎くてにくくて仕方がないのだ。たしかに彼らはだれがどう考えようが正真正銘折り目正しく完璧に「自分の意思によって」死んだわけで、その「女」に殺されたわけでもなければそもそもそれが「女」である保証だってまったくのところなく、つまるところおれが生み出した「女」はおれ自身の単なる理不尽なミソジニー的妄執以外のなにものでもないことをおれはこのとおり知っているが、知っていてもなお、いや、むしろ知っていたからこそ、この「女」を生き埋めにしてやりたいほどの憎しみを抱えなくてはならなくなってしまった。そして突然現れた白藤明日香にそれをいちどに押し込めてやらねばならなかった。だからおれは明日香を徹底的に拒否しつづければならなかった。おれ自身が明日香をどう思っていようがそんなことはおれには関係ない。これはそういうものだ。理不尽だし不誠実だしそんなことはわかってるけどやらなきゃいけないんだわかってたまるか。わかるかこんなもん。

 明日香の目をまともに見れない。怖い。

「母には恋人がいるんです。喫茶店のオーナーなんですけど。こっそり会ってるんですけどわかるんです」

 だからなんだよ。

「結婚するのに邪魔なんですよねわたし。男の人嫌いだし、わたしにとって父なんてひとりしかいないし増える余地すらないし。いいひとなのはわかっているんですけど」

 明日香は寂しく笑った。なんの理由にもならない理不尽さによって、明日香がおれや自分を傷つけるのだとしたら、おれが明日香の目をまともに見れない理由になるはずだった。からだに無数の細い糸がまきついて動けなくなった。これ、ガリバーじゃない。蜘蛛に捕食される虫だ。でも蜘蛛はだれなんだろう。わからない。明日香じゃない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る