驟雨、あとを濁さず

ひざのうらはやお/新津意次

1

 しん、と冷たい雨が降る。秋が終わった。なんとなく身体が傾いてセンチメンタルに引き込まれる。がらんとした、安っぽい部屋。もうすこしして冬になれば生徒たちは忙しく殺気だって夜の十時過ぎに残っているやつらを追い出す作業が追加される。いや、ここの生徒は結構のどかだからあんまりそういうことはないかもしれない。どっちだよ。実際はどっちもありえる。そう、その年による。

 はながむずむずしてくしゃみをした。くしゃみをしてもひとりってだれか自由律俳句にしてなかったっけ。なんか違ったような。書き終わった日誌を印刷してパンチで穴をあけ、フラットファイルに綴じてため息をつく。時計を見たら十一時。眠い。昨日明け方までゲームをやったせいだ。最近のゲームはキリのいいところがなくてやめさせてくれない。自分でやめどころを作らないといけないから、怠け者のおれには向いていないのかもしれない。

 警備システムを作動して通用口を閉める。目の前の広い道路を路線バスがものすごい速度で通過して水しぶきがかかる。冷たい。夜でよかった。「下高見団地」と表示された電光掲示板はまだ赤い縁がない。あと一本か二本くらいはあっただろう。一方で新宇佐見駅まで向かうバスはもうない。ビルの周りを懐中電灯でひととおり見てから、細い路地を挟んで反対側のアパートに帰る。ドアの前に小さなごきぶりがひっくり返っていた。危うく長靴で踏み潰すところだった。外でひっくり返っているごきぶりはどうしてこんなに悲しいかたちをしているのだろう。おれ以外のだれかに殺虫剤をぶっかけられたのか、それともこの寒さからの自然死か。いずれにせよねぐらを追い出されてしまったのだろう。珍しい。はえたたきはもちろんスリッパや新聞紙すらもっていなさそうな住人ばかりだし。家賃を眺めるとそうとしか思えなくなる。おそらく学生か、おれみたいに「定職」がないか、そんな人間しか住めないような激安物件。しかもおれはその家賃すら払っていない。

 「新宇佐見教習会」は自動車教習所をならって名付けられたそうだが、いまや発足当時の学習塾の面影はない。ほんの二、三年前まで何人も講師を抱えていた地元でもそこそこ評判のいい学習塾だった。経営していた叔父が脳梗塞で倒れてから、副塾長の渾身の裏切りで講師をすべて引き抜かれ、残ったのはそれでも通っているおとなしめの生徒たちといやにがらんとした教室だけになった。どうしようもないから閉めるつもりだったのだが貸し主が渋った。貸し主というのは叔父の実兄、つまりおやじだ。こんな住宅地に建てた雑居ビルを好きこのんで借りようとする人間は少ないのだろう。多少安くするから借りたままにしてほしいとかいきなり出て行かれるのは困るとかとぐだぐだぐだぐだ言い張っていた。まあ、いちばんは面倒だからなんだろうけど。叔母のぷるぷる震えている唇を見て、このままだとおふくろの二の舞になりそうだと思ったおれはどうにか場をなごませようと「じゃあ有料自習室にしたら」と冗談を言ったら見事にそれが採用され、言い出しっぺとして「室長」にされてしまった。もちろんただの肩書きで実際は「お目付役」とか「警備員」とか「犬」とかが近い。まあ給料は払ってくれるし別に大した仕事はないしなによりおれはそれまでは無職つまりぷーたろうだったわけで渡りに船と言えなくもないから、いちおうしぶしぶうなずくしかなかった。労働なんてしたくはないしおれが労働なんてものを継続的にできるはずがないのだがこれは珍しくどうにかこうにか年単位で続いていて、やめようともそんなに思わない。給料は安いけれど家賃がタダなのと毎日コーンフレークだのカップラーメンだのカロリーメイトだのを食っていてもさほど体調を崩さないことが幸いして生活に困るほどお金がないことは今のところなかった。そう思ったらコートの袖が思いっきりすり切れていることに気づいた。まあ、寒さがしのげなくなるわけでもないし別にいいか。そのコートを玄関先にかけて靴を脱ぐ。靴下を見るとひとさし指に穴があいていた。どうりで親指が変な感触だったわけだ。こういうのは気がつくと勝手におふくろがつくろってくれていたわけだがそのおふくろは半年前におやじと離婚して今は千歳に住んでいる。一年前くらいからしきりに唇がぷるぷるしていたのだが、どうでもいいと思って見過ごして気がついたらこうなっていた。この宇佐見から快速電車で三十分くらいの場所にある県庁所在地だ。宇佐見は千歳県の北側、西の端にあって、千歳は中央よりやや北にある。千歳県は南東に大きく張り出した半島とその付け根に位置していて、西以外の三方を海に囲まれているから、必然的に都心に近い西の方が都会だし、なんならおれは千歳の方が宇佐見より田舎だと思っているふしがある。人口密度だけで言えば宇佐見市は千歳県どころか東京を除いた関東地方でもトップクラスらしい。どこかで習った。たぶん小学校の塾だったとは思うけれど。さすがに日付が変わる寸前だし、これほど寒いとお湯すら沸かすのがおっくうになったのでめんどくさくなってシャワーを浴びて寝た。もちろんごきぶりは見なかった。

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