第2話 悪役令嬢との邂逅
はたと気がつくと、俺は横になって布団に包まっていた。目を閉じる。
全くもって変な夢を見た。今は何時だろう。
枕元に置いてあるはずのスマホを探るが、指先に触れない。仕方なく布団を跳ね除けて上体を起こすと、目の前に
ここ、どこだ?
ぐるりと見渡し、自分がホテルのような巨大なマットレスの上に寝ていたことに気がつく。暗いのはベッドを囲うカーテンのせいらしい。厚手のそれを少し開くと、見覚えのない部屋がそこにはあった。
まだ朝の早い時間のようで、熱のない日の光が大きな窓から広い部屋の中をぼんやり照らしている。品のいいピンク色の壁に、優美な絵画。設えられた高級そうなアンティーク調の家具。写真などで見たことがある迎賓館やヨーロッパの宮殿の一室といったところだろうか。
なぜこんなところに俺が。
厚いカーテンの間からそろりと脚を出す。一歩を踏み出した足元見た瞬間、甲高い声が自分の喉から出た。
「へっ、なにこの脚、ていうか何この服⁉」
すべすべとした華奢な裸足の脚と白いワンピース。慌ててベッドの外で身をひねって全身を確認すれば、体の動きに合わせて金髪が舞う。関節の目立たないふっくらした小さな手。顔に当てれば輪郭がすっぽり入る。顔も小さくなっている。何よりも、目線の高さが違う。
部屋の隅に置かれた鏡台へ走り寄る。
「ええええええええっ⁉」
鏡の中では、金髪碧眼の美少女が驚愕の表情をしていた。頬に手を当てると、鏡の中の美少女も頬を触る。鏡を見つめながら、服の上から胸、腰、股間に手を滑らす。今までの人生にはなかった凹凸がついていて、あるべきものがそこにない。
混乱のままに呆然としていると、背後から声をかけられる。
「おはようございます、お嬢様」
振り向くと、女性が2人、ドアの側で軽くお辞儀をしている。前に立っているドレスを着た若い女性が俺に声をかけたらしい。優雅な礼の姿勢からゆっくりと上がるその顔を見て仰天する。よく見知った顔――先輩だった。
なんで先輩が⁉︎ お嬢様って⁉ この状況は一体何なんだ⁉︎
混乱する頭に反して、唇は滑らかに開いた。
「ええ、エマ。おはよう。今日はあのピンクのドレスがいいわ」
「承知いたしました」
は、今喋ったの、俺? というか、この人は先輩じゃないのか?
エマと呼ばれて返事をした先輩にしか見えない女性は、鏡の前の長椅子に洋服を準備する。もう一人の黒い服の年配の女性はキャビネットの上の洗面器にお湯を注ぎ、ベッドメイキングを始めた。
俺の体は、俺の意に反し、勝手にテキパキと動く。ゲームのコントローラーが馬鹿になったような感覚だ。俺の操作無しに、洗面器のお湯でおしぼりを作って顔と体を拭き、薔薇の匂いのする化粧水をつける。咽せるような香りのするパウダーを大きなパフで体に擦り付け、不自由ない手つきで白タイツをはいてリボンで留めた。
椅子にかけて脚を投げだせば、靴が履かされる。年配の女性がバックルを止めながらくすくすと笑う。その親し気な声に気が抜ける。
「嬢ちゃま、また高いところから落ちる夢でも見たのですか? さっきは声が階下まで聞こえましたよ」
そう、落ちる夢を見たは見たが、……まだ夢の中にいるようだ。
エマという名の若い女性も年配の女性も、俺の混乱に気づかないらしい。遠慮なしに薄いスカートを被せてくる。俺の体は慣れたもので、さっとかぶっては腰まで落としていく。
何枚着させるつもりだろう。
何枚もスカートを履いて、ようやく別の衣類――肩紐のついた固い胴当がきた。やれやれ、と腕を通して下に着ているシャツの脇を引っ張る。直後、夢心地の脳みそを揺さぶるような締め付けが腰元を襲った。
「!」
何事かと背中を鏡越しに見ると、エマが紐を縫うように手繰り、胴当てを下から締め上げていた。女性の服や服飾史などに詳しくない奴でも漫画やアニメで見たことがある補強下着。コルセットである。
あまりの苦しさに呻き声を上げると、部屋に入ってきてから初めてエマが笑った。しかし手は止まらず、腰の圧迫はどんどん増していく。
「お嬢様。我慢、ですよ。これくらいで根を上げては、明晩の舞踏会で陛下や殿下の前で恥ずかしい思いをされます」
舞踏会、陛下、殿下、単語は拾えたものの、苦し過ぎて考えられない。
コルセットが終われば、スカーフやら、剣道の垂れのようなものやら、ネックピローのようなものやらがつけられ、また何枚ものスカートを頭からかぶる。後ろの長い上着に腕を通すと、俺のイメージするドレスの形になってきた。
仕上げに、ピンクのバラのついた胸当てを当てられる。上着と胸当てを繋ぎ合わせる方法は、なんとコルセットに直接まち針を刺すだけのようだ。安全ピンならまだしも、剥き出しの太い針を突きつけられ、俺は思わず目を瞑った。
「さあ終わりましたよ」
目を開けると、鏡の中には等身大の美しいお人形が居た。
先程鏡見た時も思ったが、まごうことなき美少女である。豊かな金髪がシミひとつない白い肌と海のような青い目を際立たせている。
これで準備は完了らしい。女性たちは側に並び、仕事の出来栄えをああだこうだ言っている。
「朝食はいかが致しますか?」
「今日は少し体調が優れないの。部屋で頂くわ」
どう返すか迷う間もなく、唇が動く。
俺の言葉にエマと黒い服の女性は顔を見合わせた後、くすくすと笑った。
「あらあら、まあまあ。嬢ちゃまはそんな薔薇色のほっぺで、体調が悪いなんて」
「明日のことで緊張しておいでなのですね。そのように致しますわ」
二人はにこにこと一礼をして、洗面器を持って部屋から出て行く。
まるで子供扱いだ。それにしてもこんなぎゅうぎゅうに締め上げられたら、入るものだって入らないだろう。派手に動いたら、さっきのピンが抜けて体に刺さったりしないだろうか。
くるりと一周回って、ふんわりと広がるスカートを見て考える。
あまりにもリアルな夢の続きか、タイムスリップか。それとも流行りの異世界転生か。いや、やめよう。あまりも突拍子がない。きっと、ゲームの設定を考えすぎて、明晰夢を見ているに違いない。
ふと鏡を見ると、美少女がこちらを睨んでいる。いくら胸が苦しいとは言え、こんなにきつい表情をしているのだろうか。鏡台に近づくと、鏡の中の美少女が叫んだ。
(貴方、私の体をどうする気⁉︎ 私がグランテラー公爵家のファナ・レジーノと知っての狼藉かしら?)
「は?」
ファナ・レジーノ。
雷に撃たれたような衝撃が脳みそに刺さる。その瞬間、さっき見ていた夢の断片が急に脳裏をよぎった。あれもこれも夢ではない。
『君は<君の作った世界>で、製造責任を果たすんだ』
金髪碧眼。主人公と同い年で女神の祝福を受けている。王子の婚約者予定だった公爵家出身の悪役令嬢。
設定した通りだ。
鏡の中の顔には、真っ青な顔が映っている。
頭の中を洪水のように駆け巡るのは、ファナの十五年間の人生の記憶。優しい父母、生意気な弟、乳母とお気に入りの女中、領地、国、国王陛下、王太子殿下、春の舞踏会、女神――。
「起きなさい、ファナ!」
「ファナ! ファナ! しっかりしなさい!」
いつの間にかドレッサーに突っ伏していた顔を上げると、心配した表情の公爵夫妻がこちらを覗き込んでいる。
「……大丈夫です、お父様、お母様。明日の舞踏会で殿下とダンスを踊ることを思っていたら、緊張してしまって」
ファナの言葉に、夫妻の表情が晴れる。後ろに控えているエマとナニーもほっとした表情だ。
ドレッサーに青い顔をして伏したファナを見て、大慌てで連れてきたのだろう。いつもきっちりとまとめられたエマの髪が少し乱れていた。
「ごめんなさい、心配させてしまって。ファナは駄目な子ね……」
目を伏せると、公爵が優しく肩を抱き、公爵夫人が乱れた前髪を直してくれる。
「さあ、もう大丈夫だ。まだ朝早いが、昨日はちゃんと眠れたかい? 朝食を食べれば、きっと気分もしゃきっとするよ」
「今日はゆっくりしていなさいね」
こくりと頷くと、ナニーが食事の載ったトレイを長椅子のそばに引っ張ってきたテーブルにおく。
「さあ嬢ちゃま、こちらにおかけになって」
公爵に支えられて立ち上がり、長椅子によろよろと座る。ナニーに握らされたカラトリーを持ち替え、炒り卵に手をつけるのを見届けると、公爵夫妻もエマも安心した様子で、ゆっくりと後ろに下がった。
目に入れても痛くないとばかりの愛情に感謝しながら、これからのことを考える。学園に行くようになったら、ファナは主人公と対立し、身を滅ぼすことになる。その時、ファナはこの優しい彼女の両親の心と名誉をずたずたに破り去るのだ。
「オセローも、もう心配しなくてもいい」
「貴方も朝食に戻りなさい」
入り口のあたりで夫妻の声が聞こえる。
顔を上げると、扉の隙間から、金髪翠眼の少年が顔を引っ込めたのが見えた。
オセロー・レジーノ。悪役令嬢ファナ・レジーノに幼い頃から虐げられ、女性不信気味になっている陰気なキャラクターだ。主人公との交流の中で、人間的な温かみを取り戻す。攻略対象の一人だ。
ファナ、オセロー。明日ダンスをする殿下とは、王太子のエドワードのことだろう。考えていた設定集の名前が3人も出てきて、ここは自分の作った世界なのだと確信してしまう。
「ああ、どうしよう?」
ぽつりとついこぼした言葉を、ナニーは違う意味にとったらしい。心配ありませんよ、と優しく肩を撫でてくれる。ファナがこの家を破滅させたら、この乳母も稀代の悪女を育てたとして路頭に迷うのだろうか。
みんなが部屋を出て行くのを見送りながら、何度もどうしたらいいのかとしきりに呟いてしまう。それほどに、もうファナの精神はギリギリだ。多弁症的に言葉が溢れ出してくる。
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