蠢疵 〜 Shung Xi 〜

澤田啓

第1話 入滅前の世界にて

 いつの頃だったろうか、夕食後の団欒だんらんに自分の居場所を喪失うしなってしまったのは。


 結婚し20年を共に過ごした妻と、思春期を迎えた二人の娘たち……家族と呼ばれる社会の構成単位、個の次に最も小さミニマムな組織に於いて、私が私であることの存在意義レゾンデェトルを見出すことは、非常に困難を極める探索行クエストであった。


 それは家族の構成員として私だけが男性であり、他の三人が女性であるからだと云う性別の差異ジェンダァ・ディファレンス所為せいなどと、単純にカタを付けるには違和感のある……極論を述べるとするならば『私だけがこの家族とは縁もゆかりもない、妻はおろか血を分けた実の娘たちですらであり……互いに互いの無関心と疎外感と空虚な関係性を持て余しているのではないか』と知覚されるような空気を漂わせて日常生活を送っていたのであった。


 そんなヒリヒリとした焦燥にも似た違和感を覚える暮らしが何年か続いた私の自宅は、私にとって憩いや安寧とは無縁の存在であり……何時しか仕事の多忙にかこつけて、早朝に出勤し深夜に帰宅するべき『ただのねぐら』じみた場所に成り果ててしまっていたのだった。


 その日は夏の終わり間近であったが、朝から……いや、その数週間前から降り続いていた長雨の所為せいで、肌寒く感じさせる気温の日であった。


 長く降り続いた雨の影響で地盤は緩み切ってしまい、あらゆる土地の保水能力は最大限マキシマムまで到達し、この国の各所で土砂災害や土石流による被害が報じられ、私が棲む県内にあっても土砂災害警戒情報がやかましく携帯端末スマァトフォンの通知欄を埋め尽くしていた。


 そして遂には旧・国営鉄道JR西日本の路線も、線路下の砕石道床バラストの更に下に在る土砂が流出するに至り、本日の日中より計画的な運休を行うこととなってしまったのだった。


 こんな日に通常通り社員を終電間近の時間帯まで働かせ、支給済みの定期券を用いればそれ以上の支出がない筈の電車が運休し、万が一にも土砂災害に巻き込まれる社員が居たり、タクシィ・ティケットを支給する羽目にでも陥れば……企業としての損失は過大になるとの見通しから、出勤している全社員に対しての即時退社が命じられる運びとなった。


 私自身まるで気乗りしない早仕舞いの終業時間を迎え、牢獄が如き我が家への帰路に着いた。


 両の脚はおもりを据え付けられたかのように鈍重に、そして文字通り足裏を引き摺りながら家路への道程を歩いた。


 このような時間帯に帰宅したとしても、家人の『何をしに帰って来たのだ』と責め立てるような視線に晒されることは自明の理として判り切っていたからだ。


 果たして午後四時過ぎに帰宅した私を迎える家族と名付けられた記号に過ぎない異性の群体は、私の予想を大きく違えることなく、無関心で冷徹な乾燥した視線を私に送るだけであった。


 無言の行を課せられているかのような娘たちはさて置き、私の戸籍書類上は配偶者である女だけは、乾涸ひからびた砂を口腔内に詰め込んだようなひび割れた声で私に告げた。


「こんな時間に帰って来られても……家には何もないから」


 冷凍乾燥フリィズ・ドライされた野菜が耳に入り込んだ不快感にも似た一言を聞いた私は、自室へと戻り着衣を着替えるや否や……安物のビニィル傘と財布だけを手に、我が家から解放される安堵の想いと共に家を出た。


 針のむしろのような食卓に着座し、何の味がするかも判別しかねる砂岩の如き冷えた固形物を、塩素臭い水道水で流し込むだけの食事と対比して……何の肉を用いているのか不明であったり、外国産の薬剤散布でまみれた野菜を多用したり、合成甘味料や保存料や着色料を多用しまくったりするファアストフゥドがもたらす、濃厚かつ舌に味蕾に突き刺さる刺激的なビリビリとした味こそが、私は生きて栄養を補給しているのだと云う実感を確固として伝えてくれているような心地になれたのだ。


 そうして食欲を満たして篠突く驟雨の最中を、人心地のついた安心感と一時の孤独を金銭であがなった私は、再度の帰路に着くこととなった。


 一度目の帰宅と比較しても、その後に自宅で過ごす時間を幾ばくかでも短縮することが叶った私は、穏やかな心持ちで歩を進めていた。



 自宅までほんの百メェトル程の距離に達した時のことだ、閑静な住宅街である私の暮らす町……実際には住民の高齢化が進み、過去にはニュウタウン等と呼ばれた町がオゥルドタウンと化してしまった、寂れて緩やかに滅亡への歩を進んでいる中身がスカスカのハリボテみたいな街区であるのだが、その死に逝く者の静寂を打ち破るように、眼前の家屋から女の悲鳴と男の怒号……そして複数の人間が相争う物音が立て続けに発生した。


 この界隈で暮らす、地価が高騰しバブル景気が華やかなる頃に……現在の四倍から六倍の価格で土地や建物を購入した、旧世代の遺物である自称・上級町民にしては荒々しい声と物音を立てているなぁ。


 などと対岸の火事について、のんびりとした感想を抱きながら歩みを止めることなく、ノロノロと一歩ずつ脚を運んでいたのだが……私がくだんの家を通過し終えた時、私の背後で玄関扉が荒々しく開放される音と、鉄製の門扉がこちらもまた乱暴に開け放たれる音が、相次いで発生したのだ。


 うっそりと胡乱な表情と目つき(で、あろう)私が振り返ると、そこには___________



第1話 入滅前の世界にて【了】

2021.9.11 澤田啓 拝

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