知らない過去
「あれはまだ、私が五歳のときでした。お兄様はいつも私のことを心配されていて、どこへ行くにもついてきてくれたのです。
その日は初めて読んだ昆虫図鑑の蝶の模様に感動して、近くの山に登りたいとせがんだと覚えています。お兄様は私のわがままに嫌な顔一つせず連れて行ってくれましたわ。
女の子ですのに虫取り網でカゴいっぱいに蝶を捕まえて、奥へ奥へと進んでいくと、どこかから喉を鳴らして威嚇する声がしたんです。いつの間にか縄張りに入ってしまっていたのでしょう。目の前に狼が一匹、私を睨みつけていました。
私が気づいた時には、お兄様は私の手を取って走り出していました。私の体は恐怖で固まってしまっていたのに。足元の悪い山道を必死に走りました。今になって思えば、獣は背を向けて走るものを獲物として追いかけると言いますから、ゆっくりと後ずさりすればよかったのでしょうが、当時の私たちにはそんなことわかるはずもありません。
必死に逃げているうちに道がわからなくなり、道を踏み外して斜面に体が投げ出されてしまいました。その瞬間、私の体が優しく包まれたことをはっきりと覚えています。私の小さな体をお兄様がしっかりと抱きしめてくれたんです。
目が回るほど何度も世界がひっくり返って、私はすっかり気を失ってしまいました。目が覚めると私は病院のベッドに寝ていました。けれど私の体には傷一つついていませんでした。お兄様が私を守ってくださったんです」
僕の妹はそう言って誇らしげに慎ましい胸を張った。自慢しているのは僕のことのはずなのに、どこか他人事のように聞いていた。子供の頃の話を聞いても、自分の過去の話だとは到底思えない。ましてや自分の名前を思い出せるような気配もなかった。
「思えばあの時からお兄様は英雄になる運命だったのですね。私を置いて出て行ってしまったときは少し心細かったですが、私は一秒たりともお兄様が負けると思った時はありませんでした。今お兄様は新しい困難と戦っておりますが、私はお兄様ならきっと打ち勝ってみせると信じています」
僕の胸にそっと寄りかかって、妹は僕に体重を預ける。髪からふわりとした花の香りが漂う。血のつながった妹のはずなのに、こうしていると心臓の鼓動が早くなる。
耐えきれずに体を押しのけると、名残惜しそうに潤んだ目が見つめていた。
「お兄様にとって今の私は見知らぬ誰かなのでしたね。でもいつかすべてを思い出しましたら私をもう一度抱きしめてくださいませ」
妹は僕をもう一度しっかりと抱きしめると、寂しそうな瞳を向けて食堂を出ていった。その背中にかける声も見つからない。
結局一度も彼女を抱きしめてあげられなかった。その理由もその権利も、僕には何も思い出せなかった。
「ご心配なされませぬよう」
僕のやや下に向けた顔を覗き込むように五十一番がぼそりと呟いた。妹との再会を邪魔しないよう消していた気配がぬるりと僕の肌に忍び込んでくる。
本当にただの医者なのだろうか。奇妙な気配が背筋を撫でる感覚がするのは、僕も知らない僕の英雄の勘なのだろうか。
「お食事にはご満足いただけましたでしょうか。よろしければどうぞこちらへ」
五十一番が向けた手の先へと視線をやると、メイド服を着た女性が二人立っていた。胸元の名札には二十八番と四十二番とある。この二人も番号で呼べばよいのだろうか。
促されるままに二人の後をついていく。長く続く廊下は少し異様な光景だった。食事をしていた部屋はあんなにもきらびやかに飾られていたというのに、この廊下は少し物寂しいというのだろうか、丁寧に掃除はいきとどいているが飾り気が少なく部屋から出ただけで別世界に迷い込んだような錯覚がする。あるいは僕の記憶が
「こちらへどうぞ。すでに準備はできております」
似たような扉がいくつも並んでいる中で、立ち止まった四十二番が一つの扉の前で止まってそう言った。扉の形を見てもその先は何があるのかよくわからない。ただ僕は言われた通りに中に入るしかなかった。
薄い蒸気が顔を撫でる。靴を脱いで中に進むと竹編みの床の足触りがおもしろい。ここは風呂場だ。体を洗って清める場所。温かい湯に浸かって疲れをとる場所だ。服を脱ぎ、風呂へと続く扉へ向かおうとして、ふとあって当然のものに気がついた。
「鏡だ」
その使用方法を思い出して慌てて駆け寄った。僕の顔が映る。ずっとすぐ側にあったのに初めて見る顔だ。
妹の顔を見ていたから歳はせいぜい二十半ばだろうと思っていたが、想像していたよりもまだ幼さの残る顔立ちに見える。優しそうな目元に整っていないぼさぼさの髪が乗っている。長く眠っていたのだろうか、頬は少し痩せこけているように見えた。歴戦の英雄だと聞いていたが、体には小さな切り傷のあとはあっても大きなケガはない。人類の敵を倒したという僕は相当に強かったのだろう。しかし、自分の顔を見てこういう感想が出てくるのもおかしな話だ。
それにしてもこんな頼りなさそうな人間が本当に英雄になんてなれるのだろうか。強い人間は戦っていなくともある種の凄みがあるはずだ。鏡に映る僕の姿からはそれが一切感じられない。やはり人違いなんじゃないかという疑念が浮かんでくる。
「いや、弱気になるんじゃない。僕はきっと強かったんだ」
幾多の敵を前にしても傷一つ受けない最強の存在だったに違いない。そう思わなければ。忘れてしまった記憶を取り戻せば、その事実もはっきりするだろう。
温かい湯に体を沈める。手足を伸ばしてもまだゆうに余る湯船に身を預ける。瞬間、浮力と正反対の方向に疲れがのしかかってきた。そういえば次々に知らない顔が出てきて頭を整理する時間もなかった。
僕を英雄だと呼ぶ男、僕を兄だと慕う少女。どちらも僕は知らないのに彼らは僕を知っている。
「お湯加減はいかがでしょうか?」
目を閉じて考えているところに、遠くから二十八番の声が聞こえる。
「えぇ、とてもよいですよ」
「それは結構なことです」
次の答えはずっと近くに聞こえた。慌てて目を開けると、湯船のすぐ側に二十八番が立っている。メイド服のまま、足元が濡れるのも気にしていない。
「どうして中に」
「お背中をお流しします」
「一人でできますよ」
歳は四十半ばほどか。先ほどの妹ほどではないにしても、湯の中は真裸の僕の隣に女性が立っているのはやたらと恥ずかしい。母に風呂場を覗かれたような気恥ずかしさがある。
「手は届きますか? 石けんの使い方はわかりますか?」
「わかります! 自分のこと以外はきちんと頭に入っていますから!」
湯船に肩までしっかりと浸して体を隠しながら僕は反響するほどの声で叫んだ。二十八番はまだ何か言いたそうだったが、僕ののぼせそうな顔を見て渋々浴室を出ていった。
まるで母のようだ、と思う。母というのはいつまで経っても子供は子供のままで、ああして世話を焼きたがるものだ。はて、僕の母がそうだったのだろうか。二十八番を見たときに母のようだと思ったのは世話焼きする姿が自分の母に似ていると思ったからだろう。母はどんな人だったのだろう。僕たちを捨てたと言っていたけれど。あの妹に聞いてみるのもいいかもしれない。
脱衣所に二十八番の姿がないことを確認してから、ゆっくりと浴室から出た。体を拭いてかごの中を見ると、目覚めたときに来ていた白いローブのような柔らかいものではなく、詰襟に金色のボタンがついた深緑のものが入っていた。
「これを着ろ、ってことかな」
袖を通すと厚手の生地がずしりと重い。見た目よりもしっかりと生地が詰まっているらしい。軍服、という言葉が思い浮かんだ。僕は軍人だったんだろうか。しかし、五十一番の話だと僕は一人で世界の仇敵である魔将とやらを倒したという話だった。たまたま余っていたのがこの服なのか。それとも僕がこの服を気に入って着ていたんだろうか。
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