何も知らない僕はこの世界で最強な件
神坂 理樹人
知らない部屋
目を開けると、淡い光を放つランプが枕元で揺らめいていた。
手に持って辺りを照らしてみると、薄暗い部屋は三人ほど寝転がればいっぱいになってしまいそうなほど狭い。今起き上がったばかりのベッドの他には小さな机と椅子が一組あるだけで、なんとも殺風景だった。
壁には厚手の布が隙間なく貼りつけられ、手で触れると柔らかな反発が返ってくる。窓もなく、天井には換気用と思われる小さな格子のついた穴が一つ。残るは同じく厚手の布に覆われた扉があるだけだった。
着ているのは下着と一枚布に穴を開けただけのような簡素な服。
いったいここはどこだろう。僕は眠りにつく前のことを思い出そうとした。途端に頭に鈍い痛みが走って、枕に頭を打ちつけた。
「何も思い出せない」
今しがた目を覚ましてから見た光景以外、すっぽりと抜け落ちたように行動が消えてなくなっている。
僕の手にあるものが明かりを灯すためのランプであり、火をつけることで使えるようになるということははっきりとわかるのに、それをどこで知ったのかはまるで思い出せない。奇妙な気分だった。
それに。
「僕は誰なんだ?」
この場所もそうだが、僕自身が誰なのか。その部分についても思い出せることは何もなかった。
名前も顔も年齢も。
無意識に自分の股をまさぐって、そこにあるものを確認した。自分の性別が男であることだけはわかったが、それだけだった。
僕はランプを手に、ゆっくりと唯一の入り口である扉へと近づく。扉には小さな格子窓がついていて、そこから外の様子が窺えるようだった。あるいは扉の外から誰かが僕を監視するためにあるのかもしれない。
窓を覗き込むと、長い長い廊下が見えた。やはり淡いランプの光で少しばかり照らされているだけで薄暗く、その先は闇になって見ることができない。どうやらここは廊下の突き当たりにある部屋のようだ。
扉の取手に手をかける。予想はしていたが、回してみても扉が開くことはなかった。
「当然か」
僕は落ち着いてもう一度この狭い部屋の中を照らしてみる。
およそ生活するには足りないものが多すぎる。ここが僕の部屋だとして、自ら選んで入った場所ではないことは間違いない。牢獄か、あるいは何か別の理由で閉じ込めておく必要があったのだろう。
壁に貼り付けられた布は僕が怪我をしないためのものだ。僕はついさっきも痛みから逃げるように枕に頭を打ちつけた。これが硬い壁だったら。結果を想像するのは容易い。
どこか脱出する方法はないか。そう思って見回してみても、換気口は狭すぎるし、この扉は頑丈で、ぶつかってみても開きそうもない。いったいどれほどここにいるのかもわからない。昨夜、普段通り眠りについて今日起きたら記憶が消えていた、ということもないわけではないのだ。
思案するのに疲れた僕はランプを机の上に置き、椅子に体を預けた。すると、扉の向こうから規則的な、廊下を歩く靴の音が聞こえ始める。
誰だろうか。小窓から長い廊下の先を見る。落ち着いた黒のワンピースに白いエプロンをつけた女性の姿が見えた。メイド服、という単語が頭に浮かぶ。歳は四十を過ぎた辺りだろうか。脂肪がついて垂れた両頬が優しさと経験を含んでいるようだった。
ふと目が合う。
その瞬間に優しそうな瞳にいっぱいの涙が溢れ、妙齢の女性は最敬礼のように扉越しに僕に跪いた。
「お目覚めに、なられたのですね」
その声は震えていた。その理由はまったく僕にはわからない。数秒そのままになっていた女性は、立ち上がって僕にもう一度深々と頭を下げると、
「先生ー! 先生ー!」
と高い声で叫びながら廊下の向こうに消えていった。その後しばらくして、今度は何倍にも大きくなった足音が近づいてきた。
薄汚れた白衣を着た男性を先頭にして、同じような白衣の男性がさらに二人。さきほどの女性と同じ姿の女性が七人。合わせて十人。みな神妙な面持ちで僕が閉じ込められた部屋の前に並ぶと、やはり同じように片膝をついて頭を下げた。先頭の白衣の男性が
「よくぞ、よくぞお目覚めになられました。お加減はいかがでしょうか?」
「それはいったいどういう」
僕の疑問に白衣ははっと顔をあげ、一瞬作った悲しそうな表情をすぐに隠して、重々しく答えた。
「やはり思い出すことはできませんでしたか。いえ、あなた様が悪いのではありません。それよりも、よくぞ、よくぞご無事でいらっしゃいました。それだけで私は感無量でございます」
「あの、それってどういう」
僕の質問を
「まずはお食事をご用意いたします。お話はその席でおいおいと」
僕はいつの間にか周囲を取り囲んでいた白衣とエプロンに追い立てられるように廊下を歩いていった。
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