第十三話 見つめる瞳に

2004年8月4日、水曜日


 今日もバイトからどこにも寄らないで直接、俺の住むマンションへと帰宅していたんだ。

「ただいまぁ~~~」

 誰もいない空間に帰宅の挨拶をしていた。

 わかっているけど誰からの反応もないのはちっと淋しいものがある。

 今日は香澄の奴は来ていない。なんでも仕事で今週の土曜日まで出張するって言っていた。

 夕食を食うために冷蔵庫にあったレトルト物をレンジで温めようとしたその時、

『ルルルゥ~~~、ルルルゥ~~~、♪』と電話のベルがなった。

 持っていた物をレンジにぶち込んで、暖めボタンを押してから直ぐに受話器を手に取る。

「はい、柏木です」

「夜分、遅く申し訳ございません、凉崎です」

 かなり懐かしい声に、俺の反応は一瞬遅れてしまった。

 相手の事をすっかり忘れちまったわけじゃない、だから、その人の名前を間違わずに口に出して応対する。

「・・・、秋人さんですか?」

「はい、そうです、宏之君、本当にお久しぶりですね」

「そうですね、でもどうしたんですか?」

「実は・・・」

 それから春香の父親の言う言葉に驚きと自分の情けなさに呆然とするだけだった。

 元彼女?の凉崎春香が三年の月日を隔てやっと目を覚ましたと彼は告げてくれたんだ。そして、今も彼の言葉は続いていた。

「今頃になって君にこんな事を言うのは大変不躾だと思っていますが・・・、・・・、・・・、本当に一度でいいですから娘、春香の見舞いに来てはくれないでしょうか?」

「はい、分かりました、明日にでも見舞いに行かせて貰います」

 何の迷いもなく秋人に答えをかえしていた。

 何でそんな簡単に答えられたんだ?それは春香にあんな事故に巻き込んでしまった事に対する謝罪のためか?

 それとも今までずっと彼女の事を忘れていたコトに対する己の愚かさのためか?

 今の俺と春香はもう何の関係もない・・・、はずなのに心の奥で何かが引っ掛かっていた。

「無理を言って申し訳御座いません、それと有難う御座います」

「そっ、そんないい方しないでくださいよ」

「そうですか、それでは病院に来られたら必ず医局によって調川先生にお会いしてください」

「わかりました」

「よろしくお願いいたします」

「はい」

「それでは失礼いたします」

 彼はそう言うと電話を切った。俺も受話器を元の位置に置き、今まで忘れていた・・・、心の奥の押し込めていた春香の事を思い出していた。

 次第に俺の頭の中は混乱し始める。

 今更どんな顔で春香に会えばいいんだ?どんな言葉を掛けてやればいい?俺と香澄の関係は彼女にちゃんと伝えられるんか?頭ん中でそんな考えがぐるぐると回りだす。

「わぁ~~~、駄目だ、駄目だ、そんな事は明日、春香に会ってから考えればいい。飯食ってさっさと寝るぞ」

 独りごとを呟きながら、優柔不断な俺はその考えを強制的に拭い去った。


2004年8月5日、木曜日


 今日はバイトが休みだったから昼頃に春香の見舞いに行く事にしたんだ。

 病院につくと昨日、秋人に言われたとおり初めに医局によっていた。

「失礼します、ここに調川先生っていますか?」

「はい、私がその調川って、貴方は・・・、ずいぶんとお久しぶりですね。凉崎春香さんのお見舞いに来られたのですね」

「そうですけど・・・」

「彼女に会う前に貴方に説明しておきたい事があります」

「何でしょうか」

 そう聞き返すと調川先生は今の春香の容態を教えてくれた。

「先生、それって冗談だよな?」

「嘘か真かは凉崎さんにお会いしてみれば分かりますよ」

 先生はそう言って来るんだけど彼の口にした事を真に受け止める事は出来なかった。

 実際に春香に会ってそれを確認するまでは信じたくなかった。・・・、惨すぎる。

 調川先生同伴で春香のいる病室へと向かう。そして彼女の病室の前に立つ。

「柏木君、貴方はここで少々お待ちください」

 先生はここで待機しろと言ってきた。

 俺にそれを拒否する権利はなかった。だから、そうする事にしたんだ。俺の意志を確認すると先生は病室に声を掛けその中へと入って行く。

 どのくらい経ってからだろうか促されるように春香のいる病室へと足を踏み込んでいた。

 目に身体を起こした状態の春香がいた。

 他に彼女の両親と翠がいた。しかし、俺の目が捕らえていたのは春香だけだった。そして、彼女に言葉を掛けてあげられないで少しの間、黙ってしまっていたんだ。

〈春香・・・、本当に目覚めたんだな?本当に生きてるんだな?これって現実だよな?〉

 彼女に何かを言葉にしたかった。でも、色んな思いが心の中を占拠し始めていた俺は何も言えなかった。そして、初めに声を掛けてきたのは春香の方からだった。

「・・・・・・・・・・・・、アッ、エッと、その・・・、ひろゆき君?」

 彼女もそれだけを口にしただけで直ぐに言葉を詰めてしまっていた。

 そんな俺達に気を利かせるように彼女の両親と妹はここから出ていっていたんだ。だけど、調川先生だけは仕事だと言ってここにとどまったままだった。またしばらくお互いに何も口にできないまま静寂があたりを支配していた。そんな中、俺はいつの間にかガキの様に涙をボロボロと流していた。

〈何のための涙?〉

〈彼女が目覚めたからだよな〉

〈本当にそれだけか・・・?〉

「宏之君・・・、ヒロユキ君・・・・・・」

 俺が涙を流しちまった所為なのか春香も目を潤ませ・・・、涙していたんだ。

「ハ、はるか、春香なんだよな?」

 俺も春香と同じように彼女のその存在を確認するように名前を呼んでいた。

「フッ、アナタ、泣いていたのでは彼女とお話しする事は出来ませんよ」

 春香と俺の態度がもどかしかったのか先生はそう言葉にしていた。

「ゴメンよ、春香、ゴメン、いっぱいゴメンよ、はるか」

 急にあの事故の事を思い出してちまった俺は涙声で春香に何度も謝っていた。

「宏之君・・・、謝るのは私の方だよ」

「春香・・・・・・」

「でっ、デートの約束破っちゃってゴメンね・・・・、いっぱい・・・、いっぱい心配掛けさせてゴメンね」

 春香は俺の事を責めることなんってなかった。

 逆に謝ってくるくらいだった。

 そんな事を言われたら、そんな彼女を見てしまったら、俺の心に何だか篤いものがこみ上げてきてしまったんだ。

 三年間という月日が過ぎてしまったのに、その半分くらいの間、彼女の事を忘れちまっていたのに・・・、更にさっきよりも涙がほろりと零れ落ちていた。

「ねぇ、宏之君・・・、こっちに来て・・・・・・」

 春香の言葉に引き寄せられるように一歩、一歩、自分の足を前に出していた。

「ほら見て宏之君、私こんなに元気なんだよ!ねぇ、だからもう泣かないで、ネッ、ネッ、宏之君、大丈夫だからそんな顔しないで」

 春香は健気にもその弱り切っている筈の体で元気だって言ってきたんだ。

〈・・・、俺、最低だな。こんなにも健気な春香を二年間も忘れほっぽいておいたなんて〉

 これ以上こんな情けない面を春香に見せたくなかった。だから無理して表情を整え、そんな春香に言葉を出すために口を動かす。

「・・・、すまなかった春香・・・・・・、俺もう大丈夫だから」

「凉崎さん、気分の方はよろしいですか?」

 一段落した間を割く様に調川先生が春香に言葉を掛けていた。

 その後に俺はとんでもない光景を目のあたりにしちまう。

 それは調川先生が口にしていた春香の容態の事。

「・・・・・・、あれ?調川先生?エッ?エェ?どうして宏之君が?ここに?」

「ナッ、何言ってんだ!春香?」

「・・・、大丈夫ではないようですね」

「せっ、先生コレは?」

 確かめるように先生に尋ねていた。だけど、その場でその問いに対して返事をしてくれる事はなかった。俺の有無を聞いてくれることなんてなく退出させられたんだ。

 調川先生と廊下を歩きながら春香の事について話していた。

「ご覧になりましたか、あれが今の凉崎さんの状況です」

「・・・、治らないのか?」

「原因不明なので、私も手をこまねいている所です。しかし、匙を投げる積りはありません」

 彼の言葉に何も返すことが出来なかった。ただ沈黙して聞いているだけだった。

 後は何も会話することなんてできずに先生と別れの挨拶だけをして自宅へと向かっていた。その間、春香の容態について考えをまとめてみる事にしたんだ。

 春香、彼女は何の前触れもなく突然、昨日の昼頃に目を覚ましたという。

 その目覚めに同席していたのは翠、藤宮、そして・・・、貴斗だったと調川先生が教えてくれた。

〈貴斗、お前は本当に俺が春香の見舞いに行かない間、俺の代わりをしていたのか?〉

 今まで何度も貴斗に会っていたんだけど、その事を俺から聞く事はなかったしヤツ自身、言ってくる事もなかった。だから、そんな事もすっかり記憶の片隅だったんだな。

 先生は言う、目覚めたのはいいが春香は現在の状況を認知しようとしない。

 会話中に意識が途切れ話の前後が曖昧になってしまうって教えてくれた。

 その現実を目の当たりにしちまった俺は遣る瀬無い気持ちになってしまった。

 春香に会うたびに何かに心が支配されるようになってしまうんだ。


2004年8月6日、金曜日


 自分の意思でバイトが始まる前、朝早く春香の見舞いに足を運んでいたんだ。

 彼女はあんな状態だけど出来るだけ早く今の俺と香澄の関係を彼女に伝えたかった。

 なぜかそれを早く伝えておかないと、とんでもない事態になってしまう。

 そんな風に思ったからなんだ。だけど、現実はそう上手くいかないようだった。

 病室に入ると最初に声を掛けてきたのは翠だった。しかも睨んでいた。

 当然だろうな。春香をこんな目に遭わせ、途中でここへ来る事を放棄し、再び春香が目覚めればまたここへ来ている。

 翠から見れば俺って存在はご都合主義者なんだろう。でも、今は彼女にかまってなんかいられない。その翠を無視して春香と話を始めていた。

「礼なんていい、お前が嫌がっても毎日来てやる」

〈お前が、無事に退院するまでは見守ってやる。だけど、その後はないからな〉

「ウン、絶対来てねぇ」

「アハッ、オアツイでうすねぇ、妬けてきちゃうので私は退散しまぁ~~~ス」

 翠は俺といるのが嫌だったのかそう言ってこの場から出て行った。

 彼女がいない、春香に俺と香澄の関係を話すのに丁度いい機会だった。

〈しっかりと伝えろよ〉

「・・・、春香」

「やっと、宏之君と二人きり」

 だが、俺の意思を無視するように彼女はそんな事を口にしてきた。

〈ためらうな〉

「・・・、春香・・・・・・」

「ねぇ、宏之君、お願いがあるの?いいかなぁ?」

〈彼女に今から突き放すんだそれくらいは聞いてやれ〉

「何でも聞いてやる。いって見ろ」

「キスして」

 春香の言葉に俺は押し黙ってしまったんだ。

 彼女の言う願いは今の俺がしてはいけないそんな願いだった。なんて答えていいのか分からない。

「だめなの?」

 春香は目を潤ませ、そう懇願してくる。

 昔と俺の関係は全然変わっていないっていう疑いのない瞳でだ。

 俺の事を信じているって瞳でだ。しかも、こちらから見詰めかえしてしまうには純粋過ぎる瞳を春香は俺に向けるんだ。その瞳に俺の心臓は激しく動悸する。胸で何かが膨らんでくる。・・・、気がつけば春香にキスを交わしていた。

「これでよかったのか?」

 誰に対してそんな言葉を言っていたんだろう。

 俺自身?春香?香澄?それとも貴斗にか?それとも他の誰かにか?

「ウン、我侭いってゴメンね」

 その行為をやめ春香を見ると、彼女は優しく甘える口調と純真な瞳でそう俺に言葉をつづってきたんだ。

「コレくらい当然の事だぜ」

 彼女のその態度を見た俺はそんな事を声に出して返していた。

 駄目だ、彼女のあんな瞳で見つめられると俺の決意が簡単に潰されちまう。

 彼女とキスをかわしてから、後ろめたい気持ちで今が昔と変わっちまった事を隠しながら話をした。

 その間、何度か春香の意識が途切れ、話が食い違う。

 彼女のそのなんとも奇妙な現象に俺は心を痛めはじめていた。

 どのくらい春香と話したんだろうか途中で現れた調川先生によって彼女との面会を中断させられちまった。

 春香の最後の会話で『毎日来るから』って口約束しちまったよ。

〈本当にそれでいいのか?〉

〈彼女に会うのは俺の懺悔の証だ、それくらい良いだろ?〉

〈本当にそれだけなのか?〉

 病室の廊下を歩きながらそんな自問自答していた。

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