二〇一号室の先輩 (5)

 人間の欲望は他者の欲望である。

 とは精神分析家ジャック・ラカンの言葉である。ヒイロを探したのは、佐藤の欲望か、彼女の欲望か、それとも、ヒイロの欲望か。


 彼女がすぐに出てきた。携帯を耳に当てたままきょろきょろと辺りを見回す。「今いく」と携帯に言って出ていこうとするルパンを五右衛門が止めた。

「こっちにきてもらえ。アパートのまん前で立ち話をするつもりか? 車の中で、二人で話をすればいい」

 佐藤の誘導に従って、お姫様がこっちにやってきた。

 三人外に出てお姫様を出迎え。

 夜でもあるが、目を引くほど可愛いとかきれいという女性ではない、失礼ながら。

 しかし、顔つきは優しく、その瞳は大きく、艶やかできれいだった。

「どうぞ」と助手席を開けたトシに向けた微笑に、心の素直さが滲んでいた。

「わたしとお前は外だ」

 佐藤と彼女を車に入れて、先輩と後輩は車から少し離れた。


 ――かなり頼りないルパンだが。

 彼女にはどう見えているのだろう。

 彼女に対して持った好意が、目線を佐藤ではなく彼女に近づけた。空は雲に覆われている。街の灯りに、ぼんやりと白んでいた。

「うまくいくかな」

 トシが呟く。二人は、車から駐車場と反対の方向に少し歩いていた。

「どうかな」

 トシとしてはこのまま四人で帰れば「うまくいった」ことになるのだろうが、結果的に何が成功で失敗なのか、すぐに答えは出ない。

「先輩と二人で後部座席とか、やなんだけど」

「お前が運転すればいい」

「先輩が助手席か。それもなんかな」

「わたしと彼女が後ろに乗ればいいんだろ。絶対後ろを振り返るなよ」

「あり得ない。先輩、雅人に殺されるよ。あいつ、あれで大学まで柔道部だかんね」

 確かに意外だ。

 そう言えば、同じ井伊市ということだが、どこ中だかまだ聞いてない。なんとなく街中のほうな気がするが。

「お」とトシが小さく言った。アクアの助手席が開いた。

 話がついたのか。十分とは経っていないと思われるが。二人もゆっくり車に近づいていく。

「ヤベ」

 とトシの口が小さく言った、激しく動揺、先輩の肌もゾワッと粟立った。

 駐車場に戻りかけた彼女の足が止まる。アクアの向こう、出てきた人影がある。佐藤も外に出ていた。

 車が近くなり、人影も近くなる。というか、近づいている!

 ――伯爵の、登場か。

「最悪。かち合っちまった」

 トシが、珍しく真面目に顔をしかめた、あのトシも。

「おい!」

 と大きな声が聞こえた。もちろん、佐藤ではあるまい。

 伯爵と佐藤の間に彼女が割って入る。ディス・イズ・ザ・カリオストロ!

 半ば弾き飛ばされるように離れたお姫様に代わり、駆けつけたトシが伯爵と佐藤の間を分けた。

「ちょとちょっと、まあまあ、落ち着こう、一旦落ち着こう」

「なんなんだ、おめぇら!」

 なるほどこいつは「悪者」だ。

「お姫様を助けにきた、正義の味方だよ」

 トシが見得を切った。多少当てられて興奮をもらったようだが、言い回しが古い。

 何より、それは。

「なに言ってんだ、てめぇ、おい!」

 火を煽るようなものだ。乱暴な伯爵に、今度はトシが胸倉をつかまれた。

 その腕を、「三人目」がつかんだ。

「彼女の前だぞ、少し落ち着け」

 伯爵の、身長は百七十そこそこ、髪は短め、顔は少しエラが張っていて彫が深そうだ。体の線は夜目にも太くはないが、握っている男の腕はガチガチに筋肉質だった。

「放せよ、メガネ。お前らなんなんだよ」

「そっちが放せばこっちも放す。放せ」

 伯爵の腕の力が抜けて、トシが自由になった。それを確認して手の力を緩めた、瞬間、伯爵の逆の腕が拳を握って飛んできた。

「!」

 全身が強張りつつも後ろに仰け反る、間に佐藤が飛び込み伯爵の懐に入る、眼鏡の前を伯爵の足が横切った。

 ドサッ、と地面に落ちた伯爵。

「カズくん、だいじょぶ!」

 お姫様が駆け寄った。その光景こそ、ある意味、一番の衝撃だったかもしれない。

「すいません、帰りましょう」

 すぐ横にいた友人の先輩に佐藤が言った。

 背中を向ける佐藤と、寄り添う男女。夜の闇に包まれる中で、これほど明暗の分かれる光景があるだろうか。もしくは……。

「佐藤くん」

 先輩が、運転席のドアに手をかけた佐藤の右肩を抑えた。佐藤の瞳も、街の灯を映して輝いていた。

「彼氏に言うべきことがあるんだろう。しっかりと伝えたほうがいい。佐藤君にはその義務が、あるはずだ」

 義務と言った、権利ではなく。先輩の中で明確に使い分けたわけではない。

 電話でSOSを聞き、ここまできたモトカレには、肩を寄せ合い立ち上がった男女に言うべきことがあるだろう、言ってもいいだろう、と思った。

 ルパンに涙は似合わない。佐藤は、振り返り、向き合った。

「俺は、彼女と前に付き合っていたもんです。彼女のことが心配で、今日は、こんなところまできてしまいました」

 伯爵は静かに聴いていた。投げられた痛みなどはないはずだ。佐藤はうまく落とした。

 むしろ、苦しそうなのは彼女のほうだった。佐藤の目には、どう映っているだろう。

「今日は、いきなり彼女を呼び出したりしてすいません。あの……」

「モトカレに電話をしてきたのは、彼女のほうだ」

「トシ、それは」

 佐藤が慌てた。が、口を塞ぐようなことはしなかった。投げ飛ばしたときと反対、佐藤はその場で僅かに身をよじっただけ。トシが続けた。

「あんた、彼女を突き飛ばしたりするんだってな。女性に手をあげる男なんて、最悪だな」

 彼女は俯いている。隣で伯爵は三人のほうを見ているが、その目にさきの凶暴さはない。

「手はあげてねぇ」

「そのうちあげる。今のままでいけば、絶対、お前は彼女を傷つける。必ず」

 彼女は泣いている。涙などは見えないが、泣いている。

 それでも彼氏から離れようとはしなかった。むしろ、より強く抑えているようにも、見えた。

「俺たちは彼女を助けにきた。女を殴るような男のところに、友だちのモトカノを置いておくわけにはいかない」

「殴ってねぇってんだろうが! いい加減にしろ!」

「この先も殴らねぇって言えんのか。絶対殴らないって、傷つけないって、恐い思いさせないって、言えんのか」

 一瞬の沈黙。それは「沈黙」とは言わないのかもしれない。

「もし、傷つけたり、恐い思いをさせたら」

 佐藤の気持ちのこもった声だ。

 トシと佐藤の言葉の間、それはほんの一瞬。その瞬きは、重く、様々な「言葉」のこもった「沈黙」だった。

「そんときは連れて帰るから。何度でもお前を、ぶん投げてやるから」

 向かい合うのは三人対二人ではなくなっていた。一対一、いや、一人が二人にぶつかっていた。

 佐藤が二人に背中を向けて、アクアの運転席を開けた。

「帰ろう。トシ、先輩」

 三人が車に乗ると、車はゆっくりと動き出した。

 城から離れる車に、傷ついたルパンと、次元、五右衛門の三人、なるほど、カリオストロの城だな。

 映画ではもう一度、最後の決着をつけに城に乗り込むことになっている。「次」がいつになるか、「次」があるのかどうかわからないが。

 泥棒を信じて高い塔から飛び降りる勇気を彼女に願った。それを受け止める気概を持つことを、佐藤に期待したかった。

 そして、言わせてくれ、あの屈指の名台詞を……

「大丈夫かね、あの二人」

 後部座席の眼鏡が、ぼそっと呟く。結果的に怪我人が出なかったのは幸いだった。

「そもそも、話し合いはどうなったんだ? 結果は、なんとなく、わかったが」

 トシも少し遠慮気味だ。今日の後輩は、幾らかマトモな男に見える。

「もうちょっと、一緒にいてみる、て。俺が先走っちゃったみたい。二人とも、ごめん。今日はありがとう」

「そんなことは、アレだけどさ」

「彼女、あいつとちょっと前に別れようって話になったみたいなんだ。でも、すぐによりを戻したんだって。確かに恐い部分もあるけど、なんか、惹かれる部分もあるって」

「ふーん。雅人のほうがいいと思うけどね。なんでも言うこと聞いてくれるし。だいたいさ、先輩が彼女のほうにも気があるみたいなこと言ったから、ややこしいことになったんでしょ」

「わたしは別に佐藤君の背中を押したわけじゃない、ただ、分析したにすぎん」

 気まずくなると矛先を先輩に向ける。トシなりの気遣いではあろうが。そもそも、今回の発端もそうだった。

「それで先輩が殴られそうになるから、向こうの彼氏を雅人がぶん投げた。怪我がなかったからよかったけど、あれで怪我してたら、先輩が治療費払うようだろ」

「その前にお前がむざむざ挑発するようなこと言ったからだろうが。正義の味方です、なんて、韓流ドラマでも聞かんぞ」

「勢だよ、勢い」

「大丈夫かな。あいつ、もう、突き飛ばしたりしないかな」

 悪戯に浮ついた車内の空気が、重たく沈んだ。

 その重さは、重心をもたらしても口を塞ぐようなものではない。先輩が、まず重さを受け止めた。

「彼女はいい子だった。が、彼氏のほうは、わからん。彼女が選んだ男だ、大丈夫だろうと思いたいが」

 彼女の優しい笑顔と苦しい表情が交互に浮かんだ。どちらかと言えば、苦しい、泣き顔のほうが強く浮かぶ。

 寄り添う男女と二人に背中を向ける男。物悲しいコントラスト、残酷な明暗、もしくは(今は)、どちらも「暗」……。

「雅人の情報は携帯から消させられるかもよ。連絡とれないように。彼女のほうから電話してきたって言っちゃったから、それが元でまた辛い目にあわなきゃいいけどな」

「大丈夫でしょ。うん」

 トシの自責の念と、リアルな不安を吹き消すように、佐藤が言った。根拠も全くないわけではない。

「彼女、実家に妹がいて、自分も何度か電話で話したり、会ったこともある。自分の番号も知ってるし。なんかあれば、妹に連絡するでしょう。すごい仲いいから」

 なんかあれば「自分に連絡があるでしょう」とは、佐藤は口にしなかった。それこそ、彼女が佐藤から離れていった部分であるかもしれない。

 それだからこそ、モトカノを「助けにいこう」という部分でもあったろう。彼女にも彼女の妹にも、「何か(連絡)」を「強制」しない優しさであり。

「お腹、すきませんか」

 己の「弱さ」を押しのける、佐藤の一言だった。三人の前方に、見えてくる。

「また牛丼で」

「先輩の奢りだかんね」

「佐藤くんの分は払ってもいい。お前の分は絶対に払わん」

 歩道の段差に揺れて、車が入ったのは「吉野屋」だった。結局、ここも佐藤が全部払った。

 店内に入る前、見上げた眼鏡に、小さな雲の隙間から星が輝いていた。

 ――これから晴れるのか。

 店から出てきたときには、再び、雲の壁が星空をすっかり隠していた。

 道中、他愛のない話が続いていた。いつしかトシと先輩の高校時代の話題で盛り上がっていた。

 佐藤のアパートに到着したときは二十二時をとっくに過ぎていた。

 先輩後輩は同じ車できた。トシは先輩を「先輩」と呼びながら、先輩に車を出させ運転させることをいかほども気にしない男だ。

 駐車場で佐藤に別れを言ってさっさと引き上げようとする後輩を、なんなら一人で帰れと言わんばかり無視して、先輩が言った。

「佐藤くん、ヒイロに会いたいんだが」

「どうぞ」

 佐藤の、屈託のない笑顔だった。初めて見るような、澄んだ表情だった。

 その笑顔の隣に、つい一時間ほど前に見た「笑顔」が浮かんだ。悲しみが俄かに胸を満たしたが、佐藤の身に降った悲しみは微かに甘くもあった。

 ハッピーエンドだけに価値があるわけではない。悲しみや努力は、ハッピーエンドのための踏み石ではない。悲しみこそ、その人の「芯」であるだろう。

 今夜、佐藤は悲しみに胸を痛めた。その痛み、僅かにではあるが共有した。

「芯」に触れた。ヒイロに会いたいと言ったときに見せた佐藤の笑顔こそ、彼の「芯」であろう。

 ――ヒイロのことが、ほんと好きなんだな。

 初めて会ってから二週間弱、彼に本当に好感を持った瞬間だった。

 佐藤の優しさは、脆さの裏返しでもある。いつ崩れるかという心配がないわけではないが、そのときは、

 ――いつでも声をかけてくれていい。

 ややこしい同僚もいることだし。大丈夫だろう。

 正直、彼女のほうは心配だった。が、そこはもう信じるしか、祈るしかなかった。

 彼女が悲しい目に遭わないように、佐藤の優しさが崩壊するようなことのないように。彼女の幸せを、ただただ祈るしかない。

 

「ヒイロがまたまた逃げた」とか「彼女の妹から連絡が」ということもなく週が開けた。

 夜な夜な、茶色いアパートの二〇一号室には中学生の少女が出入りする。

 少女がアパートの二階に上がる前には、眼鏡の男が夜な夜なアパートの一階一〇一号室に出入りした。毎晩のように、眼鏡はそこで夕飯をご馳走になる。

 その部屋とは少女の住む部屋であり、このアパートの大家である長野さん夫婦が住んでいる部屋だ。少女の家庭教師をする代わりに、夕食をご馳走になっている。

 少女の名前は成美という。成美は今度中学三年生になる。剣道部。

「毎日暇なんでしょ。中学の武道館にくればいいのに」

「暇に見えるかもしれんが、それほど暇ではない」

「だって、だいたい部屋にいんじゃん。うちで飯食って本読んでるだけでしょ」

 なんとも酷い言われよう、ただのクズじゃないか。

「そのうち、気が向いたら稽古つけてやろう」

「お願いします、先輩」

 先輩は、生まれもこの町であり、成美の中学のOBということになる。OB面して練習に参加できるような人間ではないことは自覚している。


 カリオストロ城に乗り込んでから十日目の金曜日、夜、茶色いアパートの二〇一号室を一人の女性が訪れる。成美ではない。

 まさかのアヤちゃんでも、(いると聞いたことのない)トシの彼女でもない。

 もとより雑然とした部屋が、ほんの微かに片付いているようではある。洒落っ気の微塵もないその部屋に、その女性はおよそ似つかわしくない。

 いつものコタツの、部屋主の正面に腰を下ろしながら、女性は改めて挨拶をした。

「神さん、お久しぶりです」

 親しげに「神さん」と。

 先輩ことこの部屋の住人、名前を神正樹(ジン マサキ)という。

 眼鏡をかけた二十九歳、独身、彼女なし。サラリーマンを辞めて八ヶ月、フリーターとして週に数日働きながら小説家を目指している。

 そんな、ちょっといかがわしい男に向かって、なんの前置きなく、女性が吐いた言葉。

「わたし、死ぬかもしれません」

 十二日の欠けた月が東の空に顔を出す。春の月が斜めに光を撒いている、町が朧に浮かび上がる、ある春の夜だった。

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