第65話 慇懃無礼
「では、私は失礼させていただきます。吉永教授、今日はいい出会いでした」
都賀は宜史の問いに答えると次がありますから、と言ってその場を辞そうとした。
「常務、兄がすみませんでした」
「なに、私も楽しかったですよ。また何かの機会にお会い出来たらいいですね。ああ、それと例の件なんですが、そろそろ中間ミーティングをやりましょうか。何割くらいのサプライヤーが同意したか社長も気になさっていてね」
「は、はい。次週にはある程度お話しできるかと」
「楽しみにしているよ」
そう言って都賀は「埜上」の引き戸を開けて、のれんをくぐって出て行った。
衛は都賀を外まで見送って、再び店内に戻ってくると宜史が、
「お前の頭痛の種はアレか」
とたずねてきた。
「まあ、そういうことだよ」
「慇懃無礼を絵にかいたような人だね。アレは相当なタマだ。衛には避けては通れない障害物だな」
「そのようだね」
諦観漂う表情で衛はつぶやくように応えた。
「俺はビジネスのことは分からん。でも彼の望みは要するにコストカットなんだろう? コストカットには一つしか方法がないなんてことはないと思うぞ」
「そんなに簡単に言わないでくれよ、兄さん」
「そうだな、悪かった。そうだ、話は変わるが、お前のところに通っているという関東テクノスの尾上という営業マンのことをどう思っている?」
衛は、宜史の口から悟の名前が出るなど全く想像すらしていなかったので驚いた。
「なぜ兄さんが尾上君を知ってるの?」
「曉子は今会社を休んでいるんだってな」
「それが尾上君とどういう関係が?」
「お前、尾上君と曉子がお付き合いをしているってことを知らないのか?」
「えっ⁉ それは知らなかった」
「どうやら、佐知が尾上君との交際を知って逆上して曉子を軟禁しているというのが真相らしい」
「
「何が心神耗弱だよ。心が病んでいるのはアイツの方じゃないか」
「兄さん、尾上君なら曉子を幸せにしてやれると俺も思ってるんだ。何とかできないか? 兄さんと義姉さんが別れた今、いくら曉子になつかれているとはいえ所詮俺は外様だ」
「猜疑心の強いお前がそこまで言う男なのか。その尾上君は」
「慎重、って言ってくれないかな。(笑) なかなか見どころのある青年だよ」
「分かった。曉子のことは俺に任せてくれ。親権を佐知に渡したのは俺が浅はかだった。しかし佐知をこんなにしてしまったのも俺の責任もある」
「兄さん……」
衛は研究バカで、家族を顧みず過程を崩壊させてしまった原因を作ったのは宜史だと思っていた。
その兄が自分の責任の一端を認めたことが何よりも嬉しかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
曉子の母、佐知が朝食を作って曉子の部屋へ持っていくと、昨日の夕食がそのまま手つかずに残されているのを見て、虚しくなりまた心が泡立ったが、
「朝食を置いておくわね。ちゃんと食べないと体に障るわよ」
と、曉子に優しく声を掛けた。
「ありがとう」
と、か弱く消え入るような声でかろうじて曉子が応える声を聞くと安心して佐知は階下に降りて行った。
台所に戻り、自分の朝食を準備をしようとするとダイニングテーブルに置いた携帯電話が鳴った。
電話の主は離婚した夫、宜史であった。
「あなた、どうしたの? こんな朝早くに」
「いやあ、久しぶりだね。調子はどうだい?」
「ええ、それほど悪くはないわね。あなたにそ気に掛けてもらえるなんて思っていもいなかったからちょっと嬉しいわ」
「そうか。実は俺もしばらく君の声を聞いていなかったから少し緊張していたんだ。衛から曉子が会社をかれこれ2か月くらい休職していると聞いてね。曉子は大丈夫なのか?」
「あの子が外に出ると、ろくなことがないのよ。この間も変な男にまとわりつかれて家にまで押しかけてきて。だからあの子をこの家から出さないことに決めたの」
「そのことなんだが、曉子と君と、話をしたいんだがどうだろうか」
「私を置いてこの家を出て行ったのはあなたよ」
「確かにそうだが、曉子を家に軟禁しているなんて言うのはちょっと尋常じゃないとは思わないか?」
「これがあの子にとって一番いいことなのよ。あなたは口出しをしないで頂戴」
「あまりことを荒立てたくはないのだが、刑法220条というのがあってね。身内であっても不当に拘束すると罪に問われることがある事を君は理解しているのかな」
「私を訴えるつもり?」
「ああ、君の対応によっては俺は躊躇しない。とにかく会って話をしたい」
告発をチラつかせた宜史に屈する形ではあるが、佐知はともかく宜史に会うことにした。
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