第63話 吉永兄弟

「あ、吉永先生? 紅羽書店の春日でございますが」


「春日君か。もしかするとギョーム・アポリネールの詩集の原書が仕入れできたのかね?」


「ああ、それは違います」


「なんだ、ぬか喜びしたじゃないか。それで何の用向きかな?」

 紅羽書店の春日が悟と結衣香が訪れてきたことを伝えようと、暁子の父、吉永 宜史に電話を掛けたのはその日の午後7時ごろだった。


「ええ、今日、お嬢様とお付き合いをしている、という男性がウチに来まして」


「暁子の?」


「はい。そのようです」


「で、どんなことを言っていたんだい?」


「お嬢様が、元の奥様に軟禁されているとかで……」


「なんだって? 本当かね?」


「真偽は私にはわかりません。とにかく一度ご一報をいただきたいとのことでした」


「わかった。その彼の連絡先を教えてくれないか? ええと、メモ帳はどこだったかな」


「先生、慌てなくともこの春日いつまででもお待ちしますよ」


「あああ、あった。では頼む」


「尾上悟さん、とおっしゃっていました。電話番号は070-85xx-47xxです」


「復唱するぞ。070-85xx-47xxで合っているか?」


「はい、相違ありません」


「そ、それで……」


「何ですか、先生」


「どんな男だった」


「尾上悟さん?」


「そ、そうだ」


「名刺をもらいましたが、関東テクノス、という半導体素材の営業マンだそうです」

 吉永 宜史は、すぐにピンときた。


(ははあ、衛の取引先のヤツだな)


「わかった。ありがとう。では続けてギョーム・アリポネールの件は頼んだぞ」

 電話は一方的に切れてしまった。


「せわしないことこの上ないなあ。先生は」

 春日はそう独り言ちて、片付けが終わった店内を見まわし、そして入口のシャッターを内側から閉めた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「どうしたんだ、兄さん」

 常務の都賀から出された難題を解決するために残業していた岩田電産の購買部長、吉永 衛は兄、宜史から掛かってきた1年ぶりくらいの電話に少々驚いていた。


「ああ、ちょっと衛に聞きたいことがあってな」


「兄さん済まないけどちょっと今忙しいんだ。後で構わないか?」


「ああ、すまなかった。最近調子はどうなんだ?」

 衛は周囲を気にして口元を右手で隠し、小声で答えた。


「ああ、新しく来たやり手の役員のお陰で社内はこの半年間上へ下へ大混乱だ」


「そうか。そこら辺の愚痴も聞いてやるから、仕事が終わったら一杯やらんか?」


「うーん、あと1時間くれるかな?」


「わかった。場所はどうする? お前の会社のそばまで行っても構わんぞ?」


「それはありがたい。じゃあ四谷駅の改札でいいかな」


「よし、それじゃあ後でな」

 電話は一方的に切れた。


「兄さんもせわしないな」

 そうつぶやくと、またPCの画面をにらんで仕事を再開させた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「兄さん、待たせたね。ごめんごめん」


「大会社の部長様だ、忙しくて大変だな」


「兄さんだって日本でのフランス文学の権威じゃないか。俺なんて単なる上司の使い捨ての駒だよ」


「まあそう腐るな。早いところ一杯やりながら聞こうじゃないか」


 兄弟仲は決して悪いわけではないが、宜史夫妻が離婚したことや、互いに多忙な身であるため一緒に食事をとることも近年では稀になっていた。


 四谷駅前の四谷見附の交差点を渡り、外堀通りを少し市ヶ谷方面に歩いてしんみち通という路地に入ると、衛の行きつけの小料理屋、「埜上」はあった。


「女将、二人なんだが大丈夫か?」


「あらあらお久しぶりね。まあご覧の通りの大盛況なの」

 齢六十手前、といった感じの美人女将は、やれやれという感じで自虐的に言った。


 店の中には先客はカウンターに座っている一人だけであったからだ。


「どこでも好きなところにお座りくださいな。吉永さん」

 女将が衛の名前を呼ぶと、カウンターの男が顔を上げた。


 衛はその男の顔を見て凍り付いた。


「じ、常務」

 衛を追い詰めている張本人がそこにいたのだった。

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