03.流されて



クスクス…



「……」



通い慣れた教室で、薄気味悪い嘲笑があちらこちらから耳を引っ掻く。


眼前にあるのは、大量の紙屑が置かれた机。


『死ね』『カス』『消えろ』


丸められた紙屑には様々な筆跡の罵詈雑言が書かれ、その中央には花が添えられた花瓶が置かれている。



「…」



もはや日常と化したその光景に内心鬱陶しく思いながらも、俺は何事も無かったかのようにゴミまみれの椅子を後ろへと引く。


すると、



バシャッ!



「っ…!」



俺が席に着こうとした瞬間、影の中から何かが飛ぶ。


突如背筋を伝う不快感に、思わず体がビクンと跳ねる。


どうやら飲みかけのペットボトルを投げつけられたらしい。

甘ったるい液体が髪を濡らし、ポタポタと机の上の紙屑に染みを作る。



『██████████!!』

『████████████████!』



何が面白いのか、影達は反応を見ながら不気味な笑い声を響かせる。



「………はぁ…」

『████…?』



狂気すら感じるその耳障りな鳴き声に、思わず漏れ出た微かな溜息。

その溜息に影の1人が眉を動かす。



『████████…████████?』

「…」



どうやら今の態度が気に食わなかったらしい。

影は大股で俺の目の前まで近付いてくると、



ドンッッッ



「っ…!!?」



突然、胸の下辺りに鈍い痛みが走る。



「っ?…、……!、?はっ…、?」



少し遅れて自分か殴られたこと、そして息が吸えないことに気付く。

慌てて息をしようと口を開くが、空っぽに潰された肺にはなかなか空気が入ってこない。


目の前がパチパチと弾ける。

足に力が入らない。



『██ッ!██████ッ!!████████ッ!!』

「…っ…!、!…。ぐ、ぅ……」



痛みに蹲る俺に、影は何度も何度も蹴りを入れる。



気持ち悪い



腹を揺さぶる鈍い吐き気も

髪を浸す鼻の曲がるような甘ったるい匂いも

耳を引っ掻く影共の鳴き声も


そして、何もせずに這いつくばっている自分自身も



すべてがどうしようもなく、気持ち悪い



「…██、██████…?」

「…っ……ぁぐ……!?」



やがて蹴る事に飽きたのか、影は蹲った俺の髪を引っ張る。


ブチブチという嫌な音と、先程とは違う神経を引き裂くような鋭い痛み。

呻くように漏れた小さい悲鳴に、影はさらに卑下た笑みを深める。



(あぁ、本当に)



耳障りな笑い声は、まるで伝染病のように教室中を埋め尽くす。


鼓膜を引っ掻く狂気に、脳髄が黒く、黒く、染まっていく。



(気持ち悪い)



思考を蝕む黒の中



“チリン”



どこかで鈴の音が鳴ったような気がした



_ _ _ _ _ _



「……んぁ……?」



薄暗い木の洞の中、瞼を照らす陽の光に目が覚める。

昨晩降っていた雨のせいか葉には銀点が煌めき、濡れた土の匂いがやわらかく鼻先をくすぐる。


なんだか、酷い夢を見ていた気がする…が、上手く思い出せない。

まぁ思い出せないなら、そこまで気にする事じゃないのだろう。



「んんっ……」



まだ目覚めきってない身体をぐっと伸ばし、起き始めた森へと顔を出す。



あの四つ目の熊から、なんとか逃げ延びて早数日。

俺は酷い高熱によって、生死の境目をさまよっていた。


原因は恐らく、あの4つ目の熊から逃げている際に負った脇腹の傷。

そこから雑菌が体内へと入り、感染症を引き起こしてしまったのだろう。


気絶しそうになる程の高熱に、激しい悪寒、吐き気に頭痛…酷い時には走馬灯まで見えてしまった程だ。

正直2、3回ぐらい死んだと思ったが、運良く今もこうして、朝日を拝むことができている。



それにしても…あの四つ目の熊は、一体なんだったんだ?


あまり動物に詳しい方ではないが、四つも目のある熊なんて、今まで見た事も聞いたこともない。



確か一昔前に、“四つ目のカモシカがいる!!”とネットで話題なっていたのを見たことがある。


だがあれは確か、「眼下腺」いう特有の器官が通常よりも大きく発達した個体で、それが四つ目に見えた…という話だったはずだ。



あの熊もそういう、何かしらの異常を持った個体…なのか?

それとも、まだ発見されていない新種…?


それとも…



「ぐうううぅぅぅ…」

(うぐ……)



湧き上がる疑問に頭を回していると、途端腹が空腹を訴える。



実は、猫になってからのこの数日間、俺は何も食べていない。


というのも、猫は本来肉食の動物だ。

野生下ならばトカゲや小鳥、虫などの小動物を狩って食べることが多い。


だが俺は今、病み上がりでほとんど体力が残っていない。

脇腹の傷もまだ完全には治りきっていないし、無理に動けばまた傷口が開いてしまう可能性もある。


こんな状態で狩りなんてできるわけもなく、葉に止まる蝶すら、捕まえられない始末だ。


罠を張ろうにも、“この身体慣れてない猫の姿”ではそれも難しいし、それを補うだけの知識も技術も持っていない。


近くに川があったお陰で、水は何とかなったが…このままでは、栄養失調で餓死してしまうだろう。



確か人間が何も食べずに生きられる期間は、約1ヶ月くらいだったはず…。

猫なら…もって1、2週間ってところか?



気になる事は多々あるが、とりあえずまずは腹ごしらえだ。


“腹が減っては戦ができぬ”とも言うし、今は食料調達に専念するとしよう。



― ― ― ― ― ―



(ふぅ……やっとついた……)



太陽も次第に登り始め、白みがかっていた空がすっかり鮮やかな青へと変わった頃。

視界を囲む緑が途切れ、川の涼しげな水音が聞こえてくる。


幅はだいたい10メートル程。弧を描くようにして流れる川辺には石や流木が積み重なり、まるで河原のようになっていた。

流れる水はとても緩やかで、度々落ちてきた木の葉が水面に小さな波紋を作り出ている。



ここは数日前、俺が四つ目熊から逃げ延びた際に流れ着いた場所だ。


川がカーブして流れている時、遠心力が働くカーブの外側よりも、その内側の方が水の勢いが遅い。

そのため上流から流れてきた土砂や流木などの漂流物が溜まり、このような河原を形成することがある。


俺も他の漂流物と同じように、この河原へと流れ着いたのだろう。



川というのは、いわば森の“血管”だ。


森を構成する植物達は川を中心として広がり、森に生きる生物達もまた、川を基盤として生態系を確立している。


特にこういった浅瀬のある河原には、餌となる生き物の死骸等が溜まりやすく、魚やエビ、貝等の水棲生物に、カニやカエル等の小型の水陸両棲生物。それを狙う鳥やトカゲ等々、多種多様な生物が生息している。



ここなら今の俺でも、捕まえられる生き物がいるかもしれない。

少なくともあてもなく森を彷徨うよりかはマシだろう。


幸い、水はかなり澄んでいる。

これなら無理に水に入らなくても、水面から獲物を探すことができるはずだ。



そうと決まれば、早速獲物探しだ。


“善は急げ”とも言うし、行動は早いに越したことはない。



(よっ…!)



滑らないよう足元を確認しつつ、苔むした河原を黒猫は一匹歩く。



ちゃぷん



その傍の水面に、何かがゆるりと畝る。


浮かぶ木の葉を揺らしながら進むその影は、静かな波紋を描きながら川岸へと近づいていく。


僅かに見えた黒い瞳は、しっかりと黒猫を見据えていた。

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