第199話 消えた久遠 4

 鋭い犬歯が翡翠の首筋に食い込み翡翠の柔い肌を突き破った瞬間だった・・・・・。


 女の身体がビクリと大きく震え、その動きを止めた。

 見開かれた目の内で、紫の瞳が戦慄に震える。


 「・・・・ながれ・・・・娘を、離せ。」


 抑揚のない深みを帯びた落ち着いた声が、空から落ちてきた。


 女は身体を小刻みに震わせ、翡翠を落とし後ずさる。

 パタパタと顔を打っていた雨が、不自然なほど突然、ピタリと止んだ。


 湿った草をかき分けるような音がわずかに鳴り、そちらをふりむいた翡翠は、まぶしさを感じ、目を細めた。 


 薄闇の中で、ぼんやりと光を放つ衣の白さは穢れをしらない。

 だが、光をはじく白雪のようなその衣の輝きすら、それを纏う者の秀麗さの前ではくすんで見えた。


 この世の者とは思えないほどに美しいその人物の姿に、翡翠は見覚えがあった。

 禊をおこなっていた、あの時。

 格子窓の彼方に浮いていた者に違いなかった。


 「かい・・・・様。なぜここに・・・・」


 「今朝方・・・・。水の祠に、『人を喰らう神妖を滅したい』と祈る者がいるのだと・・・・火急の知らせが届いた。まさかお前のことだとは・・・・」


 哀しみに満ちた瞳を向けるその男の手には、こぶりながら美しい、芍薬しゃくやくの花が一輪・・・・瑞々しく咲き誇っていた。


 「ながれ・・・・長く姿を見せないものだから、案じていたのだ。」


 流の顔がわずかに傷ついた色で染まる。


 「お前ほどの者がなぜ・・・・穢れ堕ちることを選んだ。・・・・みずはが、どれほどお前の帰りを待ちわびているか・・・」


 「そのような名など、聞きたくない!貴方はみずはを、選んだ。居場所を失った私は、他にどのように生きられるというのだ!」


 「流・・・・・?」


 だだをこねるようにわめき散らす流に、白い衣の人物は眉をひそめ、かすかに首をかしげる。


 ああ・・・・流は、この男を愛しているのだ。

 理解したいと思う相手ではないが、伝わってくる想いはあまりにも男にひたむきだった。

 痛む首筋に手をあてながら、二人を見つめる。


 「流・・・・水神殿の跡継ぎのことならば、お前の思い違いだ。私はまだあれを継ぐ者を選んではいない。」


 翡翠ですら一瞬であてられるほどの激しい慕情なのに、よほど鈍いのかこの白い衣の男は、流の想いに全く気づいていない様子だ。


 「そのことでは・・・・・・・。どのみちもう、戻ることは叶わない。」


 流はそうつぶやくと、深く一度息を吐き出し紫の瞳をギラリと光らせた。

 その光は凶悪に見えて、なぜか切なく翡翠の心を突き刺してくる。


 流が片手を前に突き出す。

 闇の中、小さな無数のきらめきがその目前に浮かびあがり、紫の宝玉のように瞬いた。

 流の手が舞うように宙を踊ると、紫の宝玉は流れる星のような凄まじい勢いで、音もなく白い衣の男を襲った。


 あまりの速さに、翡翠の目には残像が光の筋となって見えるばかりだ。


 男から外れ落ちたいくつかの紫の宝玉が、地面や川面で激しく爆ぜ、泥や飛沫しぶきを派手に巻き上げながら地を深くえぐり、大穴を開けた。


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