第190話 人柱 1

 突然落とされた一滴の重い言葉に、水面に起きた波紋が広がる様にして大座敷がざわめき立った。

 翡翠の父は、長らく彼の定位置となっている場所に座したまま、微動だにせず、表情も寸分変わらない。


 久遠はたまらず身を乗り出し、女が掲げている絵姿をその目にしっかりと映した。

 髪を下ろし白装束を身にまとった、肩から上の姿が描かれたその絵姿に、久遠の表情はこれ以上ないほど険しさを極めた。


 すばやく顔を引っ込めた久遠は、翡翠の冷たく小刻みに震え始めた手を包み込むように強く握りしめ、呆然としたままの翡翠を引いて奥の座敷へと戻った。


 翡翠を押し込むようにして座敷へ入れ、後ろ手に戸を閉める。


 久遠は翡翠に向き直ると、彼女の冷えた身体を力強く、ぐっと抱き寄せた。

 幼馴染からの突然の熱い抱擁に翡翠は驚いた。

 大きく鼓動が胸を打ち、頭の芯を甘く痺れるような衝撃が駆け巡る。

 久遠の腕の中・・・我を取り戻した翡翠は、束の間目を見開いた。


 恐怖に冷たく脈打っていた鼓動が、温かい小鳥の鼓動のように変わり、翡翠の胸をせわしなく打ち始める。


 翡翠は目を細めると、細く息を吐き、彼の背にそっと腕を絡めた。


 「人柱になど、絶対にさせない。・・・・お前は、大丈夫だ。」


 翡翠の首筋に顔をうずめ、久遠は落ち着いた低い声でささやくように、だが、淀みない口調ではっきりと口にした。


 「・・・・兄様。」


 「・・・・怖いか?」


 久遠の言葉に、翡翠は答えられなかった。

 ただ、抱きしめる腕にわずかに力を込め、久遠のあたたかなうなじに顔をうずめることしかできない。


 公にした以上、久遠の父も、翡翠の父も、翡翠が人柱となることに既に了承しているということなのだ。

 突然目の前に自分の死を突き付けられ、怖くないわけはない。

 他ならぬ久遠の前でだけは、強がって偽りを演じることができなかった。


 久遠は息が苦しくなるほど強く、翡翠の細い身体を抱き返した。

 

 「何も考えなくていい。・・・・翡翠。お前を狙う恐怖は、私が必ず祓う。」


 「兄様・・・・・」


 そう言って顔を上げた翡翠の瞳を、久遠は寂しげに微笑みながら見つめた。


 「翡翠。今だからこそ白状するが、お前に兄と呼ばれるのは、少々寂しい時もあった。・・・・・私は幼いころからずっと、お前と添い遂げたいと思っていたのだから・・・・。」

 

 そう言うと久遠は、翡翠にゆっくり顔を寄せてきた。


 翡翠の唇をかすめるようにして寄せられた久遠の唇は、短く微かな音をまとい、彼女の滑らかな頬にそっと落とされた。


 翡翠の幼い胸は、久遠の力強いぬくもりと、胸の奥から湧き上がってくる彼への愛おしさで、破裂してしまいそうなほど膨らんだ。

 人柱の話など、知らない国の物語を耳にした時のように、遠く現実味のないものとなってかすんでいく。


 「久遠・・・・」


 熱いしずくをとめどなく目じりからあふれさせ、翡翠は濡れた声で、何よりも大切なその名を呼んだ。


 抑えきれなくなった、久遠へのとほうもない愛おしさに飲み込まれた翡翠が、彼の手のわずかな震えに気づくことはなかった・・・・・。

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