第44話 記憶喪失

 都古みやこ光弘みつひろが、しょうの様子を見て楽しそうに座敷へ入っていくのを確認してから、俺は廊下に残っていた久遠くおん翡翠ひすいに、ひそかに声をかけた。


 「少しいいですか。1つだけお願いしたいことがあるんです。」


 都古たちには、「トイレを借りてくる」と伝え、久遠と翡翠とともに移動する。

 声の届かない場所まで案内された俺は、そこで2人に向かって深く頭を下げた。


 「お願いします!俺たちから、都古さんの記憶を奪わないでください。」


 証拠はない。

 証拠はないけど、この場所がリコの記憶喪失事件と繋がりがあるのは間違いないはずなんだ。

 都古のことを忘れて、それに気づかないままこれから先を過ごすことになるなんて。

 想像しただけで、息が止まりそうなほど苦しい。


 「5年前・・・・・。1年の時。夏休みに、同じクラスの女の子がここにきたはずです。彼女は夏休み明け、都古にかかわることを全部忘れてしまってた。この場所が関係してると僕は思ってます。・・・・・もし、秘密を守るために記憶を消しているんだとしたら・・・・・俺たち、絶対誰にも言いません。だから、記憶を消すのだけは勘弁かんべんしてください。都古のこと忘れるなんて、絶対に嫌なんです。そんなの・・・・・耐えられない。」


 「忘れてしまうのだから何もわからなくなる」・・・と言われてしまえばそれまでかもしれない。

 そうだとしても。

 今感じているこの胸の苦しみでさえ、失うのは嫌なんだ。

 リコの記憶喪失の件は、勝にも光弘にも、相談したり話したりしなかった。

 つまり、記憶が消されて今の関係が失われるという事への恐怖を感じているのは俺だけだ。

 もし、この願いが絶対に受け入れられないものだとしたら・・・・・勝と光弘にはせめて今の俺のように苦しんで欲しくないから・・・・・・。

 だから、俺は2人には何も言わず、都古の両親だけを呼び出した。


 俺の話を最後まで黙って聞いていた2人は、顔を見合わせ微笑んだ。

 久遠が静かに口を開く。


 「都古を大切に想ってくれてありがとう。大丈夫。僕たちは記憶を消したりはしないよ。」

 「やればできますけどね。」


 久遠の肩に手をのせ、いたずらっ子のように口をはさむ翡翠。

 久遠はあきれ顔で小さなため息をついた。


 「翡翠。そんな事を言っては不安にさせるだけだ。」


 久遠がとがめると、翡翠は「失礼しました。」と、あまり反省した様子もなく笑顔のままサラリと流した。


 「記憶が消されるのは、双方どちらかに悪影響をもたらす可能性がある場合のみです。この場所は大きな生き物の体内のようなものですから、悪い物が入ろうとすると、反射的に守りの力が働いてしまいます。私たちがくしゃみをしたり、涙を流したりするのに近いですね。また逆に、自らの能力ちからが相手を傷つけることもいといますので、余程の事情がない限りは、ここへ人をかかわらせることはありません。」


 翡翠の言葉を久遠が引き継ぐ。


 「ここへかかわる理由わけを持たない者が来た場合、繋がりをつために記憶を消されてしまうんだ。過去にここを訪れた人間のほとんどは、この場所にたどり着くことなく記憶を失いそのまま去っていった。5年前の少女もその中の1人だったんだ。」


 やっぱり予想していた通り、リコの記憶喪失はここに来たことが原因だったんだ。


 「うっかりここに迷い込んだりしたら、それだけで都古の記憶が消えていたかもしれないってことですか。」


 俺の問いかけに、久遠が着物の左袖を軽くめくった。

 右手の人差し指と中指を伸ばし、その背で円を描くようにして手首を撫でる。

 すると、なにもなかったその場所に、筆で描いた絵のような文字のような、不思議な空色の模様が浮き出ていた。


 「すまない。大分、心配させてしまったんだな。ここへは、この印を持つ者の案内なしには、たどり着けないようになっている。それから、一度ここを通れた者であれば、もう記憶が消されることはない。君たちはもう、心配ないよ。」


 俺はホッとして肩の力を抜いた。


 とりあえず今は一安心っていうことか。

 とはいえ・・・・・一つ間違えば、今さっき、ここに来る時に記憶が消されていたかもしれなかったんだ。

 店の中で俺たちに再開した都古があんなに取り乱していたのはそういう訳だったのか。

 だけど、都古はなんで、そんな危険を冒してまで俺たちをここへ連れてきたんだろう。


 俺は2人に礼を言うと、再びみんなが待つ座敷へと戻った。

 全員がそろい、お茶を飲み干したところで翡翠が都古に声をかけた。


 「では都古。そろそろ皆さんをご案内しましょうか。」


 翡翠の言葉に、俺たちが頭に疑問符を浮かべて固まっていると、都古が改まって向き直った。


 「実は、今日ここへ皆に来てもらったのは、頼みがあるからなんだ。」


 都古の真剣な眼差しに、張り詰めた空気が流れる。


 「ついてきてくれ。」

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