第1話 友達が500円の借金のカタに妹をよこしてきた話(3)

 そんなこんなで1時間後。

「ふぅ……こんなところでしょうか」

 朱莉ちゃんが満足げな笑顔を浮かべつつ、額の汗をぬぐう。

 元々一人暮らしを始めたばかりで物も少なく、あまり汚れているとは思っていなかったけれど、それでもはっきりビフォーアフターが見えるくらいに部屋はれいになっていた。

 不思議と部屋全体が輝いて見える。

「どうでしょう、先輩!」

 得意げな笑みを浮かべ、腰に手を当て胸を張る朱莉ちゃん。掃除のためにセーラー服の上からエプロンをつけた姿は、随分と様になっている。

「凄いな……引っ越してきた時より綺麗に見えるよ」

「ふふっ、良かったです」

 朱莉ちゃんは嬉しそうに微笑みつつ、掃除道具をそれぞれ入っていたケースに戻し、持参したリュックにしまう。

 そう、今回の掃除道具は全て朱莉ちゃんが持参したものだ。コンパクトに持ち運べるものではあるが、それでもわざわざ持ってくるというのは、なんというか気合いのほどを感じさせる。

 評判通り、な子なのだろう。なんだか余計に申し訳なく感じてしまう。

「ではこれから毎日お掃除しますねっ」

「毎日!? い、いや、それは遠慮しとこうかな……?」

 正直、今の仕事量や質的に500円をはるかに上回る価値がありそうなのに、それを毎日なんてなれば今度は俺の方が借金する必要が出てくる。

 それに仮に代金を加味しなかったとしても、毎日なんて物理的に無理だ。

 朱莉ちゃんの家は当然昴の実家で、新幹線を使ってくるくらいの距離がある。なんたって俺の実家の隣町だし……だからこそ、彼女がここにいるというインパクトもすさまじく大きいのだけれど。

「遠慮しないでください。なんたって私は先輩の物なわけですから。いくらでもこき使っていただいていいんですよ?」

「だから物って……いや、でもそれはもう大丈夫。ほら、今働いてもらった分で500円以上の価値はあったと思うし。借金返済ってことでいいんじゃないかな?」

「何を言っているんですか先輩。これっぽっちも返済完了なんかじゃないですよ」

 なぜか朱莉ちゃんは呆れたように溜息を吐いた。

「いいですか、先輩。まずこの部屋の家賃ですが、確か管理費込みで7万円でしたね」

「え、なんで知って──ああ、昴か」

「7万円を月30日で割ると、1日当たり約2300円の負担になります。仮に先ほどの掃除1時間が時給1000円だったとしましょう。それで家賃分を打ち消したとしても、まだ1000円足りません」

「あの、家賃は俺が支払ってるんだし、朱莉ちゃんが働いた分は関係ないんじゃあないかな……」

「もう先輩。話の腰を折らないでくださいっ。じゃあせつぱんということでいいです。ただ、2300円を2で割っても1150円なので、足りないことに変わりはないですが」

 なぜか怒られた俺だが、やっぱり朱莉ちゃんの言っていることは分からない。

 仮に彼女に家賃負担が発生するとして、でもそれは彼女もここに住んでないと成立しないんじゃ……?

「さて、先輩。ここまで聞いて、私がさらに1時間お仕事をして1000円を獲得すれば、500円の借金は問題なく完済される……そう思ったかもしれません」

「ごめん。その前の家賃の話で止まってるんだけど」

「ですが、追加の1時間どころか、一般的な1日あたりの勤労時間──8時間働いたとしても、全然借金完済には届かないのです!」

「あ、進むんだ」

 俺の言葉が聞こえていないみたいに、朱莉ちゃんは声高らかに叫んだ。

 まるで街頭演説する政治家のような力強さだ。

「なぜなら額に汗し8000円を稼いでも、それらは家賃以外に光熱費とか水道料金とかそういったもろもろで消失してしまうのですから!!」

「いやそんなにかからないよ!?」

「でも、先輩。私、毎日スマホ充電したいですし……」

「その程度微々たるもんだわ!」

 そんなゴリゴリとインフラに金を取られていたら、今頃この国には誰ひとり残っていないだろう。

 いくらそれがないと生活が成り立たないとはいえ、足元を見られすぎだ……って、あれ?

 さっきから家賃とか、毎日とか、何か大事なことを見落としているような……?

「ま、まぁ、家賃とか光熱費などにかかわらずですね、人は生きていれば何かしらコストがかかるものなんです。それに今日から先輩の家に住まわしていただくわけですし、先輩の精神的負担をかんがみれば慰謝料的な意味で──」

「ちょ、ちょっと待って!? 住む!? 今日からここに住むって言ったの!?」

「はい、そうですよ?」

 何を当たり前のことを今更、といった感じで首を傾げる朱莉ちゃん。いやいやいや!?

「そんなの聞いてないっていうか、どうしてそんな話に!?」

「え、だって私は借金のカタですし、先輩の物ですし、おそばにいないとごほうできないじゃないですか」

「……仮にその、借金のカタってのを認めるにしたって、朱莉ちゃんはてっきり昴の家に行くと思ってたんだけど」

「それは無理です。兄は今日から裁判行っているらしいので」

「裁判!?」

 あいつ、とうとう何かやらかしたのか。そりゃあ500円の返済どころじゃないな……。

「あ、すみません。ちょっとんじゃいました。サイパンです。サイパン」

「サイパンって、あの……?」

「北マリアナ諸島のサイパンですね」

「あのボンボン……! サイパン行くなら全然金返す余裕あるだろ……!?」

 しかも温泉旅行がどうとかで悩んでいたくせに、いきなり海外旅行とか!

「とにかくそういうわけですので、先輩に追い出されてしまったら私は行く当てを失い、外の世界を彷徨さまようこととなってしまいます。両親にもオープンキャンパスに行くついでに兄のところで勉強を教えてもらうと言ってしまっていますし」

「でもサイパンに行ってるんだよね」

「そうですね」

 つまり両親に噓を吐いて来ていることになる。それほどなのか、借金のカタって。

「あの、先輩。やっぱり駄目でしょうか……?」

「う……!」

 さっきまでましていたかと思えば、急に不安になってきたのか控え目に、うわづかいで聞いてくる朱莉ちゃん。

 色々に落ちないことはあるが、まったく知らないわけでもない友達の妹を外に放り出し知らんぷりというのはさすがにできない。

 仮に放り出したとして、すぐに罪悪感と心配で気が気じゃなくなるだろう。

 とはいえ、いくら友達の妹とはいえ、異性の、それもこんな美少女を泊めるなんて、もしも万が一の間違いでも起きてしまったら──


 ああ、なんだか頭がぐるぐるしてきた。

 このまま流されてしまったほうがいいだろうか。いや、でも、そう簡単にすませていい話じゃない。

 そんな風に思考を行ったり来たりさせていると、突然部屋の中にピンポーンと軽快なチャイム音が響いた。

「あっ、来ましたね」

 俺よりも早く朱莉ちゃんが反応し、そのまま玄関の方に行ってしまう。え、何!?

「ふぅ、やっと届きましたー」

 玄関でのやり取りを終え、帰ってきた朱莉ちゃんは旅行に持っていくような大きなトランクケースを持っていた。

「あ、朱莉ちゃん、それって──」

「はい、着替えとか、お泊まりに必要な諸々です。さすがにずっと制服のままでいるわけにはいきませんし」

 どうやら完全に泊まる前提で、あらかじめ宅配便を使い荷物を発送していたらしい。

 ずいぶんと用意周到で……って、あれ? これ、着々と外堀埋められてる……?

「それと……」

 部屋にトランクを置き、再び玄関に向かう朱莉ちゃん。そして帰ってきた彼女が抱えていたのは──

「お布団ですっ!」

「布団!?」

「さすがにずっと床で寝るのは気を遣わせちゃうと思ったので、購入しました」

「いや当たり前のように言うけれど!」

「ああ、ご心配なさらず。このお布団代は必要経費ですので借金には影響しません」

「心配というか、絶対500円以上してるよね!?」

「でもニ○リですし……」

「ニ○リだから何!?」

「お値段以上なので実質プラマイゼロですっ!」

 この子、本当にしっかり者と評判の宮前朱莉ちゃん本人なのか? 双子の姉妹とかじゃないよな?

 さも当然のようにドヤ顔を浮かべて言い切る朱莉ちゃんに、俺はそんな失礼な感想を抱かずにはいられなかった。


 とはいえ、着替えに諸々のお泊まりセット、そしてわざわざ購入された布団が目の前にあるのはまぎれもない事実だ。

 とうの展開で急速に埋められた外堀は、埋められすぎて逆に山のようにそびえ立ち、俺の逃げ道を完全にふさいでいた。

「そういうわけで先輩っ」

 そしてそれを見事に成した朱莉ちゃんは、今日一の笑顔を浮かべつつ、俺に向き合った。

「今日からどうぞよろしくお願いしますっ!」

「……ちなみにいつまで泊まる予定……?」

 なんだかもう抵抗する気も削がれてしまって、そんな降伏宣言にも等しい質問をする。

 まだ昼過ぎだというのに、なんだかすごい疲労感だ。

「もちろん兄の借金問題にケリがつくまで……それか、私の目的が果たされるまでです」

「朱莉ちゃんの、目的……?」

「内容は秘密です。まぁ、果たせたらその時はお伝えするというか、嫌でも分かるというか……えへへ」

 朱莉ちゃんは照れくさそうにほおをかく。いや、まったく分からない。

「どちらにせよ、夏休み中には決着をつけたいと思っています!」

「そ、そう」

 夏休み中……高校生の夏休みでも約1か月ある。長い。

 1か月も彼女と一つ屋根の下で暮らし続けて、果たして理性をたもてるだろうか。

 彼女も俺をそういうことしないって踏んでいるからこうして単身で乗り込んできているんだと思うんだけど、いや、でも、俺だってそういう経験が皆無とはいえちゃんと男であるわけで。

「これは本気で取り立てた方がいいな……」

「ふふっ、そう焦らず。気長にいきましょう、先輩」

 そう微笑む朱莉ちゃんは、まるでこれからの暮らしにワクワクしているように思えた。

 彼女が人見知りしない、明るい性格なおかげで気まずさはないけれど、とはいえ──

「ふぅ、なんだかいっぱいしやべったらのどかわいちゃいました」

 ちょっと自由過ぎる感じもする。まぁ、に関しては彼女の兄のおかげで慣れているけれど。

「はいはい、お茶のおかわり出しますよ」

「えへへ、ありがとうございますっ」

 先ほどよりも随分と重くなった腰をなんとか上げ、キッチンで空になったグラスに麦茶を入れる。今度は自分の分も含めて、2つ。

 朱莉ちゃんの要望通り、彼女の分には砂糖を入れて──なんとなく、自分のものにも入れてみる。

「う……うん。やっぱり、甘い」

 その味は妙に懐かしく、しかしあの頃よりもずっと甘い感じがした。

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