怪奇綺譚
雪代
巣立ちの日に
ネグレクト、という言葉を知ったのは、確か小学三年生の時だった。
夕方のニュースで、ネグレクトと虐待の末亡くなった幼稚園児の話がやっていたのだ。
派手なドレス姿の母は画面に釘づけになる私を見て突然怒鳴り出し、テレビのコンセントを引き抜いてこんなもの見るな、時間の無駄だと叫んだ。
それで悟った。
――ああ、私もこの子と一緒なのだと。
食事を作ることもなく掃除をすることもなく、ただ煙草と香水の匂いだけを連れ帰って八時間後には出ていく、そんな母の元でも私が健康と清潔を保てたのは、きっとおばあちゃんのおかげだと思う。
おばあちゃんはいつも優しかった。
トーストの焼き方を教えてくれたのも、畳の掃き方を教えてくれたのもおばあちゃんだった。
そうそう、授業参観にも来てくれた。誰にも見えなかったけど。
私が作り置きと一汁三菜の食事を覚えた頃、母は帰ってこなくなった。
『どうせ私がいなくても平気なんでしょう』、という書置きを残して。
一緒にそれを見ながら、おばあちゃんは、あんたに頼ってほしかったのかもねえ、でもいいんだよ、あんたがちゃんと成長するのが一番だからね、と呟いた。
高校をやめて働くと言ったら、おばあちゃんは天井まで身体を上下させながら激怒した。初めての喧嘩だった。
でもどうしろっていうの、通帳もお金も全部持っていかれちゃったのよと叫ぶ私に、おばあちゃんは鼻先まで真っ白な能面の顔を突き出しながら掃除をしなさい、と言った。
日曜日、言われた通り箪笥を漁ったら出てきた。ほとんど新品のドレス、綺麗な宝石、そして男の人に貰ったらしい封筒。きっと忘れてたんだね、と、おばあちゃんはいつも通りの優しい声で笑った。
役所や学校への相談にも付き添ってくれた。おばあちゃんが言う通り繰り返したら、職員さんも先生も凄いね、しっかり考えてるんだね、と驚いていた。
それから六年。大学を卒業した私は今日、このアパートを出る。
「ねえ、おばあちゃん」
まっさらになった部屋で、私は呟いた。
なんだい?と、おばあちゃんが尋ねる。
「こういうのってさ、大人になったら見えなくなるものなんじゃないの?それか突然食べられたりとかさ」
あんたにかい?そんなことするわけないじゃないか、と、おばあちゃんはくすくす笑った。
「本当に一緒に来ないの?」
ああ、いいんだよ。あんたはあんたの道を行きなさい、と言われて、涙があふれてきた。
「おばあちゃんは、どこに行くの?」
あたしはね、前の家に帰るのさ。
「前の家って?」
そのうち分かるよ。
きっと、おばあちゃんとはまた会えるんだろう。なぜかそう、確信した。
でも、でも。
「……寂しいよぉ……」
おばあちゃんはいつも通り触手を伸ばして、私を抱きしめてくれた。
私が落ち着いた頃、おばあちゃんはかたかたと牙を鳴らしながら囁いた。
さあ、行こうか。
「……うん」
部屋の鍵を持つ。無くさないようにとおばあちゃんに言われて小学生の頃からつけていたキーホルダーのぬいぐるみを、ゆっくりと外した。
「行ってきます、おばあちゃん」
何もなくなった部屋で、おばあちゃんは、いつも通り窓に貼りつきながら見送ってくれた。
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