第3話   婚約者の幼なじみから逃げる

 帰宅すると、光輝さんに食事を食べなさいと言われたけれど、気分が悪いと断った。


 そのまま部屋に戻り、痛み止めを飲んで、ベッドで休むことにした。


 本当はシャワーを浴びたかったけれど、ティファさんが浴室に入ってしまったので、我慢した。 


 わたしはここを出て行かなくてはならない。


 ノートパソコンも壊れてしまって、借り物を持ち出すことはできないと思った。


 やはり購入するまで大学で借りよう。


 住む場所も探さなくはならない。保証人を頼める人がいないわたしが住める場所は探せるだろうか?学校に相談してみようか?


 少し仮眠するつもりで眠ったら、目を覚ますと深夜だった。


 この部屋にはわたしが住み始めてから洗濯機が入れられた。光輝さんが置けるように手配をしてくれたのだ。深夜に洗濯機を回すのは、迷惑のような気がして、お風呂で洗濯物を洗って、1分だけ脱水をした。


 新しいキャミソールを着てバストバンドを装着して、二着のうちのもう一着の洋服を着ると脱水をされた洗濯物を持って部屋に戻る。


 電気の落とされたリビングとダイニングを見て、電気の消された光輝さんの部屋の扉を見て、扉を閉める。


 短い時間だったけれど、思い出の詰まった部屋だ。


 湿った洗濯物をビニールに入れて、最低限の荷物を纏める。鞄に荷物を入れながら、日曜日は学校の事務所が閉まっていることに気付いた。


 けれど、ここを出て行かなくてならないと思った。


 家を出たときのように、荷物はたくさん入れなかった。


 現金と貯金通帳と印鑑と少しの着替えと学校の教科書だ。


 わたしにはスマホがある。


 入院中に手渡された、新しい真っ赤なスマホだ。最新機種だと光輝さんは言っていた。電話番号も変わっている。光輝さんが用意してくれたスマホだ。



「遅くなったが、美緒の誕生日祝いだ」



 そう言って渡されたスマホには、光輝さんの連絡先が登録されていた。


 わたしは、それを持ち歩くようになった。電源を落とさなくても電池が切れることはない。


 入院中は光輝さんとスマホで会話をしていた。すぐに返事が返ってくるのが、とても新鮮で楽しかった。退院してわたしが学校に行きだしても、その会話は続いていた。離れていても側にいるのだと思わせてくれた。わたしの心の拠り所になっていた。


 学校でスマホを見ていたわたしに気付いて、恵は初めて電話番号を交換してくれた。


 二つ目の登録に、わたしはすごく嬉しかった。


 そのスマホは置いていくことにした。


 お別れするなら、光輝さんが使用料金を支払っているスマホを持っていることはできない。


 メモに念のために光輝さんの電話番号を記入して、持ち出したのはわたしの甘えかもしれない。



『お世話になりました』



 ホテルのメモに書いて、机に置いた。それから、荷物を持つと、部屋から静かに出て行った。


 カチリと音がした部屋に、もう戻る事はできない。鍵も部屋の中に置いて来た。


 寂しいなと思う。


 わたしは光輝さんをちゃんと好きになっていたのだと、今だから自覚できる。


 好きになるのは時間じゃないと思う。


 ホテルから出ると、今にも雨が降りそうな空だった。月も星も出てない暗い夜道を歩き始めた。




 …………………………*…………………………






 道に迷いながら歩いて、結局、見つけた駅から始発で電車に乗り、大学がある駅で降りて、街を歩いた。


 学生街だからか、ネットカフェも多い。看板に鍵付き個室と書いてある比較的大きいお店に入った。


 以前にどうしても我慢ができなくなったら、家から逃げだそうと探した事があった。その時、探しておいた店だ。



「いらっしゃいませ」


「あの、宿泊はできますか?」


「はい、できます。お値段はこちらです」


「お願いします」


「ご案内します」



 店員がブースに案内してくれる。



「こちらでよろしいですか?」


「はい」


「お風呂は別料金で入れます。フリードリンクです」



 指を差して、方向を教えてくれた。



「はい」


「では、ごゆっくり」



 店員はブースの扉を開けて、立ち去った。


 荷物が多いので、開けてくれたのだろう。


 わたしは小さなスペースに入っていった。扉を閉めて、荷物を床に置いた。


 すぐに施錠する。


 ハンガーが一つ壁に掛かっていた。わたしは昨夜洗った洗濯物を出して、ハンガーにかけた。シワシワになったワンピースを両手で挟んで、シワを伸ばしていく。


 キャミソールとパンティーと靴下とバストバンドは鞄の上に広げた。


 リクライニング式の椅子に座って、まずは仮眠をしようと思った。とても疲れていた。足元に置かれているブランケットを広げ、体にかけて、痛くないように体の位置をずらす。




 …………………………*…………………………






「美緒、起きているか?朝食の時間だ」


 扉をノックしても返事がない。


 俺は扉を開けた。


 寝顔の美緒は可愛い。


 時々、覗いて見ていることもあるけれど、それは内緒だ。


 昨夜は、疲れていたのか、本当に体調が悪かったのか、夕食の時間に来てみたが、ぐっすり眠っていた。無理に起こそうとは思わなかった。夕食は念のために冷蔵庫にしまっておいた。目覚めてから食べればいいと思った。


 夜中に夜食を頼むことを嫌がるので、冷蔵庫にしまうことにしたのだ。


 朝、冷蔵庫を見たら、そのまま残されていた。


 まだ体調が悪いのだろうか?


 机の上のノートパソコンは閉じている。


 まだ眠っているのだろうか?


 ベッドに近づいて、掛布の中に膨らみがないことに気がついた。


 掛布を捲ってみるが、そこには美緒はいなかった。


 寝ていた痕跡は確かにあるけれど、そこに温もりは残っていない。



「トイレか?」



 いや、トイレにはティファが入って行った。


 ふと机を見るとメモが置かれていた。




『お世話になりました』




 メモの隣に赤いスマホが残されていた。



「どうして?」


 スマホの暗証番号は知っている。登録したのは俺だ。変えてなければ、開くはずだ。


 案の定、スマホの暗証番号は変更されていなかった。



「友達の家か?」



 電話帳を開くと、女の子名前が一人だけ登録されていた。


 五十嵐恵の名前を押した。


 呼び出し音の後に、通話が繋がった。



『美緒、どうしたの?まだ早朝よ』


「早朝にすみません。美緒の保護者の円城寺と申します。美緒はいますか?」


『来ていないわよ。美緒に何かあったの?』


「もし、連絡があったら、この電話にかけてください」


『わかったわ』



 プツッと電話が切られた。




(美緒は行っていないのか?)




 誰かの気配はしたけれど、美緒はいないと言った。



(彼女の家には行ってないのか?)




 連絡先が分かる所に行くだろうか?


 美緒は頭のいい子だ。


 簡単に見つかる場所に行くはずがない。



「こーき!飯の時間だ。腹減った!」



 ティファが部屋の中に入って来た。



「光輝、飯!」


「うるさい!」


「ミットモナイな!ミオに捨てられて、泣いているのか?」


「おまえ、美緒がいない事に、気付いていたのか?」


「おう、深夜の2時半だったか?出て行ったぞ」


「どうして、止めてくれなかった?」



 俺はティファの両肩を掴んだ。


 憎くてたまらない。


 こいつが来るまでは、俺たちは幸せだった。


 美緒が吐くこともなくなった。食事もちゃんと食べられるようになったのに。


 こいつは、美緒のための寿司も食べやがった。



「どうして、止める?」


「家出をしようとしているところ見つけたら止めるのが当たり前だ」


「オレは、誰も止めなかったぞ!」


「おまえと一緒にするな」



 ティファは、俺の手を撥ねのけた。



「ちょっと脅かしてヤったら、出て行った!その程度のキモチだったのだろ?」


「おまえ、昨日、美緒に手を出したのか?」




 寿司屋で、清算するために少しだけ目を離した。清算中に咳き込んでいた。


 苦しそうに、痛そうに、咳き込んでいた。


 美緒は傷つきやすい。


 暴力にいつも怯えていた。


 どうして、気付いてやれなかった?




「ちょっとシメただけだ!」


「おまえ、許さねえ」




 拳を固めて、ティファの頬を殴ろうとして、寸止めした。


 ここで殴ってしまったら、美緒の両親と同じになる。


 女に手を上げる男には、なりたくはない。ティファが女かどうかは別として。




「どうした?殴らないのか?」


「出て行け!」




 ティファは鼻を鳴らすと、部屋から出て行った。



(どこにいるんだ?美緒)




 探すあてが全くない。


 今日は、学校は休みだ。学校の事務所も閉まっているはずだ。


 美緒が頼る人はいないはずだ。


 交友関係も、出会った時に調べた。


 親しい友人はいない。男性関係もまったくない。


 姉とも不仲だ。家族もいない。


 実家の鍵も弁護士に返していた。


 捨てた家に帰るはずはないはずだ。


 美緒には行く場所がない。


 手がかりがないか机や箪笥の引き出しを開けて、無くなっている物を探す。クローゼットの中も探す。




(財布、通帳、印鑑、俺の買った洋服、学校の教科書、薬……最低限の物だけ持ちだしたな。後はどうでもいいのか?)



 実家を出るときは、洋服も持ち出していた。


 怪我をしていても、自分の持ち物は全て持ち出していた。二度と家に戻らない覚悟が見えた。今回は戻るつもりがあるのか?それとも捨てるつもりで置いていったのか?


 ベッドに横になると、美緒の匂いが微かに残っている。美緒の甘い香りだ。


 俺は美緒に触れて、触れる度に好きになっていった。お見合いの時の緊張した顔も可愛かった。苔むした石で滑った美緒を抱き留めた時は、あまりも腕にしっくりして俺のものにしようと思った。初めてのデートで見た笑顔が可愛すぎた。キョロキョロとよく動く瞳が可愛らしかった。傷つき流す涙を止めてやりたかった。


 好きになれなかったら別れればいいなんて、言った事もあったけれど、あれは嘘だ。


 俺は美緒を手放すつもりは微塵もなかった。


 どこを探す?どこを探したら見つけられる?




「光輝、かっこ悪いな!泣いているのか?それとも、ミオのノコリガを嗅いでいるのか?ヘンタイ!」


「うるさい、出て行け!」


「飯、食え!腹が減っては、イクサに負ける!」


「それを言うなら、腹が減っては戦ができぬだろうが!」


「言い返す元気が出たか!フン!」



 ティファは部屋の前から離れて、テレビを点けた。




 …………………………*…………………………




『ミオ、おまえ、暗いな!根暗の上に涙で光輝を縛っているのか?最低だな。光輝には似合わねえ。光輝のために出て行け。おまえがいたら光輝のためにならねえ』



 疲れているのに、眠れない。座り慣れないリクライニング式の椅子から下りて、椅子をずらし、床に横になったけれど、それでも眠りはやってこなかった。


 ティファさんが言った言葉が、ずっと頭の中を巡る。


 確かにわたしは光輝さんに依存しすぎていた。涙で縛ろうと思った事はないけれど、甘やかしてくれる光輝さんに縋っていたのは事実だ。もっとしっかりしなくては。


 今まで、あのイカレた家族の中でもちゃんと生きてきた。誰にも頼らず、自分だけを守って。


 大嫌いな家族は、もういなくなった。わたしに危害を与えてくる者は、もういない。



(強くなれ、わたし。一人で生きて行くんだ。しっかりしろ)



 自分を奮い立てても、意欲が芽生えない。


 脅かす物は、もう何もないはずなのに、心はひたすら寂しくて、悲しくなる。


 結局、泣いていた。


 今日はどんなに泣いても誰にも迷惑をかけない。


 明日立ち上がるために、今日は泣いてもいい日にしようと思った。



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