第6章 過酷な試練

31、空中散歩

 空中散歩館は通りを10分ほど歩いた所にひっそり立っていた。店の入り口は狭かったので大人は腰をかがめて中に入った。腐った木の臭いとブワッと広がる嫌な湿気に鼻が折れ曲がりそうだ。


 待合室のような部屋で、既に客が10人以上まばらにいた。嫌な視線は感じなかった。ジグは私服だったし、エシルバたちも今はシクワ=ロゲンの制服を身に着けていない。だからここに使節団のメンバーがいると気付く人間はいないだろうとエシルバは思った。しかし――


「やぁ、こんにちは。使節団の皆さま」

 と店主がカウンターの奥から話し掛けてきたので周囲はエシルバたちの姿を凝視した。エシルバはフードを目深にかぶった。ジグは店主にチケットを見せて手続きを始めた。エシルバたちは手続きが終わるまで、そばのベンチに腰掛けて待つことにした。


「おい、見ろよアレ。昆虫の唐揚げだってさ。こんなのに金を払うやつがいるのか?」

 リフがそばにある赤色の自動販売機を見て言った。太った大男がその自販機にお金を入れてカメムシの唐揚げピリ辛風味のボタンを押した。数秒後、作りたてホヤホヤの唐揚げが出てきて、男はそれをポップコーンみたいに食べながら席に戻っていった。


 リフは、本気で吐きそうな顔をしていた。

「昆虫食はトロレルの立派な食文化なのよ」

 ポリンチェロが言った。


「じゃあ君、食べられるの?」

 リフは口に手を当てながら言った。

 ポリンチェロはバックから昆虫のドライスナックをチラッと見せてニタッと笑った。なぜかそれを見たエシルバ、リフ、カヒィは負けた気分だった。


 ジグが手続きを終えて戻ってきた。今まで虫を食べたことがなかったエシルバは、さっきあったことをジグに尋ねてみた。彼は遠目にカメムシの唐揚げを食べる男を見ながらこう言った。


「きっと彼はトロレル出身なんだろう。服装を見てもそうだし、トロレル人の大好物は昆虫だからね」

 エシルバは絶句した。


「うそだと言ってくれ」

 とリフ。


「うそじゃないわ。トロレル人は大昔から地底で捕れる昆虫を食べてきた」

「トロレルの虫はアマクの虫と違ってスイートポテトの味がするそうだよ。今度ブルウンドにトロレルの昆虫フルコースを出してもらおうか」


 エシルバは想像しながらブルブル震えた。

 話し込んでいるうちに、先に待っていた客が次々とアーケードの向こうに消えていった。リフは自分たちの番になるのが待ちきれなくてずっとソワソワしていた。


「空中散歩が終わったら、次は射的ゲームでもしない? ほら、バドル銃の練習にもなるだろ?」


 リフが話し掛けてきたがエシルバはそれどころではなかった。部屋の隅に座っている男がさっきからじっとこちらをにらんできているのだ。

「あの人様子が変だわ。さっきからずっとエシルバのことを見ている」

 ポリンチェロが心配げにジグに言った。ジグは男の方を見ずとも最初からその存在に気付いているようだった。


「次はあなたたちの番ですよ」

 空中散歩館の店主が言った。


 エシルバが空中散歩館のメインゲートをくぐる頃には、あの怪しい男のことなどすっかり忘れてしまっていた。それぞれ案内役の男に連れられて長い階段を上った。頂上に達すると、そこには素晴らしい光景が広がっていた。


 透明なバルーンドームの下には見たこともないような植物が生い茂り、人工的につくられた美しい川と石造りの橋が見える。草原では首の長い動物たちが草をはみ、黄金色の虫が群れを作って幻想的な虹をつくり出している。空中を歩く客の姿が豆粒サイズに見える。


「このドームは空中散歩を実現するために、綿密なブユエネルギー対流設計が施されています。空中散歩を楽しむには、この特製ジャケットを身に着けてください。そして、この安全ベルトをした上で空中に足を踏み出してください。


 こちら側からの注意点として……草原にいるパケオリプスには餌を与えないでください。また、場内での写真撮影は禁じられていますのでご了承ください。それでは、お楽しみください!」


 男は階段を下りて受付に戻っていった。みんなはジャケットを身に着けて眼下に広がる箱庭を見下ろした。ポリンチェロは身をすくめてしっかりジグの腰にしがみついている。エーニヒィは怖がりなスピーゴのことが心配なのか付きっきりで、ムレイはアーケード前でお留守番だった。


「あれ? 君、高所恐怖症だっけ?」リフがちょっかいを出すように言った。


「そう言うあなたも、顔が引きつっているわよ」

 ポリンチェロは言い返した。


「本当にこれ、踏み出して平気なの? そのまま落ちていきはしないよね。命綱はついているみたいだけど」

 エシルバは不安になって言った。ジグが突然空中に足を踏み出して目の前から姿を消した。エシルバたちは背筋がゾクッとなって大慌てで身を乗り出した。


「こっちだよ」

 ジグの声だ。振り向くと後ろでジグが浮かんでいた。


「心配しなくてもいい。ここはあくまで僕らにとって空中歩行ができない人のための、空中散歩を楽しむ娯楽施設にすぎない。君たちになにかあったら僕が助けるさ」


 エシルバは心の底から安心した。

「最初は手をつないだほうがいい」


 エシルバは手をつなぐ必要なんてないと思ったのに、ポリンチェロが怖がってそうさせてくれなかった。最初にエシルバが踏み出して空中をヨロヨロ歩いた。身体が一瞬ガクンと下がったが、地に足がついていない感覚は妙な気分だった。ポリンチェロはジグの肩を借りながら足を踏み出し、次にカヒィ、最後にリフがストラップのようにしてついてきた。


「押すなよ」

 リフは完全にビビっている。


「向こうの橋まで行こう」

 エシルバが提案した。


 それぞれ肩を並べ、小さな川の向こうにある橋まで歩いた。ジグは相変わらず多弁だったが、3人は空中を歩いている間ずっと無口だった。


「さぁ、やっと着いたね」

 ジグはニコーッと笑った。


「何分かかった?」

 リフが額の冷や汗を拭いながら聞いた。


「えーと、だいたい30分かしら?」

「さっきの黒い鳥、なんていうのかな?」

 エシルバは周囲を見渡した。


「鳥?」リフが言った。

 エシルバが最初に来たゲートを見ていると、見知った人影がこちらに向かって優雅に宙を蹴って来るのが目に留まった。


「あっ! エーニヒィたちだわ。おーい!」

 ポリンチェロが芝生の上で跳びはねて大きく腕を振った。エーニヒィたちは目の前で上手に着地すると清々しく笑った。


「うまく歩けた?」エーニヒィが笑いながら言った。

「うん、歩けたよ」エシルバは誰よりも先に言った。


 空中散歩は再開したが、エシルバは誰とも一緒ではなかった。ジグはリフに付きっきりで、カヒィとポリンチェロは中庭の美しい噴水の上で水と戯れていたからだ。いくらロラッチャーの操縦が天才的なリフでも空中散歩が苦手なのは意外だった。


 1時間もあれば空中を歩くことに慣れが生じた。この特製ジャケットを脱げば、体は鉛のように地面に落下していくのだろう。そんなことを想像して急に怖くなった。エシルバは次第に空中を歩き疲れて赤い木の実がなる茂みのそばに着地した。遠い上空にみんなの姿が見えた。


 エシルバは赤い木の実をまじまじと見つめた。つやのある果実の表面に見とれていると、そこに自分以外の顔が反射しているのが分かった。驚いて振り返ったが、もう遅かった。誰かがすさまじい勢いで迫ってきてエシルバを押し倒した。首を手でつかまれ、息が苦しい。エシルバは目の前の人間を見た。控室にいたあの男だ!


「シーッ」


 男は声をひそめ上空のジグたちを見上げた。やがて視線はゆっくりエシルバに向けられる。目元に大きな切り傷のある痩せ型の男だ。髪はボサボサで吸い込まれてしまいそうな暗い目が光っていた。エシルバは恐怖のあまり体が氷のように固まった。


「お前がエシルバ|スーだな」

 低い声で男は言った。


 エシルバはウン、ウンとうなずいた。


「警告だ」


 警告? エシルバは頭の中で疑問符を浮かべた。


「トルザ=クドナイとは絶対に関わるな」


 トルザ=クドナイ? あぁ――知っている。男が力を緩めたのでエシルバはようやくまともに息を吸うことができた。


「あなたは誰?」


 男の力が再び強まった。

「トルザ=クドナイはお前の命を狙っている」


 男は一方的に言うだけだった。


「お前には全世界の未来が懸かっているんだ。絶対に死ぬな」


「僕の教え子になんの用だ」


 ジグがバドル銃の刃を男の首元に突きつけて立っていた。男はエシルバを乱暴に離すと、茂みを飛び越えてガラスを壊し外へと逃げていった。


「もう大丈夫だ」


「ありがとう」


 エシルバは立ち上がった。


「君の命を狙う者や利用しようとする者もいるんだ。僕が見るにあの男はどちら側の人間でもなさそうだけど油断ならないのは確かだ」


 エシルバが気難しそうにしているとジグは手をたたいた。


「行こうか。この件は僕の方から上に報告しておく」


「もう、エシルバったら人の話聞いているの?」

 ポリンチェロの大きな声に驚いて、エシルバはサバサンドを危うく落としそうになった。中身が皿の上でぐちゃぐちゃになっていた。一行は空中散歩を終えてサバサンド専門店のカフェスペースに座っている。昼のピークは過ぎたので、たいして順番待ちせずに済んだ。


「え? ごめん。なんだっけ?」

 エシルバは生玉ねぎのスライスやレモンを拾いながら言った。


「ブルウンドに買っていこうと思うんだけど、なにがいいと思う?」

「生ハムがいいんじゃない?」

「それいいね。生ハムとピクルスにしよう」リフが言った。

「顔が青い。大丈夫?」


 ポリンチェロが額に手を当ててきたのでエシルバは「平気だよ」と言った。本当はトンカチでたたかれたように頭がズキズキして不安で胸が苦しかった。あの男の「死ぬな」という言葉が頭の中に残っていた。首をつかまれた生々しい痛みも残っている。あの男は警告をしにきたと言っていた。


 何かが起こる前兆なのだろうか? エシルバはバンズに具材を挟みながら肩を落とした。おいしいはずのサバサンドが、今はいくらかんでもゴムのような食感でしかなかった。


「ねぇ、トルザ=クドナイってなんなの?」

 エシルバが聞いた。


「君、知らないの?」リフが驚いた。


「平和議会、ジリー軍、シクワ=ロゲン、どの傘下にも入らない秘密結社のことだ」答えたのはエーニヒィだった。


「会員数は全世界で3千万人にもなる巨大組織さ」

「表向きはより良い組織と個人の幸福を願っているみたいだけど、その実態は正反対のようだ。裏では武器の密輸や奴隷商が行われているらしい」


 ジグのあいまいな言い方にエシルバはこう聞いた。


「悪い人たちなのになぜ捕まえないの?」


「彼らの本拠地がどこにあるのかさえよく分かっていないんだ。政府も証拠がなければ動くことはできない」とジグが答えてくれた。


「しぃ!」いきなりカヒィが声を潜めた。「トルザ=クドナイの会員は普通の人に交じって暮らしている人もいるから、見分けがつかないんだ。あんまりこういう話を人が多い所でするもんじゃない。ってお父さんが言っていたよ」


「まぁ、やつらとはあんまり関わらない方がいいってことさ」

 リフがムシャムシャ口を動かしながら言った。


 サバサンド専門店を出た一行は飲食店街の東通りを抜けて娯楽施設が立ち並ぶ南通りに戻った。そこで立ち寄った「レエダーモ」でリフはお金を賭けようとしたが、その前に射的ゲームで大負けしていたので財布の中身はすっからかんだった。


「レエダーモってなに?」

 エシルバは大きな看板を見上げながら言った。


 ~レエダーモ 観戦チケット直売所~


「トロレルの伝統的なスポーツだよ。大きな虫を操ってレースをするんだ。上位入賞者にはたんまりと賞金がでる」と、珍しくムレイが答えてくれた。彼は無表情だが親切そうな人だった。


 エシルバは人だかりの向こうに視線を送り、人々が何に夢中になっているのかが分かった。みんな一つの大きな画面に熱い視線を送っている。画面には大人の3倍はある昆虫の背中に乗る選手の姿が見える。さっき、から揚げにされていた昆虫の100倍以上はある。選手と昆虫は洞窟のような場所を猛スピードで走っていた。こんなスポーツが世の中にあるなんて信じられない気分だ。


 帰りの列車の中は静かだった。リフとポリンチェロは肘掛けに寄り掛かって仮眠をとっていたし、ジグとエーニヒィはゴイヤ=テブロでニュースを見ていた。エシルバは生ハムサンドが入った紙袋を抱えながら眠りについた。


 疲労のせいか悪夢を見た。血まみれになったアルがエシルバの足にすがりついてきて「痛いよ」と何度も訴えてくる。エシルバは何度も彼に謝り……体が一瞬けいれんしたようにはじけ起きた。


 ちょうどポリンチェロが起こそうとしていたところだった。

「悪い夢でも見たの?」


 列車は大樹堂の地下鉄ホームに終着していた。エシルバは眉間に手を当ててホッと一息ついた。

外はすっかり夕焼け色で満たされ、大樹堂は赤々と燃える炎の柱みたいになっていた。トロベム屋敷に戻るとブルウンドはお土産の生ハムサンドを喜んでくれ、夕食のデザートを一品増やしてくれる約束をした。


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