取り戻せない代償

春嵐

第1話

 この依頼を受けるときに。彼氏と別れた。

 命を賭けることになる。そんなときに、彼氏の顔を思い出したくはなかった。

 そんなに好きでもない。なんとなく周囲の雰囲気に押されて、友達がみんな恋人を作っていて、そんなどうでもいい理由。

 別れを切り出された彼氏はひどく狼狽ろうばいして別れたくないだの変えられるところは変えていくだの、よく分からんことをのたまった。正直損なのどうでもいい。別れたいから別れる。他に何もない。

 よく考えたら、好きでもなかったのか。身体にも触れさせなかった。付き合うといっても、ときたま一緒に過ごすだけ。友達以下。


「おい」


 後ろから声をかけられる。

 大柄な男。


「受けたのか。依頼を」


 わたしの上司。


「ええ、まあ」


 掴まれそうになったので。華麗に回避。スカートがひらひら。


「何やってるんだ。そもそも依頼のことすら話していないのに」


「ええ。聞きましたから。わたしが」


「そんなひらひらしたスカート穿いてるやつに務まる依頼じゃない。今すぐ男のところにでも帰れ」


「別れましたけど」


「別れたあ?」


 好きというなら。この上司のことが好きだった。大柄なくせに、中身が繊細。得意技は関節極めてからの派手な投げなのに、料理も得意技。週末にはガーデニングとベランダ菜園にいそしんでいる。


「なんでだ。うまくいっていたと言ってたろうが」


「ええ。まあ」


 当てつけで。付き合いはじめたというのも、いちばん最初にこの上司に言った。相性が良いんですうなんて、柄にもないこと言って。

 この大柄な男は。ぱっと明るい表情でおめでとうなんて。祝ってくれて。依頼もいくつか肩代わりして休みなんてくれたりして。それが、くやしかった。当てつけが、そのまま自分に返ってきたみたいで。

 でも。


「いいから帰れ。男だっておまえなら」


 目の前で、そのわたしが好きな男が。焦っている。わたしを死なせまいとしている。


「なんでですか?」


「なにが」


「わたしはあなたの」


 恋人でもないのに。

 言葉を呑み込む。


「あなたはわたしの上司ですが、依頼を受けるかどうかは個人の自由でしょ?」


「上司は部下を安全に帰す義務があるだろ。だからだめだ」


「死んでもいいかなって思ってるんで。むだです」


 まだ腕が飛んでくるので、避ける。


「なんですか。そんなに部下のからださわりたいんですか?」


 死にたいと思ったのは、べつに今が初めてではない。ずっと心の中にわだかまっていて、それが死にたいという気分だと分かったのは。そういえば、この人と結ばれないと思ったあたりからかもしれない。


「じゃあ、わたし行きますから」





 簡単で、単純で、そして無理な依頼だった。

 失敗した。

 いま。

 腹にふたつ。脚にひとつ。穴が開いた。


「たすからないなあ」


 呟いたけど。なんか紅いものしか出てこなかった。

 死ねる。

 それはそれでいい。

 上司の顔が、なんとなく浮かぶ。

 そう。

 こうしたかった。

 死ぬ前に思い出す顔が。上司でいてほしかった。自分が好きなひとの。かおを。おもいだして。しぬ。

 好きでした。だめだったけど。デート誘ってもだめだったし。料理も観葉植物も、やってみたけどぜんぜんできなかったし。合わなかった。合わせたかったのに。

 まあいいや。

 しぬし。

 おやすみ。

 おやすみなさい。





「お。起きたか?」


 え。


「おい動くな。腹にふたつ。脚にひとつ。穴が開いてる」


「ぐ」


 ごほっごほっ。


「動くなって。穴が開いてるだけで、傷を負ったってわけじゃない。じっとしていれば空いた穴もふさがる」


「え」


 むり。むりむり。


「おいおまえ」


「しにたいから」


 動く。

 だめ。

 腕。掴まれて。極められる。


「いだい」


「そりゃあいたいだろうが。動いたら絞まるようにめてる」


「なんで」


「死んでほしくないからさ」


「いいでしょ。べつに。恋人でもあるまいし」


「俺のことが好きだったんだろ?」


「ぐ」


 なんで。いたい。腕がじゃなくて、心が。いや腕がいたいのか。わかんなくなってきた。ぐるぐるする。


「おまえに彼氏ができたって聞いたとき、ああ、俺が弱いからだなって思ったよ。料理にもガーデニングにも付き合ってくれてたのにな。俺には」


 腕が離れる。


「俺には、おまえを満足させられる自信がなかった」


「なにそれ」


 かろうじて、これだけが口を出てきた。


「なにそれ」


 これしか言えんのかわたし。もう少し、もう少しなんかあるだろう。


「俺は弱くてな。生まれてこのかた誰かの心に踏み込むような真似をしてこなかった。だからこそこんな仕事をできてるんだが」


 上司。言葉を選ぶようなしぐさ。そう。こういうときあなたは必ず腕を組む。だからわたしはいつも逃げられるのに。動けない。


「ああ、好きだった人が当てつけで恋人をつくったって、なんか、とてもわるい気分になった。すまん」


「やめてください」


 うわあ。

 しにたい。


「俺には、なんというか、そういう資格がないんだ。元から弱くてな。この弱さは、取り戻せない代償みたいなもんだ」


「だから、わたしに生きろって言う。わからない」


 おっ多少は喋れる。


「わたしが死んだってどうでもいいでしょ」


「俺も好きだったから」


 それは。


「だから、ちょっと目にかけてしまった。すまん。ほら。穴もふさがった。あとは死ぬなりなんなり好きにしてくれ。もう動けるだろ」


「依頼は」


「終わった」


 動ける。穴もない。不思議。


「狐が食い破った穴だからだ」


「狐?」


「しらなくていい」


 どうしよう。


「あの。わたし。彼氏と別れたんで」


「そうか。じゃあ復縁しろ」


「いや。そうじゃなくて。なにかわたしにかける言葉とか」


「俺は処女じゃないといやだ。誰の子供か分からないとか、そういうのもあるし」


「は?」


「いや、気にすんな」


「でかい図体のくせにみみっちい恋愛観をお持ちですね?」


「やめろ。終わった話だ」


「は?」


「いや。だから」


「は?」


 だめだこれ。


「よし決めた。わたし決めました」


 このひとがわたしに告白するまでここにいる。


「おい」


「ちょ、ちょっと。逃げないでください」


「ぐえ」


 腕を捕まえて、極める。おらおらおら。


「言ってくださいよ。好きでしたごめんなさいって言え。上司のくせに部下のことが好きになりましたごめんなさいって言いなさいほら」


「やだ」


「ぶりっこすんな。大柄の男のくせして」


 そう。大柄の男のくせして。

 わたしも。

 わたしもそうだ。

 かわいい女のくせして。

 どうでもいい彼氏にはからだもさわらせてないのに。

 こうやって、好きなひとの腕をとって。

 めてる。っていうか絞めてる。

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