プロローグ 零和8年7月
「全体主義的な統治における理想的な臣民は、熱狂的なナチ党員でも筋金入りの共産主義者でもなく、もはや事実と虚構の区別も、真と偽の区別もつかない人々なのだ」――ハンナ・アーレント
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俺はサディストじゃない。弱い者をいじめて喜ぶ趣味はない。
どちらかというと血を見るのは苦手だ。自分のも、他人のも。
でも結局は慣れとコツだと思う。数をこなして、その時には「しかたがないんだ」って自分に言い聞かせる。それで大抵の不安や後ろめたさは、やり過ごすことができる。
「オラ! 逃げんじゃねぇ!」
コンクリの壁と天井に複数の声が響く。昨日の雨のせいで嵩が増している地下水路の、脇にある歩道部分。
ぬれた床に、狩りたてられた獲物が押さえつけられていた。
今日駆除される、不運な〈ゴキブリ〉――無精ひげの浮いた、薄汚れた身なりの二十歳前後の男。
同じ制服を身につけた子供たちに捕らえられ、床に頭を押しつけられて、すすり泣く。
「泣く前に謝れ!」
「手ぇかけさせてごめんなさいだろ!? ほら言えよ!」
十五やそこらのガキ共に罵倒されても無抵抗。
それもそのはず。取り囲む制服は〈生徒会〉のもの。〈西系〉の人間にとっては恐怖の象徴だ。
「ご、…ごめ…」
「聞こえねぇな!」
もごもごと何かを言ったゴキブリの鳩尾を、取り囲んでいたメンバーが蹴り上げる。
「
「持ってないけど、見た感じそいつ、もうのびてんじゃん」
翔真は、ぐったりとして動かないゴキブリを爪先で揺すって、「あ、ほんとだ」と仰向けに転がした。
「で、誰がつぶす?」
部活のため、いつも短めに切ってる髪をかきながら、翔真が周りを見る。
「あのぅ…」と、おずおずとした声が上がった。小さく手を挙げているのは新人の女子だ。
小出昴(こいですばる)。ぽっちゃり体型で、冴えない見た目だけど、やる気だけは新人のなかで一番。
「よし、昴。来い」
俺が手招きすると、昴は緊張した顔で進み出てきた。翔真がその肩を軽くたたく。
「しくじんなよ」
「はい…」
ごくりと唾を飲み込みながら、昴はナイフを出した。刃渡り十センチほどのバタフライナイフ。扱いが簡単なんで、新人が選びがちな道具だ。
昴は仰向けになったゴキブリに近づき、身体をまたいで立つ。
緊張に青ざめてる。ただ、目だけは異様に輝いていた。
ゴキブリにまたがって、ナイフを深く心臓に埋める自分をイメージする。これまで他のメンバーが、彼女の前でそうしたように。
けど、昴がナイフを握る手に力を込めた――その瞬間。
突然動き出したゴキブリが、彼女の足を払った。
「――――…!」
短い悲鳴を上げ、昴はバランスをくずして後ろに倒れた。
「気をつけろ…!」
俺がそう叫んだ時には、ゴキブリは誰も予想しなかったすばやい動きで、唯一の突破口――背中を床に打ちつけてうめく昴の上を飛び越え、逃げていく。
おまけに、運悪くその先には照明担当の別の新人がいた。
「うわ…!」
ゴキブリに思いきりタックルされた新人は、歩道部分の手すりに身体をぶつける。
大きな懐中電灯が水路に落ち、流されていく。明かりがなくなり、あたりは急に暗くなった。
動揺してざわつく周囲に向けて声を張り上げる。
「落ち着け! スマホのライトあんだろ!?」
俺の声に、みんなはスマホのライトをつけた。その場が明るくなる。
けどゴキブリの姿はどこにもない。
床から身を起こした昴が、泣きそうな顔でうなだれた。
「すみません…! すみません、あたしが…っ」
それにかまわず、頭の中で地下水路の構造を思い浮かべる。
「翔真は左の横道を探せ。
矢継ぎ早の指示に、ベテランのメンバーがすばやく散っていった。
急ぐのは、見失うことを心配してるってだけじゃない。
ゴキブリが人目につく場所に出たら、そこでゲームオーバー。――それが〈生徒会〉のルールだから。
人が見ている場所での駆除は厳禁。強行すれば、市民に不安を与えかねない。
よって駆除はもっぱら人目につかない場所でやる。植え込みで視界が遮られる公園とか、放置された建物の中とか――複雑な構造の暗渠とか。
「……」
肩を落としてる昴に何か言おうとしたとき、翔真から連絡が入った。
『下のほうで足音がする。今俺の前にあるハシゴを使って下に降りたっぽい』
「わかった。――昴、来い」
声をかけて、北のほうに足を向けた。ここでの駆除は何度も経験してる。獲物の動きは予想がつく。
別のハシゴを使って一階下に降り、先まわりをした。暗闇に身を潜め、横にいる昴に言う。
「俺が合図したらスマホのディスプレイをつけろ。ライトはまぶしすぎて俺の目もつぶれるから、ディスプレイだけでいい。いいな?」
「はい!」
昴はめちゃくちゃ真剣に返事をした。熱意はある。ほんと。
じっと待っていると、予想通り、暗い中を慎重に走る感じの足音が近づいてきた。
耳を澄ませて動きを探りながら、俺はポケットから長いワイヤーを取り出し、両手に軽く巻きつける。
次の瞬間、人の気配が目の前を駆け抜けていこうとした。けど、俺の出した足にけっつまずいて派手に転倒する。
「うぁぁ…!」
「昴!」
俺の声に、わずかな明かりがその場を照らした。
水に濡れたコンクリの床に倒れ込んだのは、ゴキブリでまちがいない。
すぐさま飛びかかり、起き上がろうとするゴキブリの背後から首にワイヤーを引っかける。
「ヒッ!?」
悲鳴を上げかけた相手の腰をひざで押さえ、そのまま全力で首を締め上げる。後ろに強く引き、相手をのけぞらせるようにして。
息ができなくなったゴキブリはしばらく抵抗していたものの、やがて力が抜けて、喉をかきむしるようにしていた両腕をだらりと垂らした。
つぶした。でも駆除はまだ終わりじゃない。スマホを取り出し、みんなにグループメッセージを送る。
『終了~。片付けのヘルプ頼む』
俺のメッセージに、手柄をたてられなかった翔真達がブーイングのスタンプを返してくる。
ちょっと笑ってスマホを消し、ポケットにしまった。
「手伝ってくれてサンキューな。まだビビってる?」
ふり返って訊くと、昴は首を横に振る。
「〈西〉の人間はこの国の害虫だから。駆除されて当然です」
「…だな」
ハシゴを下りてきたみんなで力を合わせてゴキブリの死骸を上の階に運び、そこからさらに所定の〈ゴミ捨て場〉まで持っていく。死骸を放置しない。それも〈生徒会〉のルール。
はじめのうちはおっかなびっくりだったことも、今ではすっかり慣れた。
(まったく何も感じないってわけじゃないけど…)
いつも心のどこかに棘がある。どうしても消えないそれが、ちくちく胸を刺してくる。かといって俺にできることは何もない。
しかたがない。しかたないことなんだ。
いつもの呪文を唱えて自分をなだめる。
この先への漠とした不安を見ないふりして、仲間と駆除の成功を喜ぶ。
暗がりでしか許されないことをずっと続けられるはずがないとか――くそおもしろくもない心の声も、仲間と一緒にいるうちは忘れていられた。
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